新・民主主義―共生の原理とともに(1)
- 2019年 1月 6日
- 評論・紹介・意見
- 川元祥一
*長めの論文ですので、三回に分割掲載(各章ずつ)します。(編集部)
初出:『社会理論研究 19号』(社会理論学会)より許可を得て転載
第一章 現代―序文にかえて
一 民主主義が歪められる
古代ギリシャ・アテナイのデモクラシー=民主主義は我々にとって非常に貴重な知的財産であり多くを学ぶことが出来た。しかし、その民主主義は常にどこでも人口の半分を占める女性を排除し、さらには人々の生活を実質として支えた奴隷を排除したものであり、彼女ら彼らを市民として待遇もしなかった。その意味でそれは現代―奴隷解放運動、植民地解放運動、女性解放運動、反差別運動を経験した現代―民主主義とはいえないものになっている。が、それは今も民主主義の内容において学ぶべきものが多いこともあって、私はそれを「古代・古典的民主主義」と呼ぶこととする。
そうした意味において現代、我々がより理想的に、知識と体験をとおしてこだわりなくいえる民主主義はアテナイの民主主義から二千年以上経ったところでの十九世紀半ばアメリカのリンカーンによって奴隷解放宣言とともに表明された民主主義「人民の人民による人民のための統治」が妥当と思われる。もっとも、その理念は政治的システムとしては直接的でなく間接的民主主義ともいわれ、政治行政的には代議員制民主主義ともいわれる。そこでは一定のエリートに多くの権限を委任することとなり、そのエリートが独裁者に変貌することがたびたび起こっている。そうした弱点をもつのであるが、それはその地域性など、あるいはその手法などによって克服する可能性をもつともいえる。例えば最近話題になる代議員制にみる男女の不平等など。これは代議員を男女半々にする制度の制定などとして克服しようとしている。「代議員を男女半々にする制度」といえば強制的で違和感をもつ人がいるかも知れないが、これは「自然の法則」を背景にしているともいえるのであり本格的に考察されるべき課題といえるだろう。「自然の法則」についてはこの後論じることとなる。
現代いわれる民主主義にとってもう一つ大切と思うのは十八世紀フランスの君主制を倒して進んだ啓蒙主義に始まるフランス革命の思想「自由・平等・博愛」である。これも学ぶべきものが多く、民主主義にとって重要な要素をもっているのである。そして、これらは今でも色褪せたとはいえないし色褪せてはならないと思うのであるが、しかし、現代、我々がここで生きている実感として「自由・平等・博愛」が生き生きしているかと問うと、決してそれが肯定できる状況ではないといえるのではないか。そこには理由がある。それが現代だからなのだ。
これら近・現代的民主主義は、主には内部からではなく、いわば「外部」からその価値の根幹が失われつつある。例えばゆき過ぎた自由によって「平等」あるいはたびたび「博愛」までも、片隅に置かれる傾向が生まれることだ。経済的原理によって始まったグローバリゼーションは「資本の自由」、その金融市場の原理を自由にすることで進むのであるが、その資本は「非人格的」であって資本のための「自由」だけを主張し、資本を増殖するのには真剣であるが、民主主義がもつ思想、あるいはその根幹である「人民」などは無関係なのが明確だ。しかもそうした「資本の自由」が「新自由主義」ともいわれ、いかにも人々の「自由」にかかわっているかのような錯覚を与えている。
本論は「新・民主主義」と命名した。それはもちろん「新自由主義」を視野に入れているが、しかし新自由主義そのものは最初から人間のためにあるのではなく、資本主義経済の在り方、その経済原理から生まれたものであり、本来それは民主主義の範疇としては部分的論理だ。しかしとはいえ、現代にあって、いかにもそれが時代を凌駕するかのような印象を持っており、あたかも「資本の自由」が、「超人格的存在」ででもあるかのような錯覚を与える場面さえ派生すると私には見える。そして、そうした非人格的価値による「自由」が、本来そこにあるべき人間の自由、自己の自由と他者の自由、それらを支える愛や平等などをかなぐり捨てて増殖しているのが「現代」というべきと考える。
