新・民主主義―共生の原理とともに(2)
- 2019年 1月 7日
- 評論・紹介・意見
- 川元祥一
初出:『社会理論研究 19号』(社会理論学会)より許可を得て転載
第二章 地球と地域 ―違いを認める平等・多文化―
一 地域社会と自然・人間
タイラーやフレイザーが行った地球的規模、世界的規模での資料収集と思考を欠くことはできない。それがなければ地域的思考やその可能性を見出すのは難しくなる。そうした条件で、この後日本列島の和人社会、その地域性の特色や個性を考えていく。そうした作業によって、地域性、その個性は、地球的規模、世界的規模の思考と同じくらい大切であることを示したい。少なくともこれがないと、知識だけが氾濫し、その知識を肉体的エネルギーに変えることなく無為に時間を費やすことになると思うからだ。
和辻哲郎は人類史的な文化・文明の生成について、その地域・土地の気候、地質、地味、地形、景観などを含めて「風土」とし、その風土を地球全体の規模で「モンスーン型」「牧場型」「砂漠型」と分け、風土によって文化・文明が異なるとした。
モンスーンは季節風であるが、その地域は東アジアの沿岸一帯、中国や日本が入る。その風土を和辻は「暑熱と湿気との結合をその特性とする」「しばしば大雨、暴風、洪水、旱魃というごとき荒々しい力となって人間に襲いかかる。それは人間をして抵抗を断念させるほどに巨大な力であり、したがって人間をただ忍従的たらしめる」(『和辻哲郎全集 第八巻』岩波書店一九七七年25p)とする。牧場型はヨーロッパの特徴とし「近代大工場の発祥の地であるヨーロッパを『緑の牧場』によって特徴づけるのは一見不穏当(略)、しかし鉄や石炭や機械などの『冷徹な現実』としての工業も、実は緑の牧場の延長である」(前掲64p)とする。砂漠型は、中東やエジプトを念頭に「砂漠的人間はしばしば力強い理想家として現れた多くの預言者、モハメット、イスラムの諸人傑」「これらの特性は一言にして言えば実際的意志的である」(前掲62p)などだ。おおよそのところ妥当と思われるが、ともあれ自然的気候・風土の違いによって人の生き方、その思想性、文化、文明などが異なるのは間違いないと思わわれる。
アメリカの生物学者ジャレド・ダイアモンド(一九三七~)は『銃・病原菌・鉄』(草思社文庫㊤㊦2012年)において、地球上の諸民族がそれぞれ異なった歴史を持ち、なおかつ異なった文化・文明をもつのはなぜかと問いながら、多くのデーターによって疑問を解明する。その手がかりは地球上の五つの大陸で異なった歴史、あるいは文化・文明があるのはなぜかという問いから始まる。「アフリカとユーラシアにしか住んでいなかった人類が最初に向かったのは、(略)オーストラリア大陸とニューギニアである。(略〉人類はニューギニアの熱帯雨林や山岳地から、オーストラリア内陸部の乾燥地帯や南東部の多湿地帯にいたるまで大陸全体に進出し、各地の環境に順応していった」(前掲㊤71~72P) と人類史の初期的事例を示す。そして「大陸の東西南北の広がりが、農作物や家畜の伝播にあたえた(略)大陸ごとの地理的広がりのちがいは、文字や車輪をはじめとするさまざまな発明が大陸で広がっていく速度にも大きく影響したと思われる。そして、南北アメリカ大陸、アフリカ大陸、ユーラシア大陸の先住民は、この地理的特徴の違いによって、非常に異なる歴史的展開を過去五〇〇年のあいだに経験することになる」(前掲㊤328P)とする。
ここでいう「環境」「地理的広がり」は自然環境である。つまり人類は直面する自然に順応してその民族性-文化・生活・文明の違いを生成したのであり、それは人種、民族の優劣ではなく、自然そのものの違いであるとする。
こうした認識は正当であると私は考える。二〇世紀前半までの植民地支配時代は、このような違いを人種や民族の優劣に結び付け、優れた「開明」国が「未開」国を支配する構図、思想の基となった。これまで述べてきたエドワード・B・タイラーが「文明」と「未開」を峻別、対立したのが典型であるが、その視点を少し変えたジェームス・フレイザーも、ほぼ同じ視座をもって「呪術」と「宗教」を見、「文明」の地域から「未開」の地域への侵略を肯定し、日本の帝国主義をも称賛するのである(『金枝篇 ㈠』前掲124p)。
