21世紀に日本が直面すると思われる4つの人類史的課題
- 2019年 1月 1日
- スタディルーム
- 岡本磐男
私も今や超高齢者となり、いつこの世を去ってもおかしくない年齢となったので、現在感じている人類史的課題について書き残しておきたい。
第1には現在の日本は、少子高齢化社会の進展によって人手不足の社会になったといわれる。そのため安倍政権は、今年11月末日に外国人労働者をふやす政策の法案を衆議院において通過させたのである。これによって今後5年間にわたって外国人労働者が従来からの140万人に加えて30数万人増加され日本に入ってくることになる。野党の大部分の議員は拙速にこの法案を通すことに反対で野党と与党の議員の間で賛否両論の議論が展開されたわけであるが、何しろ性急にこの法案が提出され、決定が急がれたので、問題の焦点がはっきりせず、議論が煮つまらないまま、見切り発車してしまったとの感を否めない。私も十分に法案の内容や審議過程が分っているわけではないが、ただ今後は外国人労働者がさまざまな業種において増えていくことだけは確実であろうと考えている。だがこのことは大問題なのである。なぜならそれは日本の国家形態が変ってくることを意味しているからである。
さて、人手不足が生ずるということは、本来経済学の理論からいえば景気上昇期において生ずる現象であり、それは同時に労働者の賃金が上昇することを意味するものである。現在の日本においては、失業人口が減少している点から確かに景気は上昇しているということはいえるが、しかし日本の労働者の実質賃金が上昇しているとはいえない。賃金上昇は抑制されているのである。では、なぜ賃金上昇は抑制されているのだろうか。その主要な要因は、日本の経済界では、数10年前の中曽根政権の時代から新自由主義のイデオロギーによって、賃上げ闘争を主眼とする労働組合運動は弾圧され、労働組合は弱体化されたために、労働者の賃金はそれ程上がらなくなってしまったためである。実質賃金がさ程上がらず利潤を増やすことができるということは、財界人も歓迎するところである。それ故、今日の安倍政権は、現在の日本の人手不足を、賃金の上昇を防止しながら、外国人労働者の増加という形で切り抜けようとしているのである、このことは何を意味するのだろうか、それは今日の安倍政権は、日本の労働者大衆あるいは国民大衆のために、政治を行おうとしているのではなく(いいかえれば国家のために政治を行おうとしているのではなく)、日本の資本のために政治を行おうとしている、ということである。
このことは単に外国人材の受入増加という側面だけでいいうることではない。安倍首相は就任以来、かなり頻繁に海外出張するようになったが、これは単に国際交流関係を円滑にするためだけとはいえないであろう。先般の国会の審議においてある自民党の議員が安倍首相の海外出張の頻度が高いことを自慢していたが、これは実際には正しくないであろう。実際は今日の世界情勢のもとでは、平和な政治経済環境の維持のためには各国の首脳外交が頻繁に開かれざるをえず、これにこたえるために安倍首相の海外出張が増えざるをえないのである。そして首相の海外出張において海外事業への参加もふえつつある。このことは日本の資本が海外諸国に輸出されると共に海外諸国の労働者が日本の資本に雇用されることに注目されねばならない。だが日本の労働者はこれによって大して恩恵を受けるわけではない。日本の労働者は貧困状態におかれるままなのである。
第2には、20年前から地球環境異変の問題として騒がれるようになった集中豪雨や猛暑続きの問題がいよいよ猛威を振るうようになり、われわれの日常生活を困難にする重要な要因となってきたことである。もっともこの要因は日本と日本人に対する要因というのではなく、地球全体、世界全体の問題である。だが日本人としても声をあげ、対策を考えねばならなくなってきた深刻な問題であることは確かである。もっとも地球環境異変には複雑な要因が絡みあっており、自然科学者の専門的知見に依存しなければ解決は困難であろう。
今年の夏だけに限ってみても、日本人の大半は大変な猛暑に見舞われ、8月から9月にかけては毎日のように摂氏30度半ばから40度を超える程の高温にさらされ、睡眠時にはクーラーをつけ放しでなければとても眠れないという状況であった。また30度台半ば以上に気温が上昇しそうなさいには、高齢者のみならず高齢でない一般の人々も熱中症にかからぬように注意せねばならなかった。また集中豪雨に関しては9月に広島県を中心とする西日本地方で台風の到来と共に持続的に大雨が降り、山崩れや家屋の倒壊、流出が生じたことが記憶に新しい(西日本豪雨)。
こうした環境破壊や異常気象は資本主義のシステムと関係がないとは決していえない。競争社会としての資本主義のシステムとは大いに関係があるとみられる。ここでは詳しくは触れないが資源の問題と共に、環境の問題は、既に40年以上も前から国際組織によって警鐘が打ち鳴らされてきた問題であった。けれども先進資本主義のGDP成長至上主義、諸国の企業の極大利潤追求の姿勢、大量生産・大量消費の基調等によって環境の保全、省資源の方向への切替えは容易には進まなかった。もっとも資本主義国のみに責任があるというのはいいすぎであるかもしれない。なぜなら、環境の破壊や汚染は、単に先進資本主義国のみならず、かつてのソ連や東欧の旧社会主義圏や開発途上国においても現れていたからである。もっとも、旧社会主義国の諸国は、決して本格的社会主義の国とはいえず、国家資本主義であったという所説もあるように特殊な国であったとみられるし、他方で途上国の側での環境破壊は、資本主義国側からの競争のインパクトによって生じたとも把握されるからである。
