今こそ原発報道の検証を -世界最悪レベルとなった福島原発事故-
- 2011年 4月 20日
- 時代をみる
- 原発推進報道岩垂 弘新聞の責任
世界を恐怖に陥れた東京電力福島第一原子力発電所の事故は、4月12日、経済産業省原子力安全・保安院と原子力安全委員会よにより、国際的な事故評価尺度の「レベル7」に引き上げられた。ついに原子力史上最悪とされる1986年のチェルノブイリ原発事故と並んだ。17日の東電の発表によれば、放射能放出の大幅低減には6~9カ月かかるという。
これまで、原発を推進してきた電力業界や政府の責任は極めて重いが、原発推進の旗振り役的な役割を果たしてきたマスメディア、とりわけ新聞は、新聞の原発報道にも問題があったと考えているのだろうか、それとも問題は全くなかった考えているのだろうか。今こそ、新聞が原発をめぐってどんな報道をしてきたかを自ら検証してもらいたいと思うのは私だけだろうか。
マスメディアの世界では、しばらく前から、一つの流れが定着しつつある。重大事件や重大事故が起きると、しばらくたった後に、それらをメディアがどう報道したかを検証するという慣行である。事件や事故、その後の経過をメディアがどう報道したかを客観的かつ仔細に検証し、そこから教訓を引き出すのが狙いだ。もし、報道に誤りなり不十分なところがあったことが分かれば、それもきちんと書く。
以前はこうした検証の試みは極めて少なかったが、近年、メディアに対する読者の目が厳しくなってきたことから、読者の信頼を取り戻すために新聞記事に対する検証が盛んに行われるようになったとみていいようだ。最近では、足利事件が冤罪事件であったと確定した後、新聞社がこの事件をどう報道してきたかをこぞって検証したことが印象に残る。
今回の「フクシマ」は、世界を震撼させた重大事故であるうえ、新聞自身がこの60年間、「原発推進」、あるいは「原発容認」の立場で原発問題を報道してきたわけだから、これまでの報道を自ら検証することが求められるというものだ。
60年に及ぶ原発をめぐる新聞報道のすべてをこの小論で紹介するのはとても無理だが、その一端を紹介しよう。
1952年から1957年にかけては、新聞が原発について啓蒙的な報道をした時期。
例えば、1954年7月2日付の毎日新聞には原子力発電についての解説記事があるが、そこには「さて原子力を潜在電力として考えると、まったくとてつもないものである。しかも石炭などの資源が今後、地球上から次第に少なくなっていくことを思えば、このエネルギーのもつ威力は人類生存に不可欠なものといってよいだろう」「電気料は二、〇〇〇分の一になる」「原子力発電には火力発電の場合のように大工場を必要としない。大煙突も貯炭場もいらない。また毎日石炭を運びこみ、たきがらを捨てるための鉄道もトラックもいらない。密閉式のガスタービンが利用できればボイラーの水すらいらないのである。もちろん山間へき地を選ぶこともない。ビイルディングの地下室が発電所ということになる」とある。
1955年12月31日付の東京新聞には「10年後の夢 空想原子力発電所見学記」という記事があり、見出しには「三多摩の山中に新しい火が燃える。工場、家庭へどしどし送電」とある。
1957年8月27日には茨城県東海村の原子力研究所の第一号実験炉に「原子の火」が灯り、日本の原子力開発史上画期的な日となるが、これについて毎日新聞の社説は、こう書く。「原子力の平和利用が民族の生死に関する問題であることを我々はいまもっと切実に認識せねばならない。日本は資源に恵まれていない。いろいろな工業資源に恵まれていないばかりでなくエネルギー資源も貧弱である。ただわれわれの持っているのは人間であり、同時にある程度の工業的水準である。この二つの力を活用する以外に日本民族の繁栄の道はなく、極端にいえば生きる道はないのだ」
その後、1966年7月には日本原子力発電株式会社の東海発電所で日本初の商業原発が営業運転を開始し、日本の原発は本格的な発展期を迎える。1973年のオイルショックが、原発開発に拍車をかける。新聞による原発報道も「推進」一色になってゆく。
