今のジャポニズムは憲法九条
- 2018年 12月 13日
- 評論・紹介・意見
- 藤澤豊
たいして興味があるわけでもないが、聞いておくのも無駄ではないだろうとセミナーにでかけた。十九世紀の、とくにパリの画壇を席巻した大きな潮流だったということぐらいしか知らないが、ジャポニズムのもとを目の前にしたときは驚きを超えた感動があった。
上野の博物館にも、メトロポリタン美術館や大英博物館にも見るべきものがあったと思うが、心の準備ができてなかったのだろう、何も覚えていない。ところが、十年ほど前にちょくちょく行ったボストン美術館の絵画や浮世絵やピーボディ・エセックス博物館(マサチューセッツ州セイラム)の家具や調度品を見たとき、それまでなんとなく距離のあった江戸の文化を自分のものだと感じた。母方は江戸時代からの職人の家系でいろいろ話には聞いていたが、こんなに手の込んだ稠密な職人仕事があったのかと信じられなかった。
ジャポニズム、確かに衝撃的な影響を与えたとは思うが、影響を受けた当時の芸術家や工芸家、歴史上にその名前が残っていない人たちを含めても、日本にまで来て江戸の文化をその歴史的な背景や権力や世相の反映としてのありようまで含めて理解しようとした人がどれほどいたのか。ジャポニズムと大騒ぎだったにしても、極端に言えばある種のエキゾチズムにひかれただけではないのか。画家をはじめとする芸術家が積み上げてきた芸術手法やテーマの閉塞状態から抜け出るきっかけを模索していたところに、それまでとはまったく異質の手法や視点があることに救われただけのような気さえする。
江戸時代が生み出した芸術や工芸、それを生み出した手法までの、いってみれば成果物を表面的に取り込んだだけで、その成果物を生み出した歴史や文化、その背景にある思想やときには限界などにはなんの興味もなかったのではないか。
「影響」とはその程度の上っ面までのことで、影響を与えているものを生み出しているものにまでは踏み込まないし、ましてや自分たちの本質的なものの基礎まで変えるようなことは、よほどのことでもなければしない。取り入れやすいところを取り入れたいように取り入れて、自分たちのありようを都合のいいように、しばし表面的に変えてまでで終わる。ジャポニズムはその典型にしかみえない。
日本の文化や思想が長年に渡って、世界のあちらこちらでなんらかの影響を与え続けてきたのなら、たかが十九世紀のパリを中心とした芸術や工芸への影響、たとえそれが衝撃的であったにせよ、いまさら気にすることもないだろう。
ある一瞬、先進国に影響を与えたという、誇りのようなものがあるのだろうが、そんな誇りを持つことじたい、影響を受ける側に立ち続けて、与える立場になったことがないという精神的な負い目の表れのような気さえしてくる。
ジャポニズム、どうひねくりまわしたところで江戸文化のはなし。明治以降、自分たちでその根を断ち切って、ずっぽり洋風化した生活に埋もれて、いまさら何をと思っていたら、そうだアニメがあったと思いだした。アニメだけってこともないだろうしと、はたと考えこんだ。今の日本がささやかにせよ世界に与えてきた影響?何があるんだろう?ゲームにコスプレじゃ寂しすぎるし、まさかカイゼンとカロウシ?ブラックジョークでもあるまいし。何かあるはずだし、なきゃおかしい。
そうは思うが、はたして何があるんだろうと思っていたら、とんでもないものがあることに気がついた。憲法九条があるじゃないか。こういっちゃあ、しかられそうだが、ジャポニズム、せいぜい芸術や芸能の世界の話、憲法九条は人がやっとたどりつけた人としてのありよう。世界が違う。日本が、日本人が世界に誇れる平和憲法をどうしようってのか、人としてのありようが問われる。
Private homepage “My commonsense” (http://mycommonsense.ninja-web.net/)にアップした拙稿に加筆、編集
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://chikyuza.net/
〔opinion8220:181213〕
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