何れにせよ、日本でも地球温暖化をもたらしているとみられるCO2の削減に人々はこれまで以上に真剣にとり組まねばならない。例えば、労働組合運動においても経営者側とこの課題について協議するようにとり図らうべきだろう。また国民大衆も自民党政府の政権運営に安住することなく危機感をもってこの課題について重大な関心を払うべきである。人間が住めない日本列島にしてはならないからである。
第3には、今後10年から20年程の間にAI(人工知能)の発達によって社会のあらゆる生産分野においてロボット化が進み、生産人口を排除するようになるであろうということである。既に自動車運転の分野においても人工知能の発達によって運転手がいなくても自動車が走行することができるようになりつつある。多様な産業分野やサービス部門においてロボットが導入されることが想定されているが、これによって何年先になるかは分からないが、就業人口が減退する日がやってくることは間違いないのではないか。もっともロボットを導入した企業は、ロボットに労働させるのではなく、単に機械として作動させるにすぎないのだから、労働者を使用するように生産物に価値を付加するのではなく資本の有機的構成を高度化させ、資本の利潤率を一般的に低下させる。だがそれは資本にとっては(労働者を雇うよりは、ロボットを使用した方がコストを低下させうるので)労働コストを節約しうるため労働コストを削減しうる有利な手段なのである。個別的な資本の利潤率は上がるであろう。それ故あと10年程たてば、さまざまな産業の業種で、労働者は職を奪われ失業人口がふえ現状のように人手不足とは反対の人手が余まる社会へと転換していくことも、十分に考えられるのではあるまいか。これはまた、大変に厳しい社会の到来である。
最後に、世界では、戦争の火種が全くなくなったわけではないことである。いや、それはむしろ増大しつつあるかにみえる。中東問題、シリア問題、米国対イラン問題、米国対北朝鮮問題等からも目が離せないが、今日最も深刻な問題として登場しているのは、米国と中国の貿易戦争がどうなるかの問題であろう。世界でGDPが第1位の大国と第2位の大国が烈しく対立しあっているのである。貿易戦争が単に貿易や関税の対立の問題にとどまっている限りはよいが、熱い戦争、真の戦争に転化しはしないかと、気が気ではない。
2100年前にイエス・キリストは『新約聖書』(マルコによる福音書第1章第15節)で言われているように、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と述べられた。だが現実は決して神の国が近づいているとはいえない。現在核兵器を保有している、あるいは保有していると目される9か国は、決して核兵器を手放そうとはせず、米国を中心に使用できる核兵器の開発に注力しようとしているではないか。それ故イエスの教えとは反対に現在の人類は核兵器によって支配されている。それ故人類は物によって支配されているとみられるのである。これは、マルクスが『資本論』第1巻で説いた「資本の物神性」に照応するものと捉えうるであろう。
実際、核兵器保有の9か国は、核をもってさえいれば敵国に攻撃されることはまずないから抑止力となり、これによって平和は維持されるとのだと考えているのであろう。だが、本当にそうなのだろうか。戦争の開始時においては、多国間の協定において戦争は通常兵器のみにおいて、敢行するのであって核は決して使わない等といっていても、いざ通常兵器による攻撃が熾烈さをましていけば、いつしか、核兵器への悪魔の手が伸びてしまうということが決してありえぬことではない。一旦戦争が起きてしまえば何が起きるかわからぬ程の狂気が支配するのである。それに第2次世界大戦の頃、私は15歳の少年であったから戦争がどんなことだったか、かなりよく知っているが、今は戦争を殆ど経験しなかった人達が、政治家や行政官、自衛隊員等になっている。彼らとて自らの生命は惜しいので、通常兵器によって戦闘が開始されれば、生命を守るために逃げることもありうるであろう。そして最終的には核兵器に依存しようとして、核爆弾を投下せんとする者は、全く自分だけが生き残ればよいというエゴイスティックな動機によるものであって、少しも崇高な精神は感じられぬであろう。
たった一発の核爆弾の投下によって100万人の人が殺戮されるようなこと自体が狂った社会であり、人道上はおかしいのである。現在、国連は、核兵器禁止条約の署名、批准を世界各国に求めているが、問題は、核の生産保有などが人道上おかしいというエトス精神的風土を世界の人達に滲透させることである。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔study1013:190101〕
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