リハビリ日記Ⅲ ⑮⑯
- 2018年 12月 21日
- カルチャー
- 日記阿部浪子
⑮尾崎豊の父
黄色いチョウが目の前をひらひら舞っている。秋のチョウは、どこか弱々しくて寂しげだ。黄色いカリンの実が、2本のほそい幹にぴたりと身をよせている。おおぶりのが13個も。どうしたら、おいしく食べられるのだろう。
少女のころのこと。隣家の老女は、わが家の庭にコンニャクイモを見つけた。早速、コンニャクを作った。彼女なら、どんなレシピを考えるだろう。蒸した田舎まんじゅうも作ってくれた。自宅で飼っているヤギの搾りたての乳もとどけてくれた。彼女のような、生活の知恵と他人への厚意とひたむきな実行力をもった女性は、今は周辺にはいない。
田んぼ道を歩いていた。なおこさんの家に「浜松百撰」をとどけにいく途中だった。向こうから顔に笑みをうかべた男性が近づいてくる。どこの人だろう。すれちがいざま、〈なみこさんでしょ。ぼく、あべかずおです。教育実習のとき教わった〉と、かれはいう。
教育実習ですって。たしかに、わたしは法政大学4年のとき浜松商業高校で体験をしている。あの教室に、近所のかずおさんはいたというのか。自分はすっかり忘れているのに、他人はしっかり覚えている。ショックだった。
なおこさんの家からもどり、しばらく考えこんだ。
翌々日、かれと再会した。〈なみこさんが教師にならなかったのは、ぼくらが、ガラがわるかったからでしょ〉。いや、それはちがう。浜商は男子校だが、活気に満ちていた。生徒の目がみな、かがやいていた。わたしは、教えることよりも書くことをめざしていた。高校教員1級の免許を取得してからも、学校という組織のなかで教師をしたくなかったのだ。
あれから何十年もたった。かずおさんは父親になり、その息子は町内でフランス料理店を営んでいるという。
あなた、それで大臣ですか。片山さつきに投げかけたいことばだ。59歳。地方創生担当大臣、女性活躍担当大臣のポストにある。「100万円国税口利き疑惑」など、つぎつぎに問題が発覚している。いいかげんな女大臣である。しかし片山は、みずから辞任する気はないようだ。インターネットの画像を見ると、まるでタレント気取りだ。念入りに仕上げた、髪全体のカール。時間がかかりそうだが、ひょっとして、片山にはスタイリストが付いているのかもしれない。さらに、高額そうなスーツを着て派手好きである。
片山は、舛添要一と離婚して片山龍太郎と再婚した。男運にめぐまれたあなたに、非婚女性の経済的苦しみはわかるだろうか。わたしの友人は独身女性が多かった。働いても働いても貧乏だった 。男優先の社会を生きてきた。彼女たちを貧困からどう救いだすのか。貧困は彼女たちの自己責任ではない。片山の政治家としての想像力と誠意を問いたい。
*
旧住所のアパートからは、徒歩で行ける4つの図書館があった。よく通って調べごとをしたものだ。朝霞図書館分館へいく道中でのこと。わたしは、尾崎豊の父を見かけた。坂の下の家から、昼食の弁当を買いにきたのだろう。あの時より老いていて、寂しげだった。
いつぞや、尾崎豊を追悼する講演会が、毎日新聞社の主催で行なわれた。尾崎豊はシンガーソングライターで、1992(平成4)年、26歳で他界する。新宿の朝日生命ホールには、たくさんの中年女性が集まった。その会場で、尾崎豊の父、尾崎健一さんの姿を見たのだった。兄、尾崎康さんもいっしょで、2人とも長身でさっそうとしていた。
父は、3畳1間に親子4人で暮らしたこと。子どもたちは天然のわらを敷いて寝かせた。後年それを豊が知っていやがったことなど語った。兄は〈豊くんは哲学者でした〉という。
いずれも親族のエピソードだ。 自慢の豊にちがいない。
豊が他界した夜、久米宏の「ニュースステーション」から「アイ・ラヴ・ユウ」が流れてきた。そわそわした。初めて聴く豊の歌にすごく感動した。それ以来、かれの小説もエッセイも読んでみた。が、歌ほどおもしろいとは思えなかった。
「アイ・ラヴ・ユウ」は、どこか苦しげで切なげだ。何かを訴えている。歌詞のなかにこんなフレーズがある。「何もかも許された恋じゃない」「きつく体抱きしめあえば」「また二人は目を閉じるよ」。男女の愛と道義とが併存する。20歳のかれを苦しめていたのは何なのか。