こうした思想に対してジャレド・ダイアモンドが主張する人類が「各地の環境に順応」してそれぞれ異なった文化・文明を形成したとする視点は、自然と人の関係性を直視するものであり、従来とはまったく異なった思想的観点に達すると思うのである。
――こうしたダイアモンドではあるが二〇一一年の福島第一原発の事故に際して、地球温暖化防止が第一義であるとし、原発の開発を薦める発言をしている(HPウイキペデア「ジャレド・ダイアモンド」より)。これは意外であるが、先の「人類は直面する自然に順応してその民族性-文化・生活・文明の違いを生成」とする思想からして、こうした発言は想定出来ない。なぜといって、原発事故を前にして現代我々は自然の「半減期」なしにそこへの「順応」は成り立たないのだ。そうしたことを考えると、彼の原発への発言は現実的な状況での何かの変化であろうと私は考え、文章の中の思想を支持する――。
私自身は、タイラーやフレイザーを知らない若い頃から彼らの影響を受けていたのを痛感するのであるが、しかしにもかかわらず植民地解放運動には早くから強い共感を覚えていた。そうした自分に大きな落差があるのも暫時気づき、ジャレド・ダイアモンドのような思想に触れてやっと植民地解放運動への共感が自分の中で安定する、そういった感じだ。そうした過程で、自然を無視したりそれを取り残して「文明」が「進歩」するのではなく、自然の力、あるいは生命力、あるいはそのシステム―人類は今もその全体を把握できないが―を前にして人はそれに順応、適応しながら自分に都合のよい「文化・文明」を構築しただろうことを認識することとなる。そしてそうした認識の過程によって、人は自然をぬきに存在・生存することができないのを自覚する。またその意味で、二一世紀の課題としての「自然と人の共生」が自分にとってよりリアルなものになる。また、一人一人の人間がその地域の自然の実像に直面し、その実像に沿ってそれぞれの歴史<進化・変転・適応>などを生成したのを認識する。
二 日本列島―その和人社会
1 古代の祝詞から
自然と人の共生にしても、あるいは、風化しつつある民主主義を再構想するにしても、そこに自然と人の共生、あるいは人が持つ自然観が、現代的意味において大きな課題であるといえるだろう。
そしてともあれそれは、エドワード・B・タイラーが「未開」と「文明」の峻別を行いながら、しかし一方で、人類の初期的文化・その神観念として提示したアニミズムの、そしてその少し前のプレアニミズム、あるいはまたその少し後のジェームス・フレイザーが提唱した宗教と呪術の相違、そのうえで彼が呪術から抽出した一定の法則と、そこにある科学性と技術性について、それらが和人社会でどのように存在するのかしないのか。存在するとしたら、それはどのような形なのか、そうしたことを考察したい。和辻やダイヤモンドが指摘するように、そこにある自然環境によって、それらの形態や呼び名、概念までも異なる場合が多いのであるが、それでも、全ての人にとって、自分の足元にあるそうした要素について、無関心でいられるわけがないだろう。そしてここで、その一定の結論を先に言うとなら、それはおそらく世界の中でもより明確に、よりわかりやすくい形でこの国に存在する。
タイラーは『原始文化』の第十七章「祭儀と儀式」で「日本に禊祓の式があり」(前掲261p)と書いている。それは正当であるが、その機能など内容に触れていないので何かの文献から知ったものと思う。もちろんそれも仕方ないのであるが、いうなればそこに一人の人間の限界があるのがわかる。そして、その限界はタイラーが指摘するアニミズムの価値を低くするものではないが、いかなる学問も、そしていかなる人為も、限界があるのを認めながら、それを超えるために多くの人の協力、共労が必要なことも認識できることだ。そしてそうした超越、前進をより豊かにするため、タイラーが指摘する日本の「禊」を、その現場から詳細に述べることがより有効と思われる。
