続・続からくにの記 (その5) 2018.10.23~10.30
- 2018年 11月 27日
- 評論・紹介・意見
- 小原 紘韓国
韓国通信NO581
<智異山(チリサン)>
全州から晋州(チンジュ)までのバスの車窓から智異山が見えた。
韓半島の東側を背骨のように走る山脈が太白山脈。腰骨の辺りが小白山脈、その一帯が智異山国立公園になっている。二千メートル近い山が続く。
智異山は信仰の山として知られるが、「戦いの山」「抵抗の山」「パルチザンの山」としても知られる。秀吉軍の文禄・慶長の役(壬辰・丁酉の倭乱)の激戦地、東学農民たちの逃亡地、独立義兵の拠点、また朝鮮戦争ではゲリラ戦が繰りひろげられた。
20年ほど前、李学永(イハギョン)(詩人、現国会議員)さん、学者の青柳優子さんと三人で、夜、麓までドライブしたことがある。抵抗詩人金芝河に「智異山」という詩があり、趙廷来(チョジョンネ)の小説『太白山脈』、朴景利(パクキョンニ)の小説『土地』も智異山が舞台となっている。いつか訪ねてみたい山である。
<晋州城と論介(ノンゲ)>
慶尚南道、人口34万人の地方都市、晋州。豊臣軍との激戦地。東学農民戦争では釜山から上陸した日本軍、後備第10連隊第1大隊と農民軍が交戦した。また朴景利の『土地』の後半は、主に晋州が舞台になっている。
鄭周河夫人から論介の話題が出た。論介は豊臣軍の武将と命をともにした烈女で韓国では知らない人はいない。「守備兵のほとんどが討ち死にするという激しい戦いのあった晋州城では、勝利した日本軍の宴に侍(はべ)らされた妓生の論介が、酔った日本の将軍を崖の上に誘いだし、抱きかかえて、わが身もろとも川に飛びこんだ」(『中・高生のめの朝鮮・韓国の歴史』岡百合子著)
多くの観光客たちと「論介事件」の現場、晋州城をひとまわり。川に囲まれた静かな町が心に残った。
<統営、統営、統営…>
夕方、晋州からバスで最終目的地の統営に到着。朝鮮半島南端の統営の人口はわが我孫子市とほぼ同じ13万4千人ほど。
統営の海岸道を走る感慨はひとしおだった。ここはお目当ての作家、朴景利と作曲家、尹伊桑(ユン・イサン)の故郷である。統営は二度目。
ホテルでチエックインを済ませると、隣の国際音楽ホールに出かけた。翌日から「尹伊桑国際音楽コンクール」が開かれるとのことだった。
ホテルの部屋から見える統営の町と対岸の巨済島(コジェド)。何という眺めだろう!!
部屋からは対岸の灯、海を行き交う漁船が見え、月と星が瞬いていた。海の入り江が、大きな湖のようにも見える。
尹伊桑は晩年に「もう一度、統営の海岸を見たい」と語っている。その海が眼下に広がっている。彼は少年時代に父親と船に乗って釣りをした思い出も語っている<前出『傷ついた龍』―解放と新生>。遺骨になって故郷に戻ったのは、死後23年もたった今年の3月である。彼の無念を思い浮べながら暗い海を見続けた。
<統営国際トライアスロン大会に巻き込まれて>
フロントでタクシーを頼んだが、「来ない」という返事に当惑した。ホテル周辺一帯で「国際トライアスロン大会」が開かれ、自動車はすべて通行禁止だという。仕方なく予定を変更して、まず弥勒山(ミルクサン)に登ることにした。
交通整理の「オジサン」にケーブルカー乗り場までの時間をたずねると、「私なら15分で行けるが、ハラボジ(お年寄り)なら30分かかる」という。ついに「オジイサン」扱いにされた!
韓国人の年齢へのこだわり。相手の年齢によって話し方も態度も違う。たぶん儒教の名残りと思われる。日本人は相手を呼ぶ時、相手の年齢より若く、「おにいさん」「お嬢さん」「おねえさん」などと呼ぶ。韓国では年相応に「オジサン」「オバサン」「オジイサン」「オバアサン」などと敬意と親しみを込めて呼ぶ。韓国に留学した時、「アジョシ」(おじさん)と呼ばれて愕然としたことがある。「30を過ぎたら韓国では皆、アジョシ」と慰められた。
観光シーズンそれも土曜日のせいか、ケーブルカー乗り場は搭乗待ちの客が列を作っていた。整理券の番号が呼ばれると集まって乗り込むという仕組み。これまでには考えられない整然とした静かな韓国人に感心した。
今日も快晴である。ケーブルの高度が上がるにつれて海と統営の町が一望のもとに見え始めた。ケーブルの長さは約2キロで韓国では一番長い。弥勒山はケーブルカーの終点からさらに登らなければならない。「ハラボジ」には少々こたえた。弥勒山山頂から360度、海のパノラマが広がっていた。
交通規制は解除になっていたが、タクシーもバスもなかなか来ない。目指すは「洗兵館(セビョングワン)」。やっと来たバスに乗り込んだ。三道水軍統制営は日本軍の再侵略に備えた水軍本部、洗兵館はその建物の中心である。豊臣軍を破った李舜臣の海戦の歴史を刻む。<写真は洗兵館洗兵館>
ここは韓国人必見、人気の観光名所になっている。統営の地名は「統制営」にちなんだもの。日本人は珍しがられ、ソウルからバスで来たという観光客たちから歓迎された。その後、水揚げされたばかりの魚介類の水しぶきを浴びながら水産市場を見学。尹伊桑記念館に向かった。
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