そうした状況を早く脱却しなくてはならない。そうでないと、人類はただ資本の価値観に領導され干からびた存在になるだろう。そしてそれは、人類が資本の奴隷となるに等しいといえるだろう。その状況を脱却するために「資本の自由」ではなく、本来の自由、人間の自由を取り戻すために、古代・古典的民主主義を参考としながら、近・現代的民主主義を継承し、さらに、現代、その状況に対抗しうる、新しい民主主義を構想しなくてはならない。
二 現代的課題
リンカーンの宣言などにみる民主主義が「新自由主義」によって歪められているといったが、その歪をもう一つの視点からみることが出来る。それは「新自由主義」の墓場ともいえる原子力発電所とその原動力となつている放射性物質、その使用済み核燃料の処理と爆発事故の処理だ。すでによく知られるように、原発事故を完全に防ぐことは出来ないし、事故が起こると、拡散する放射性物質を無害化することは現代の人類の科学・技術では出来ないのがわかっている。にもかかわらず、原発の建設が進み使用済み核燃料や事故の後始末が出来ないまま、原発の再稼働が進むのである。ある意味、犠牲者が出るのを見越したうえで目をつぶって進行する悪質なプログラムといえるものだ。
私はそうした状況の中に「資本の自由」と、その経済原理、つまり先にいったクローバル資本主義における過当な競争原理で進行する社会状況、あるいは政治的状況があると考える。例えば経済の「成長神話」は「神話」の枠をはみ出して、成長が止まるとその国の経済が停滞する、そうした実態の中に置かれ、何が何でも「勝ち組」に残らなくてはならない脅迫観念に襲われながら何かを進める、そうした負の精神が、後戻りの出来ない原発の建設と、運転再開を押し進める。しかもそうした負の精神が、現代の社会、あるいはそれを包む世界で構造化しつつある。それと全く同じ意味で、過当な競争原理の中で「負け組」に追い込まれる人―必ずそれが生まれる構造なのだ―、あるいはその競争原理にも参加出来なかった従来の弱者、少数者、被差別者など、それらが取り残される「格差社会」をも構造化している、それが実感なのだ。とはいえまた、そうした状況の中で当然想定されなくてはならないのは、使用済み核燃料や原発事故による放射性物質の拡散は、格差社会を超えて、全人類に及ぶ、そのことが自覚されなくてはならないことだ。
これが現代であるが、これを民主主義に照らして考えると、その状況を克服するためにどんな民主主義が構想出来るか。果たしてそれは可能なのかどうか―。「民主主義なんか糞くらえ」という声が聞こえてきそうであるが、しかしそれでもなお、我々は、その民主主義を考えなくてはならない。「資本の自由」を前に人間が主体を失い干からびて、その奴隷のようになって終わるわけにはいかない。そのためにこの段階で一つのヒントを示してみたい。「資本」も文明の中にあるが、その文明が問い直されようとしている。その中で「資本」についても当然見直されるであろう。つまり、人の社会は経済的原理だけで成り立っているのではないことだ。
三 共生の原理
こうした「現代」は、リンカーンもフランス革命の啓蒙主義者も想定しなかったのであり、それは現代的課題として、我々が取り組まなくてはならない。そしてそれは、地球温暖化を阻止しようとして始まった二一世紀の人類的課題としての「自然と人の共生」と同じ意味を持つものだ。そのために経済原理だけでなく、また政治に、そのエリート達に委託するだけでなく、われわれが主体であるはずの、民主主義からそれを考える、そうした思想が今必要と思われる。
私はそうした思想の原理として、これを「共生の原理」と呼び、二つの要素から始めることとなる。その一つは、自然と人の共生、もう一つは、人と人の共生である。この二つの要素は、当面別々の要素に見えるのであるが、しかし、やがてそれらは一つの要素なのがわかってくる。つまりそれが「共生の原理」である。