とはいえ私はここで「禊」ではなく、タイラーがいうアニミズム、その神観念、あるいはその前のプレアニミズムと、この国、和人社会のそれらがどのように関連し、形象されるか、そうした直接的事例から始めることとする。
その事例はこの国の古代の政治史を象徴する文献で十世紀半ばに完成した「延喜式」に掲載された「祝詞」である。この祝詞は「延喜式」巻八で二十八篇まとめられたものであるが、本論で取り上げるのはその内の「祈年祭」での祝詞(以後「祈年祭祝詞」)である。この祝詞が朝廷儀式において活用され始めるのは七世紀後半とされる。とはいえこうした祝詞はそれ以前から地域・民間で活用されており、それを朝廷が天皇制的に編成・文字化し、朝廷儀式で活用したといわれている-これは後で実証する-。その一つ「祈年祭祝詞」は、主に農作物の豊穣を願うもの。「祈年」の「年」は主に「稲・米」を意味し、その豊作を祈る祝詞とされる。
本論は「祈年祭祝詞」について、我が国で最初の文字文献とされる「古事記」とともに現代訳して発行され、わかりやすい「頭注」のある岩波書店の『古事記 祝詞』(日本古典文学大系 1・1977年)から引用する。そしてその引用文を「祝詞本文」と呼ぶ。「祈年祭」は朝廷でも重視された祭であり「延喜式」巻八では時期的な意味も含めて最初に登場する。それは次のように始まる。以下引用文中[]内はルビ。<>内は川元の挿入。
「集侍[うごな]はれる神主・祝部[はふり]等、諸聞[もろもろきこ]しめせ」(『古事記 祝詞』前掲387p)だ。
延喜式が施行された当時(九六七年)この国は地域に分けて六六ヶ国。これを朝廷が統治した。この六六ヶ国にある官幣社の神主・ハフリが朝廷の祈年祭に参集し神からの授かり物としての「初穂」などを含めた「幣帛[へいはく]」を受け取り、それを持って自分の国に帰り、同じ意味の儀式、地域の「祈年祭」を行う。そうした国家的祭祀の始まりがここに宣命されている。
祝詞はこの後、高天原の「皇祖神」=イザナギ、イザナミが地上の「神」に宣命する形で始まる。「天つ社・国つ社と稱辭莧[たたえごと]へまつる皇神等[すめがみたち]の前に白[もう]さく<イザナギ、イザナミが皇神等―穀物を司る神―に宣命する>、今年二月に<祈年祭のこと>御年初め<農耕の始まり>たまはむとして、皇御孫[すめみま]<天皇のこと>の命のうづ<多く尊い>の幣帛(みてぐら)を(略)まつらく<祭る>」(『古事記 祝詞』前掲387p)だ。
天皇制の修飾語が多くてわかりにくいが「皇祖神」と「皇神等[すめがみたち]」<「等」と複数で呼ぶのに注意>と「皇御孫[すめみま]=天皇」が別々の個性を持って登場するこの部分を読み解くと、以後の意味がわかりやすい。
参考に次田潤のこの部分の口語訳を紹介する。「高天原に鎮まります皇祖の神々の神勅によって、天つ社国つ社<天皇制以前からの天神<神話として>、国神<地域の神々。大地母神や水神、祖霊など>と申して、お祭り致す神々<皇神等>の御前に申すことは、今年の二月に全国の豊作を始め給うに当って、天皇の尊厳なる幣帛を(略)奉りますという仰言を承られたい<天皇の幣帛を地域で祭ることを承知すること>」(『新版 祝詞新講』・戎光社・平成二十年61p)だ。次田の口語訳は祝詞の文意に誠実であり、これが朝廷の祭りであるのを示すが、そうした文意にあっも、その天皇制が何を支配するか、行間にその対象ー人・民の姿―がある場合、本論はそれを浮き彫りにしたいので、文意の背景に迫ることとなる。そしてその意味で私はまずここにある「天つ社・国つ社と稱辭莧[たたえごと]へまつる皇神等」の内実を見ながら進める。