父は講演会でこうも話した。〈豊は、私の説教に反発しながらも、それを友人の結婚式で使ってるんですね〉と。父は自衛隊朝霞駐屯地の陸上自衛官だったという。きびしい父だったのかもしれない。父にコントロールされる心とそれに反抗する自我との激しいせめぎあいに、あるいは、尾崎豊は苦悩していたのではなかったか。
⑯石橋貴明の下級生
下村友二さんから手紙がとどく。下村さんは、わたしが13年間おそわったヨガの先生である。〈以前と変わらぬ強い筆致に順調な回復〉を想像したという。うれしかった。何回か、先生には手紙を書いている。最近も書いた。その返事だった。
手紙は書き手の人間性をあらわすものだと思う。わたしは今でも、作家と文芸評論家の手紙はすべて保存している。平野謙、本多秋五の文字は、特徴があり印象ふかい。杉本苑子、吉田知子の文面は、率直で気持ちがいい。日野啓三、本田靖春のはがきは、やさしくてあったかい。日野の手紙については、拙文「日野啓三―わたしの気になる人⑧」(ちきゅう座)
を読んでみてください。
おととしの入院以来、理学療法士のT先生に手紙を書いている。わかいころ池袋の文具店で購入した原稿用紙にふでペンで。字を書く訓練のためだ。律義もののT先生は読んでくれている。先生のさりげない感想がうれしい。
作家の辺見庸さんが「辺見庸ブログ」11月30日付のなかに、こう書いている。
「ほぼ全員マスクをしている。なにか不思議だが、わるくはない。顔の下半分は勝手に想像するか、想像しなければいい。顔の上半分というのは、総じて、みるに堪えがたくはない」。辺見さんは『月』(角川書店)刊行後、介護施設にリハビリで通所しているのであろう。療法士たちがマスクをかけているのに注目したのだ。
S病院のリハビリの先生たちも、マスクをしている。彼らの上半分の顔は目がかがやいていて、わるくはない。もう1つは制服だ。これもわるくはない。マスクも制服も、彼らを療法士としてひきたてる道具なのかもしれない。だが、休日の私服にはがっかりした。
ある日。ニット帽をかぶり、長そでの綿シャツを着て、紺色のジーパンをはいた男が、スタッフ室に入っていく。野暮ったい格好だ。原稿料はいくらかと、わたしに訊いてきた先生だ。口紅がゆがんでいるなどとも、かれはいった。心の波紋を感じさせない、鈍い人なのだ。マスクや制服では護りきれない、かれの素顔であろう。
技術と人間と、そしてスタンスをさらに磨いてほしい。先生だから、えらぶっていいのか。患者を見くだしてはいけない。
わたしの通院中に、A先生もB先生もD先生もN先生も退職した。寂しくなった。有能なT先生とI先生は、いまも継続している。2人は、技術的にも優れていると思う。人間的にもユーモアもあり魅力的だ。常葉大学浜松キャンパスに学んだ、先輩と後輩である。
*
とんねるずのファーストアルバムは『成増』だという。東京都板橋区成増。この商店通りの喫茶店、紅星で、わたしは休憩していた。午後4時から受験指導のアルバイトがある。 背後から男たちの意味不明のことばが聞こえてきた。じっと耳をかたむけると、外国語でもないようだ。しばらくすると男たちはレジへ。長身と小柄の対照的な2人。お笑いコンビのとんねるずだとわかる。石橋貴明のマンションが、この近くにある。木梨憲武がたずねてきて、2人は仕事の打ち合わせをしていたのかもしれない。
おしえごのなかには、成増小学校、赤塚第2中学校の在校生もいた。石橋の下級生だ。のっぽの石橋と遊んだという。石橋は中学では野球部に所属していた。選手として活躍するのではなく、サービス精神旺盛なかれは、部活動を盛りあげる、裏方のまめな男子だったという。
石橋は母子家庭の子だとも、下級生は話した。かれと弟と母の3人家族で、木造アパートに住んでいたと。
この稿を書くために、わたしはインターネットで石橋について検索してみた。石橋が幼少のころ、父は事業に失敗して蒸発してしまったとある。
石橋貴明の笑いには、このような人生的哀しみが、にじみでているのかもしれない。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
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