二つの要素をもう少し具体的に言うと人と人の共生は、リンカーンの民主主義とフランス革命の精神から継承するものが多い。しかし現代社会にあって、先のグローバル資本主義の過当な競争原理によって自由と平等が対立するかのように考える状況でもある。また「愛など無意味」と主張する人がもてはやされる時代でもある。
そうした現代を超えるために本来の「自由・平等・博愛」を継承しながら、それらが成り立つ基盤を見直すことが必要と思う。というのは、そこでいわれる「自由・平等・博愛」は、なんといっても従来の「文明」の側にあり、その上に立った発想だ。しかし、その「文明」が問い直されているのが二一世紀の人類的課題としての「自然と人の共生」なのだ。つまり自然と人の関係を根本的に見直し、現代の時点で宇宙・自然環境に依拠しながら生存する人類を再確認。そこから生まれる新しい概念、思想、価値観、それらを新しく「文明」の中に取り込む、そうした作業が必然的であると私は思っている。したがってそれは、自然と人の共生に深くかかわる課題なのである。そのためここでは、まずは自然と人の共生を手掛かりに始めることになる。そしてその場合は、その歴史と現代を含めてより身近なものとして、人の信仰生活の中で言われた「神」あるいはさらに「超自然的」ともされた「神」が大きな課題になってくる。なぜなら、人類にとって自然という実像は、さまざまな意味をもった「神」の観念によって文明化され、それによって歪められてもきたのだから。
もっとも一方で、人は科学をもって自然と折り合ってきた。しかし現代にあってその科学は、もはや文明を超えて、文明によっては何も出来ないところに至っている。先にいったとおり、それが現代だ。
そうした意味もあって信仰が手掛かりとして浮かびあがるのであるが、これもまた「有史以来」といわれる時間と空間をもつのであり、一言ですますわけにはいかない。そのためその概念、思想、信仰の全体像については別に記述したいと思うが、少なくともこの時点で信仰の問題として次の二点を提起したい。一点は、信仰の自由を保障しながら、そしてそのためその信仰を様々な位相で政治権力として直接利用しないのを前提とする。もう一点は「超自然的」としての「神」だけではなく、自然そのものを「神」「霊」または自然そのものの「生命」を崇拝する信仰を信仰として認めること、である。本論はこの二点を前提に進める。
この後すぐ取り組むが、例えば十九世紀から二十世紀初頭に活躍したイギリスのエドワード・B・タイラー(一八三二~一九一七)が提唱した宗教史としてのアニミズムは、徹底して「未開」と「文明」、あるいは「低級文明=アニミズム」と「文明諸国=欧米の教育世界=キリスト教」を対立概念として把握(『(『原始文化』訳者・比屋根安定・誠信書房・昭和三十七)した。そしてその宗教観あるいは世界観は植民地主義のイデオロギーとして活用されたのだ。こうした宗教観、世界観に現代でいう「平等」は生まれないことを知らなくてはならない。そうした意味にあっても「文明」の根本的な見直しが必要だ。そしてその文明は、自然と並立した文明、つまり「自然と人の共存」が原理の文明でなくてはならないのがわかるはずだ。そうした意味で、タイラーの弱点は弱点としながら、彼が提示したアニミズム論は大きな成果なのを認めなくてはならない。そしてそうした成果を「共生の原理」として建設的に把握する、これが、二一世紀の人類的課題を前進させる大きなエネルギーになると思うし、文明の見直しの基本的テーマであると思うのである。
四 「未開」と「文明」は逆転した
タイラーの弱点は弱点として、自然を無視してはならないこと。人の「文明」は今も自然を凌駕したわけでないこと。そうしたことを改めてしっかり認識しなくてはならない。そうしたことを痛いほど知らせる事例が二十世紀になって我々の前に現れる。