「皇神等」と複数で呼ばれる「神」について『古事記 祝詞』(前掲)の頭注は「御年の皇神達[すめがみたち]」とし「穀物の実りをつかさどる神。特定の神ではなく、祈年祭に祭られる神の総称」(前掲386p)とする。これはいわば「天神・国神(地祇)」や「八百万神」に通じるもので、いわば天皇制以前の「多神教」に通じるものだ。この「神」を私はアニミズムに通じるものと考え、プレアニミズムとして作物・稲・米を育生する「自然の生命力」に繋がるだろうと考える。このことはこの後すぐ実像としてみることとなる。
ともあれ、吹田潤の口語訳からしても、天皇制が直接支配する対象が「天つ社・国つ社」であり、具体的には「国つ社=地祇・神」なのがわかることだ。
こうした支配の構図をより明確にするため、この祝詞本文で使用される主な単語を『古事記 祝詞』(前掲)の頭注と、私なりの説明を<>内に加えておきたい。「皇神等」は先に挙げたのでここでは外す。なお頭注は『古事記 祝詞』の校注者・武田祐吉によるもの。彼は「祈年祭祝詞」の朝廷的完成を「飛鳥の京の時代(六七二~六九四)、または藤原の京の時代(六九四~七一〇)」と推測している(前掲373p)。以下単語説明の①②の記号は本論の都合でつけた。
①祈年祭=農作物の豊穣を願う祭。以前は二月四日。今は二月十七日に行う。<祈年の「年」は農作物・米を意味する>。
②祝部(はふり)=下級の神職。<古代の神職は神主・禰宜・祝部の三職とされた>(『神宮司廳蔵 古事類苑 神祇部二』神職上 吉川弘文館1457p)。
③皇睦=天皇の親しみ睦びたまうところの。
④神ろぎの命=天皇の先祖の神。<イザナギ・イザナミのこと>
⑤皇御孫(すめみま)=天皇。<イザナギとイザナミの子孫>
⑥幣帛[みてぐら]<この祝詞では天皇が地域の神主・祝部に授与するもの>
⑦初穂=最初の収穫。<耕作した物。主に米を作る百姓がその成長を天―基本的に自然の生命力―の皇神達に感謝して収穫物の一部を奉げる、そのもの。天皇制確立によって初穂を天皇が受け取る形となり、その初穂に天皇の「霊力」が加わって一層「耕作力」を増して百姓に戻される。その儀式が祈年祭である。朝廷は返していく「初穂」を「幣帛」と呼ぶ>
2 天皇制による民・百姓の支配
朝廷の「祈年祭」は、全国二八六一社の式内社全体を対象に行う。その中で、年の初めの二月に朝廷の神祇官による「祈年祭」に参集する「神主・祝部」は式内社の内「官幣社」と呼ばれる「七百三十七座」(約六百六十社・川元)である。「神主と祝部[はふり]」が朝廷に呼ばれ、天皇の代理としての神祇官から「幣帛」を受け、自分の国に持ち帰り、周辺の国も含めて同じ意味の祭を行うこととなる。吹田の口語訳で「天皇の尊厳なる幣帛を(略)奉ります」とはこのこと。つまり、本来地域の「天神(社)・地神<国神>」を祭る全国の「神主・祝部」を朝廷に集め、彼らを通して天皇が全国支配する、そうした構図がここまで述べられている。
続いて祝詞は、その支配の構図をさらに具体的に述べる。
「御年の皇神等の前に白さく、皇神等の依さしまつらむ<耕作の神たちが作ったとされる>奥つ御年<奥つ御年は稲のこと>は、<人が>手肱<手や肱>に水沫畫き垂り、向股に泥畫き寄て<股に泥水掻き寄せて>、取り作らむ奥つ御年<稲>を、八束穂[やつかほ]の茂し穂<長い多くの穂>に、皇神等の依さしまつらば<皇神達が育てたら>、<人は>初穂をば、千穎八百穎[ちかひやほかひ]<たくさん>奉り置きて、甕[みか]の上高知り、甕の腹満ち雙べて<瓶の上、瓶の腹いっぱいに>、汁にも頴[へ]にも称辭竟[たたえごとを]へまつらむ<讃え祭る>」(『古事記 祝詞』前掲387p)。
引用文冒頭の「御年の皇神等」の「御年」が具体的作物であり、一方「皇神等」<穀物の実りを司る神>が抽象的概念であることからすると、ここでの実像は「作物が自然の中で育つ」様子そのもの、と考えてよいはずだ。