なかでも注目を集めたのは朝日新聞が76年7月から9月まで、48回にわたって連載した『核燃料 探査から廃棄物処理まで』だった。これは原発の仕組みと現状を紹介した企画記事だが、その結論は「核燃料からエネルギーをとり出すことは、資源小国の日本にとっては、避け得ない選択である」というものだった。
しかも、この連載に加筆して単行本にまとめられた時、反原発運動関係者の反発を招いた。その「あとがき」に「彼ら(原発廃絶を唱える多くの人たち)が核燃料のことや放射線の人体への影響などについて正確な知識を持ち合わせていないことに驚いた。多くの人たちが、アメリカの反原発のパンフレットや、その孫引きを読んだ程度の知識で原発廃絶を主張していた」と書かれていたからだ。
原発開発が盛んになるにつれて、それに反対する住民運動が1970年ごろから全国各地で盛んになりつつあった。これを新聞が公然と批判したのは初めてだった。
その後目立つようになった傾向は、新聞各紙に原発推進の広告が載るようになったことだ。それは、省エネルギー月間や「原子力の日」(10月26日)に大きく掲載された。
例えば1978年。朝日新聞2月16日付朝刊の6面は「全面広告」で、広告主は日本原子力文化振興財団。広告の内容は「原子力発電への質問状〔1〕」で、漫画家はらたいら氏と三島良績・東大工学部教授の対談。見出しは「ナイスピッチングに期待したい。3人目のエース、原子力発電」。翌2月17日付同紙朝刊の14面は「広告特集」と銘打った全面広告で、広告主は東京芝浦電気、日立製作所、トヨタ自動車、ソニーなど大企業15社。広告内容は「21世紀への提言② エネルギー」。見出しは「資源国との協力を緊密に」「当面のにない手原子力」「信頼性向上がまず必要」「省エネルギー対策急げ」の4本。末尾に「企画朝日新聞社 制作朝日新聞社広告部」の文字。さらに、同紙2月17日付朝刊6面はやはり「全面広告」で「原子力発電への質問状〔2〕」。タレントのイーデス・ハンソンさんと内田秀雄・東大工学部教授の対談で、見出しは「原子力発電の安全性に、神経質すぎる感じ、でも大切なことよ。」。広告主は日本原子力文化振興財団である。
3日続きの広告はまことに壮観だが、読売新聞も負けてはいない。2月25日付朝刊で子ども向けに見開き2ページにわたる「少年科学教室 ぼくとわたしのエネルギー」を掲載した。東海村探訪記があり、「原子力発電のしくみ」も紹介されている。子どもたち自身が取材し、執筆したもののようだが、「広告」「読売新聞文化部指導」「取材協力・(財)日本原子力文化振興財団」の文字がみえる。
その1カ月後の3月25日付日本経済新聞朝刊に「これからのエネルギーをどう確保するか」と題する全面広告が載った。広告主は電気事業連合会。広告の中身は茅誠司・日本学術振興会会長と日本経済新聞論説副主幹の対談。主見出しは「不可欠な原子力発電」。対談記事わきには「電気一〇〇年 これからは脱石油の時代、本命は原子力発電です 電気事業連合会」という十段のキャッチコピーが刷られている。
対談の中で、茅氏は「いま世界にたくさんある原子力発電所で死んだ人はまだ一人もいないのです」と、原発の安全性を強調しており、論説副主幹も「(原子炉の事故確率は)十万年に一回ということになっています」と応じている。
もっとも、新聞報道がすべて「原発推進」だったと言っては正確さを欠くだろう。ごく少数だが、原発開発に警告を発した記者もいた。
例えば、1972年3月に原子炉安全専門審査会が、関西電力が計画中の大型原発である大飯原発、美浜原発3号炉の安全性について「安全は確保される」との結論を出したとき、毎日新聞社会部の河合武記者は「“原子力は公害がない”というのは“ウソ”であるし、万一の事故を考えれば、これほどこわいものはない」「『国民の安全を守る』という原則に立った思想を確立し、その立場から慎重に対処していかないと、取りかえしのつかないことになるおそれも十分ある」と書いた(1972年3月7日)。が、こうした警告も「原発は絶対安全」という電力業界、政府のかけ声にかき消された。
ともあれ、新聞は、これまでの自らの原発報道についてどう考えているのだろうか。電力会社と政府の責任を追及するだけでいいと考えているのだろうか。
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