タイラーが初めて提唱したアニミズムは自然と人間の関係を考えるのに大きな手掛かりであるが、しかし彼によるアニミズムをみる視線、「未開種族」による「低級文明」と欧米など教養世界としての「文明諸国」との対比、峻別は彼の内で変わらない。彼は次のようにいう。「わたしは、低級な民族が信ずる生気説(アニミズム・ルビ指定)の発達を組織正しく検始める。生気説とは、魂と一般にいう他の霊的存在者とに関する教義である」と。そしてさらに「宗教の最も粗末な形態から、キリスト教へと達する結合をも、教義神学に頼らないように取り扱いたい」(『原始文化』訳者・比屋根安定・誠信書房・昭和三十七・6p)だ。(右の「生気説」は本書の翻訳者・比屋根安定によるアニミズムの日本語訳である)
つまり「宗教の最も粗末な形態」をアニミズムとし、その高度な発展結果がキリスト教とする構図がここにある。キリスト教についてここで何かを述べるつもりはないが、少なくとも「超自然的存在」としての「神」を措定するキリスト教とアニミズムをこれほど簡単な構図で対比してよいものかどうか、たとえばその間に「一神教」と「多神教」の対比を考察する手順があってもよいのではないか。私はそのように考える。アニミズムを「宗教の最も粗末な形態」とするについても私にはいささか抵抗感がある。その「未開種族」と「文明諸国」の対比・対立構図には、自然と文明の決定的な対立が措定されると思うからだ。そしてそれゆえに植民地主義を増長・正当化したともいえるからだ。
いうまでもなく、そこにある自然と人間、あるいは「文明」との関係性は、今も様々な形で進行しており、文明、あるいは人が自然を克服したなどとは決していえないところだ。人間の「文明」はすさまじい速さで進行・進展しているかに見え、自然そのものは大きな変化がないかに見える。そしてその対比が前進と停滞のイメージに繋がっていると思われるが、しかしその対比そのものが絶対的価値、その構図であるわけではない。そのことを痛烈に知らせる事例は、先にいった原発事故による放射性物質の拡散、その人類的危機、不安と自然の力・生命力である。その放射性物質はいまだ人類の制御の外にあり、使用済み核燃料にあっても誰も制御・コントロールできない。しかし、それをかろうじて、確実に制御・コントロールする存在がある。それが自然であり、その生命力だ。
放射性物質の元素量が自然の力、その生命力によって半減されるのを「半減期」という。例えば身近なものでいえばセシウム137は三十年七ヶ月。ストロンチゥム90は二十八年九ヶ月など(HP・生活や実務に役立つ計算サイト)。『広辞苑 六版』ではウラン238が四十五憶年。プルトニュウム239が二万四〇〇〇年と解説される。核物質によってかなりひらきがあり、多様であるが、ともあれこのことは、現代のところタイラーがいう「文明」が放射性物質を前にして何もできないのに対し、自然の力、再生力、タイラーがいう「低級」な信仰としてのアニミズムの日本語訳としての「生気」、あるいは「自然の生命力」は時間をかけながらも、それを消滅する力をもっている。
こうした現状を考えれば、タイラーの「未開・低級・粗末」な文化と、高度な「文明・教養世界」との対比を構成する価値観は、原子力発電所、その原動力としての放射性物質の活用や原発事故によって、その立場が逆転している、というべきである。また、そうした意味で、自然と人間の関係性について、タイラーがいう「文明」の絶対的優位性を見直し、その対比を逆にしてみる観点も我々に求められている。
五 自然と呪術―あるいは初期科学
タイラーの影響を受けた二十世紀初頭のイギリスの人類学者ジームス・G・フレイザー(一八五四~一九四一)は、基本的にタイラーと同質のスタンスをもって原始的文化、中でも呪術を見るが、タイラーの弱点を克服しようとする側面もある。フレイザーはタイラーがいった「未開種族」の「低級文明」と、「文明諸国」などの対比を直接的にみるのではなく、両者に通底するものを認めながらも、それらを「呪術」と「宗教」に分けて、別の現象、体系として論述する。だから、タイラーのような強引な価値の峻別は必要なかったといえるだろ。そしてそのため「呪術」=原始文化への一定の柔軟さをもつことが出来たし、そのような視点によって「呪術」の可能性なり、一部にその理論性・整合性を見出すことも可能だった。例えば、呪術一般を非合理な観念集合としながら、しかしその一部について「自然の法則の擬体系なのである。発育不全の技術であると同時に擬科学なのである。自然の法則の体系として見るとき、すなわち宇宙の現象の次第を決定する叙述としてみるとき、それは理論的呪術と呼ばれてもよい」(『金枝篇 ㈠』永橋卓介訳・岩波文庫48p)とする。この指摘は現代我々が直面する課題にとって、その克服にとって、非常に重要な意味をもっている。つまりフレイザーはその「未開」の呪術に一定の現代的可能性を残したのである。