この部分を私なりに口語訳すると「穀物の実りをつかさどる神等が育成したという稲<「奥つ御年」は穀物の中で最も遅く実る稲>は、実は<人が>手肱に水沫畫き垂り、向股に泥掻き寄て、取り作らむ奥つ御年<稲>だ」と読むのがふさわしいだろう。ここで特異なのは<>内に入れた<人>だ。祝詞本文に<人>はない。しかし続く「手肱<手や肱>に水沫畫き垂り、向股に泥畫き寄て<股に泥水掻き寄せて>」は人が水田で「御年=稲・米」を作るために働く姿以外に考えられない。これは人が「田植え」をしている姿と考えるのがふさわしいだろう。つまり祝詞のこの部分は「穀物のみのりをつかさどる皇神等が育成したという多くの稲は、実際には人が手や肱、股に水沫や泥をつけ、田を掻きまわして作った稲だ」と述べている。
このように読むと、この部分は非常に実像的なのだ。そしてこの祝詞の中でこの部分が最も大切なところと私は思う。なぜなら、アニミズムや天皇制の神観念を超えて、ここには人が自然を前にして、いかにして稲・米などを作るか、その姿が虚飾なしに語られるからだ。自然の生命力に依拠するプレアニミズムにしても、ここにある人の姿を通して考える以外に、その実像はないのだ。祝詞はさらに続き、現実的な天皇制が祝詞を通して、ここにある「人」をどのように支配するか、その社会的、あるいは観念的構図を述べていく。次のようだ。
「御年を<稲・米を>、八束穂[やつかほ]の茂し穂<長い多くの穂>に、皇神等の依さしまつらば<皇神等が育てたら>、<人は>初穂をば、千穎八百穎[ちかひやほかひ]に<たくさんたくさん>奉り置きて」(前掲387p)。
ここに初めて「初穂」が述べられる。「初穂」について『古事記 祝詞』の頭注は「最初の収穫」とする(前掲387p)。しかしこれだけだと「初穂」の意味が十分伝わると思えない。引用文に沿って言えば、それは人が田を掻き回して作った「稲」であり、その豊かな実りをもたらす「穀物の実りを司どる神=皇神等」に人が感謝して「最初の収穫物」を奉げて祭る。「初穂」の原点と意味はここにあると考えて間違いない。そしてその意味付けの根拠がこの祝詞の範囲では「穀物の実りをつかさどる神=皇神等」である。そのために私は皇神等がアニミズムに通じると考えるのであるが、しかし現実の天皇制の中では、この「初穂」の原点が「皇神等」を通して天皇制に領導され、自然への感謝が「天皇」への感謝に変えられる。その思想的装置が「祈年祭祝詞」である。祝詞は次のように続く。
「初穂」は本来「稲・米」であったが天皇制になると様々な物資、狩猟、漁獲物、生産物、加工物に広がる。「祈年祭祝詞」が朝廷の祭りに活用されるようになった頃、それは「租」「調」等の税として領導されたのである。豊かに実った稲穂を「初穂をば、千穎八百穎[ちかひやほかひ]に<たくさんたくさん>奉り置きて」に続き、畑の野菜、海の魚、織物、山の毛物、白い馬や白い猪などが述べられる。
「大野の原<野原>に生きる物は、甘菜・辛菜、青海の原<海>に住む物は、鰭[はた]<魚>の廣物・鰭の狭物(略)御服<着物>は明るたへ・照るたへ・和たへ・荒たへ(略)白き馬・白き猪・白き鶏、種種の色物を備へまつりて、皇御孫の命<天皇>のうづの<多くの>幣帛を稱辮寛へまつらくと宣る」(『古事記 祝詞』前掲387p)。
最後に述べられる「皇御孫の命<天皇>のうづの<多くの>幣帛を稱辮寛へまつらくと宣る」はそれまでの「皇神等」を超えて「皇御孫=天皇」が顔を出す。
これまで穀物を作り育てる神々は天皇ではなく「皇神等」、その実像としての「人」であったが、しかしここではそれらが消しさられ「初穂」が天皇に領導された後の形態として「種種の色物を備へまつり」「皇御孫の命<天皇>のうづの幣帛を稱辮寛へまつらくと宣る」となる。「幣帛」とは「初穂」に天皇の「霊力」を加え翌年二月に、天皇から授けられて地域の「人」に戻っていく形態の象徴だ。この時「稲・米」だけでなく、野菜・魚・動物などが加えられる。朝廷の「祈年祭」およびその「祈年祭祝詞」の本当のねらいはこのようなイデオロギー装置として現れる。
続いて朝廷内の御子・巫女が祭る「天神・国神(地祇)」が述べられ、最後に「山口に坐す神」「水分に坐す神」への祭りが述べられる。「山口」は宮殿を造営する材木を切り出す山。「水分」は分水嶺のことで具体的には畿内の山と河を述べる。つまり朝廷に集まる「初穂」、それらを育てる河の水源としての河・水である。