一方、タイラーが「文明諸国」「欧米の教養世界」の具体的背景とした「超自然的存在」としてのキリスト教ーフレイザーもその優位性を強調する―は、その時点で、すでに自然と人間の直接的関係性を見失っていることになるのは明白だ。例えば一神教であるキリスト教が、二十世紀後半になって大きな課題となった地球温暖化、その自然環境の破壊について、キリスト教的人間中心主義(文明中心主義・川元)=ヒューマニズムを反省し、二一世紀の人類的課題としての「自然と人の共生」のために尽力しようとしている事例などがそのことを示している。。
そうした意味で私は、私が生活する場においてーそこは仏教であるが―一神教では出来なかった多神教、あるいは今や古い異物と思われる「呪術」、そこにある日本的な「神」からその可能性を見出すのを試みたい。呪術は我が国にあっても遺物として見捨てられがちであるが、しかし「超自然的存在」としての一神教では直接的な意味での自然と人間の関係性を見だすのは、非常に難しいことがわかっているのは確かなのだ。
こうした「呪術」、あるいはもっと広く「多神教」について、この段階で加筆しておきたいことがある。本論はタイラーの「アニミズム」を大きな手掛りにするが、しかしこのアニミズムにも一定の批判があって、アニミズム以前の「プレアミニズム」の存在が指摘されている。主にはイギリスの人類学者ロバート・マレット(一八六六~一九四三)などであるが、それはタイラーのアニミズムが自然の中の「霊」によって成生するとしたのに対し、自然そのものの「力」、あるいは自然の「生命力」によってその現象が生まれるとするものだ。私もこの自然の「生命力」がより的確と思っている。先にいった放射性物質の「半減期」がまさに、この「生命力」によるものと考える。
先に引用したタイラーの言葉の内「生気説(アニミズム・ルビ指定)とは、魂と一般にいう他の霊的存在者とに関する教義である」(『原始文化』前掲6p)によく示されるように、タイラーのそれは「霊的存在者」を抜きに考えることが出来ないものなのであって、その「霊」が、度々「人格神」として表れる、そうした宗教性なのである。タイラーを批判してプレアニミズムが生まれる根拠もそこにある。
例えば同じく二十世紀初頭の宗教者、スエーデンのナータン・ゼデルブローム(一八六六~一九三一)は『神信仰の生成』(三枝義夫訳・岩波文庫)において「霊」と「生命力」の違いに触れ、アニミズムにつて「『霊魂』『精霊』から由来した本来の意味のアニミズムと名付けられるものであって、アニマッスanimatus『活かす』belebt『生きている』lebendigから由来したアニマチィズムとは区別される」とする。しかし現実的には、両者を区別するのは難しい側面があって、ゼデルブロームはそうした側面をアニミズムの学術的意味と把握して「広義の意味に用いる場合、普通にいう場合には、『アニミズム』は学術的には本質的に極めて異なるこの二つの表象を包括する」(前掲・上巻55p)とする。微妙ないいまわしではあるが、タイラーのいうアニミズムは、それ以前の「アニマチィズム」を包括する場面があるのを指摘する。
このようなアニミズム論の内容を把握しながら、この後私は和人社会のアニミズムとその前の「アニマチィズム」―私はこれをプレアニミズムと呼ぶ―を見るが、そこでも両者を分かちがたい場面がある。その場合私はゼデルブロームの指摘の前半にある<アニマッスanimatus『活かす』belebt『生きている』lebendig>=「アニマチィズム」が非常に的確で大切と考え、それを「自然の生命力」と呼ぶ。