「祈年祭祝詞」は「延喜式」巻八に載っている二十八の祝詞のうち最も長文とされる。それは農作物に関する部分だけでなく、野原・畑、海、河川、朝廷内の古い神社の祭り、いわば天皇制を支えるすべての現場の様子が述べられ、全体は十一部節からなる―本論は約五部節をみた―(『新版 祝詞新講』前掲143p)。そしてその十一部節の一つ一つは文章構成としてはバラバラなのがわかっている。つまり全体は、一部節一部節が別々に存在していたものを、朝廷が一つの「祈年祭祝詞」に仕上げたことが様々な研究者によって指摘されており、一部節一部節は天皇制以前からそれぞれの場面で活用されたであろうと考えられている。
3 民間信仰・農耕儀礼の意味
① 農耕儀礼と祈年祭祝詞
「祈年祭祝詞」で述べられる農耕生活のその現場、その実像としての「手肱に水沫畫き垂り、向股に泥畫き寄て」は、人が田植えをして稲・米を作る姿が述べられている。これは祝詞の範囲でいえば天皇制が何を支配しようとするか、非常に具体的に述べるところであるが、同時にこれは当時、人々が生きるために穀物を作る姿であり、それはまた地球上どこにでもある姿ではなく、日本列島の主には本州で出来た水田稲作の実像であり、その他の農作業ではない。つまりこれが我が国・和人社会の実像なのだ。この姿は、例えば卑弥呼の時代でも見られただろうし、数千年前の弥生時代、縄文時代からの和人の姿であることが考古学的に証明されるところだ。
そうした背景をもつ「祈年祭祝詞」であり、天皇制がその作物を領導・搾取するため「祈年祭祝詞」として仕上げたのがわかるのであるが、その「初穂」についてもう少し突っ込んで考えてみよう。「初穂」が弥生時代、縄文時代からあったかどうかわからないものの、この祝詞が朝廷によって編成された時期に「初穂」があったのは確であり、人は基本的に「穀物の実りを司どる神」=「皇神達」に感謝して祀ったのである。そのころ地域社会の人々、水田稲作を主体にする人々は「祈年祭祝詞」でいう「皇神達」をどのように考え、どのように呼んだだろうか。
当面考えられるのは祝詞でいう「すめらみたち」であるが、この漢字表記は、当時特別階級として漢字を使った天皇制用語の匂いが満ちている。「皇」などは天皇制以外に使わないのではないか。
ここで考えられるのが「祈年祭」(としごいのまつり)の「年」である。「トシ」と読み、「祈年祭祝詞」でも「御年[みとし]の皇神達」とし、『古事記 祝詞』の頭注で「穀物の実りを司どる神」とする。こうした活用としての「年・トシ」は重要な意味を持っているだろう。実は私は、この「トシ」について、多くの資料をもっていたのである。「祈年祭祝詞」との繋がりに気づくのが遅すぎた、ともいえる。
② 今も使われる「トシ神」
朝廷の祈年祭が農作物の豊穣を願う儀礼なのはよく知られる。「祈年祭祝詞」の本文で「今年二月に御年初めたまはむ」(『古事記 祝詞』前掲387p)とされ、これを祭ってから各地の農作業が始まる。つまり朝廷をはじめ各地「記年祭」は、実際の農作業の前に豊作を願う「祈年祭」を行い、それを 予祝儀礼ーあらかじめ前もって祝うーとしていたのがわかる。
このように考えると同じ意味の「予祝儀礼」は今日でも伝統的行事として各地で行われる。特に農耕でのそれは、主に稲・米の豊作を願って行われる事例が多い。私も農耕・漁労・狩猟儀礼を全国的に取材したことがあり、自分の著書に反映させてきた。農耕儀礼としては「田遊び」「田楽」「田植踊り」などと呼ばれる。それらは内容的に重複する部分が多いのであるが、その中で典型的と思われる「田遊び」をここでみる。
新井恒易による『農と田遊びの研究』(明治書院1975年)という本がある。「田遊び」は地域によって田打、田祭、鍬祭、御田植、田植踊りなどと呼ばれ、「二十四の物作り」とも呼ばれる。稲・米だけでなく穀物・野菜など全般に及ぶためだ。近・現代になって消滅した事例が多いものの、新井恒易はそれを全国的に取材し、一三五ヶ所の「田遊び」を詳しく紹介する。それによると「田遊び」の神観念は、土地の「産土」「祖霊」など地域性が多いものの、その中でほぼ共通なのが「田の神=トシ神」といえるだろう(『農と田遊びの研究 下』前掲229pなど)。これは「年神」「歳神」とも書かれ「祈年祭祝詞」で度々登場する「御年」「祈年」の「年」と同じである。