先のイギリスの人類学者マレット(一八六六~一九四三)も「アニマティズム」という言葉を使う。このマレットの見解について『原始文化』の翻訳者比屋根安定は「アニミズムは、一つの人格的存在としての霊魂という考え方を、宗教の発生するための最小限の条件とするが、この観念の伴わない宗教儀礼が現存せる未開種族の間に少なくない。その崇拝対象は、人格性のない一種の力あるいは生命として見なされ、霊魂という考え方にまで達せず、すべては単に生きているものとしてのみ取り扱われる」(『原始文化』前掲ⅳ)と紹介する。これが「自然の生命力」そのものと考える。
ゼデルブロームも指摘しているが、ここにある「生命」、単に「生ききている」生命を人間が自分の生命活動にとっても必要とし、人以外の動植物が成長するのを食物ともし、それが質量ともに人の生命を満たす、そこにある動植物の成長、増殖を神秘的とし、人の力や知恵の及ばない存在として崇拝・崇める現象、その心性を否定する者はいないと思うが、同時に、あるいはやがて、そこに言語・言葉を附けることも人間として自然な現象と私は思う。そしてそれが「神」であったり「霊」であるのは、それはそれで認めるべきと考える。だから「霊」「神」という言語、或いはその「存在」は、その「形」がどうであるか別として「生命力」とほぼ同次元的として認識できる。ただこの場合困るのは、その「神」「霊」を「人格神」「人格霊」として祀り上げること、と私は考える。しかも、そうした場面がその後「祭政一致」の次元にみられる族長的存在に結び付くことが、単なる生命力としての「神」にみられる自然と人の関係性を明らかに歪めると考える。そしてそうした次元・場面での「神」「霊」もはやは純粋な「信仰」ではなく、「社会」の中の問題として、「現代」に還元すべきものと考える。
こうした発想を以て私は「自然と人間の関係」を見直し、その関係の初期的意味として「自然の生命力」「神」「霊」などの「信仰」を取り上げ、そこにある「文明」としての自然と人間の関係を初期的・根本的なものとして考察する。
先にもいったが、二十世紀初頭のイギリスの人類学者ジェムス・フレイザーは、世界中の呪術的信仰、その具体例を集積しながら、それを分類・分析して二つの法則を抽出している。一つは「感染の法則」もう一つは「類似の法則」(『金枝篇 (一)』岩波文庫1980年57p)である。
日本にはこれらの法則、中でも「類似の法則」による呪術的表現、あるいは神観念が非常に多い。富や宝を掻き寄せる「熊手」など。「感染の法則」は、災いを人形になすりつけて流す「流し雛」など。私が長く取り組んできた部落差別の要素としての「触穢」は、この呪術に共通する部分が多いのである。フレイザーはこの二つの法則の内「類似の法則」から「発育不全の技術」「擬科学」(『金枝篇』㈠・前掲73p)を抽出した。私はここにある「発育不全の技術」を「技術性」とし「擬科学」を「科学性」とし、それらをわが国の民間信仰、その「類似の法則」の中に見出すことから始める。
六 新しい民主主義の要素
以上によって非人格的な「資本の自由」からではなく、人間として、そしてその人間の、自然との共生として民主主義を考え、リンカーンやフランス革命の精神を継承しながらより現代的要素としてそれを次のようにまとめる。
①諸個人の、そしてそれら諸個人相互による交流や関係性のうえで、自由な信条・信仰・思想と職業選択の自由、そしてその職業の分業関係の平等を保障し、社会的構造、あるいはその制度において何らかの犠牲を強いたり許容することのない社会。
②人類の、あるいは諸個人の、自然的条件を無視する歴史を脱却し、それを尊重することで、諸個人の選択の及ばない理由での社会的格差・差別を許さない。
③自然と人、人と人の共存―「共存の原理」を最高価値とし、これを求める社会。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://chikyuza.net/
〔opinion8281:190106〕
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