またこの「トシ神」は、古代の祝詞二十八篇が集約された『延喜式』が完成する約百五十年前、八〇七年(大同二)に齋部広成が書いた『古語拾遺』で「御歳神」や「御歳神の子」が登場する(前掲・岩波文庫1985年・原文144p)。その原文とともに、それを訓読みした部分において、「御歳神」と小見出をつけて「昔神代に、大地主神、田を営む日に、牛の宍を以て田人に食わしめき」「白猪・白馬・白鷄を其の祟りを解く」ために供儀した(前掲・訓読53p)としており、供犠の対象が「御歳神」であるとする(前掲・訓読文・岩波文庫1985年53p)。ここにいう「昔神代」が天皇制以前であるのは間違いないところだ。そしてこれら「歳」「年」「トシ」が「稲・米」あるいは「農作物」とされることから、それは「稲の神」「米の神」「農作物の神」、あるいは「田の神」であり、エドワード・B・タイラーが指摘する「アニミズム」に共通するといってよいだろう。
③ 予祝儀礼とトシ神
「田遊び」に戻っていえば、これは稲・米作りの予祝として多くの場合、正月または二月に農村の広場または氏神社の前で行われる。中世に「宮座」と呼ばれ、江戸時代に「氏子」と呼ばれた村人の組織が運営する。それは今も続いている。
このように続く「田遊び」であるが、そこで表現される言葉、あるいは所作としての身体表現が大きな意味をもっている。現代では様々に簡略化されているものの、その基本的要素は変りなく続いている。『農と田遊びの研究』からその一つの事例を取り上げる。それは私も取材し、自分で資料を集めている神奈川県横浜市鶴見区の鶴見神社の「田祭」である。『農と田遊びの研究』では「杉山神社」(江戸時代の社名)となっており新井恒易は江戸時代末期の書物「武蔵国風土記稿」を資料として書いている。そこでは稲作のために行う一年の農作業がその手順どうりに語られ、同時にその農作業の手順が所作=模擬的表現として演じられる。そのため古くは一晩中かかった。しかし今は数時間に短縮されている。その「農作業の手順」は基本的に次のようだ。「鍬入れ・苗代田打・苗代かき・苗草敷・種蒔・春田打=代かき・苗見・苗取=田植・鳥追・稲刈」(『農と田遊びの研究』前掲142~142p)。
この祭りは明治時代初期「外国人に観られると品位が落ちるとの心配りから中断」(『民俗芸能 鶴見の田祭り』鶴見田祭り保存会・平成七年・<ご挨拶>)されたのであるが一九八八年に再興した。再興の後に私も観に行き資料を手にした。その資料によると、「祈年祭祝詞」にある<人>の実像のあるところは、ここで「苗代田打・苗代かき・田植」と呼ばれるところだ。その場面の言葉の表現は「練れやゝゝゝや、我前を速練れ、袴のや、素襖笠練れよ。世の中が吉ければ、穂長の尉も、参りたりゝゝ(略)苗代の代掻きを行います」だ。この時の「願い」の対象が「トシ神」である(『民族芸能 鶴見の田祭り』前掲16p)。
三 予祝と「類似の法則21」
ところで、実際に行う農耕作業を、正月などに前もって語り、その手順を所作として模擬的に表現したからといって、本当に豊作に結びつくのかどうか。単なる幻想、虚像ではないだろうか。このような疑問が当然生まれる。
その真相を「田遊び」を構成する稲・米作りの「農作業の手順」から考えてみよう。その模擬的表現は先にみたとおり「鍬入れ・苗代田打・苗代かき・苗草敷・種蒔・春田打=代かき・苗見・苗取=田植・鳥追・稲刈」だ。
この手順はつまりのところ、人・百姓が約半年間、田の中で実際に行う稲・米作りの手順そのものなのは誰にでもわかる。そしてその実際の作業によって稲・米が育生し、豊かな実りをもたらす。だが、その模擬的表現を前もって行うことで、それが育生・実りに繋がるかどうか。効果があるのかないのか。これが問題だ。結論を先にいうとそれは効果がある。この表現は水田稲作の表現であり、それが行われる我が国では確実に効果がある。その理由を述べる。
我が国の民、多くの民衆の歴史が長いあいだ「無文字文化」だったのは知られるところだ。中国からの文字文化が四世紀ころから伝播したといわれ、その影響も大きいが、しかし文字文化は長く天皇や貴族に独占されていた。六世紀前半頃から始まったといえる神仏習合政治にあっても、文字は当時国家的存在である貴族や僧が独占したといって過言ではない。そうした時代、わが国の多くの人・民は、その共同体のリーダーを除いて多くは文字をほとんど使わなかった。寺小屋などを通して城下や都市に文字が浸透するが「米作り」の現場に文字が本格的に浸透するのは一八七二年(明治五)の「学制制定」=国民偕字制以降だ。とはいえ、そうした無文字文化にあってもコミニケーションのための記録・伝達の手法があった。それが、身体と言葉による模擬的表現、そして歌(音律のある言葉)と絵だった。稲・米作りの農作業の手順もこうした手法によって記録・伝達されてきたというべきだろう。そして実は、このような模擬的表現こそが、ジェームス・フレイザーが呪術に発見した「類似は類似を生む」日本の諺にある「類は友を呼ぶ」に等しい「類似の法則」を成り立たせる大きな要素であったと思われる。
「田遊び」などにみられるこのような予祝儀礼の思想と手法・法則は、日本社会、その文化に非常に多い。人々が何かの願いをもって「このようにありたい」と言葉で願ったり、歌ったりするのがそれだ。七夕の短冊に書く願い事など。「若松さま」という伝統的な祝歌がある。若い人は知らないかも知れないが結婚式などで新婚夫婦を祝う歌だ。「めでためでたの若松さまよ。枝も栄える葉もしげる」だ。この歌に若い男女は現れない。若い松が枝葉をのばして栄える様子を歌って、新婚夫婦を讃え励ます、そうした類似の法則から成っている。先に少し触れたが「エビス像」や「エビス舞」も、海の幸の代表としての鯛を釣って「このようにありたい」と喜ぶ姿であり、それを商業的な「お宝」あるいは農作物に擬えて―類似させ―縁起物、祝儀物になっている。
とはいえ、これら全部が「自然の法則」に見合ったものかどうか。多くの場合「非合理な観念連合」といわざる得ない。しかしその一部では「自然の法則」が歌われるものがある。その代表が「田遊び」の模擬的表現だ。ジェームス・フレイザーがいうところの「自然の法則の擬体系なのである。発育不全の技術であると同時に擬科学なのである。自然の法則の体系として見るとき(略)それは理論的呪術と呼ばれてもよい」(『金枝篇 ㈠』前掲48p)と全く同じ体系にあると考えてよい。
私は、古い呪術の一部にあるこのような「科学性」「技術性」を呪術から切り離し、現代の科学、技術に繋げたいと考えている。そのことによって呪術の中にある「正」の部分を「類似の法則21」と呼び、それをより豊かにしながら二一世紀の人類的課題に応えたいと考えている。二〇一一年三月一一日に起こった東日本大地震と福島第一原発の爆発事故のニュースに触れながら、強い抗議の表明としてその年の末に刊行した拙書『脱原発・再生文化論―類似の法則21』(お茶の水書房・2011年)に、副タイトルとして―類似の法則21―としたのは、このような意思があったからである。その本で「田遊び」以外に同じ事例をたくさん挙げたので参考にしていただきたい。また、この「類似の法則21」を基軸にすると自然と人の共生を実像的に考えることが可能な思想「エコシステム=文明システム」の概念が構成できるのを指摘しているので参考にしていただければ幸いである。
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〔opinion8282:190107〕
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