新・民主主義―共生の原理とともに(3)
- 2019年 1月 8日
- 評論・紹介・意見
- 川元祥一
*初出:『社会理論研究 19号』(社会理論学会)より許可を得て転載
第三章 資本という非人格の「怪物」
一 日本の資本について
マルクス・エンゲルスによる『共産党宣言』(岩波文庫・二〇〇三年)は、「ヨーロッパに幽霊が出る―ー」という表現で始まる。続けて「共産主義という幽霊である」だ。私はこの表現に違和感を持っていた。共産主義が必然的とするその趣旨からして「幽霊」はないだろう、と。あえていえば、幽霊は資本ではないか、と。この思いは今も変らない。そしてそれは少し修正して私の思うとおりになったと思う。修正とは、幽霊の比喩はやはりあまり的確ではなく、その場合資本は「非人格の怪物」というのがふさわしい。つまり現代の「怪物」、グローバル資本主義の資本である。
その初期、ヨーロッパ社会における資本主義は中世末期に社会的影響力をもっていた同業者組合=ギルドへの資本投下から始まっている。この時、新しい価値体系としての資本の自由と、その資本が非人格的存在であるため、それまで人格的関係としてギルドを束縛していた封建領主たちとの主従関係が物質的・物理的となり、新しい体系としての資本の自由が一気に花開いた。そのあと大航海時代を経て産業革命を迎える。このことによって資本の自由は産業者・職業者・分業者だけでなく消費者末端まで浸透し、ほぼすべての人がその「恩恵」を受けることとなる。しかし、この時期、同時に、資本の自由の体質が変わった。資本は一人一人の産業者・職業者・分業者ではなく、巨大な工場と機械、そのための巨大な人々の集団を相手にする「大資本」に変貌。植民地主義(帝国主義)へ変貌する。ターナーやフレイザーの「未開」と「開明・文明」の対立概念は、この植民地主義を正当化する理論として活用され大きな影響をもったといえる。
こうした時期、日本では中世的な同業者組合=座や株仲間が発達しており、西欧のギルドに類似するともいわれる。しかしそこに資本が投入されることはなかった。当時の日本で資産家の資産・資本が動いた行き先は基本的に神仏習合政治で台頭してきた仏教への喜捨であり、主要には地域の神社と並立して建立された「神宮寺」や、私的な菩提寺の建立と運営ー物質的寺の造営だけでなく、多くの僧を常時抱え込まなければならない―に向けられた、と私は思う。また近世に至る織田信長の「楽市楽座」や豊臣秀吉の「検地」「刀狩」「身分統制令」による「兵農分離」「農商分離」「職人の城下移住」―私はこれらをまとめて百姓村の「分離分断」と呼ぶ。「兵農分離」だではその全体像はもちろん本質をも把握できないと思うからだ―などによって、再び産業者・職(能)業者・分業者がそれぞれ単独の共同体として国家に統一され、国家による諸分業の統制・管理が始まる。そしてまた神仏習合政治でのキリスト教禁止、肉食禁止・鎖国という大きな国策が発生し、この国策と諸分業の統制は内向的に連結した。それはさらに近代日本における資本の国家的投入に繋がり、国家主義的帝国主義にも繋がる。
こうした日本史の流れは改めてここに書く必要もないと思うが、この時、民主主義の主体である民衆はどのような存在だったのか。そうしたことが論及されなければ、本来の意味の民主主義の構築は難しいと思われる。
二 共同体内分業と分離分断
日本の歴史の中で民衆が、あるいは歴史的言葉として使われた百姓が、あるいは町人が、自分たちの共同体、村落共同体や同業者組合、町の構成を自主的、自治的に、あるいは民主的に運営したといえる歴史的事例がある。十三、四世紀から十六世紀末まで、主に近畿地域で起こった村落共同体や町の総連合「惣」である。これは、十世紀ころに顕著になっていた荘園制度の「不輸不入」の権利などを背景にしており、「不在地主」的な荘園領主が統治力を失い、在地領主が統治権を持ち始めるころ、その領地内の百姓(様々な職能者・分業者)が連合し、その地域・町や村落共同体の連合体を実質的に運営することに始まる。
このうち「惣村」について『日本歴史大事典』(小学館)は「その内部は、地侍・百姓・下人などの身分的な階層構成を成していたが、全体としては惣百姓として強固な結び付きを形成し、一つの法的な主体として社会の中に位置づけられていた。そこでは成員全体が参加して寄合をもち、衆議によって惣掟が定められ、自検断が行われ、年貢の地下請けを実現していた」とする。ここで「惣百姓」とか「成員全体が参加して寄合」という言葉が使われるが、そうした言葉が成り立つほどに「民主」的な要素があった。その構成員を辞典は「地侍・百姓・下人など」としているが、その具体的実像は、むしろこの後、この「惣村」やそれを構成する村落共同体が秀吉によって分離分断された後の様子でより具体的に読み取れる。その様子は、かって江戸時代の職業・身分・居住地が一体としての身分制度として言われた「士・農・工・商・穢多非人」である。そしてこの序列は江戸時代以前「侍(士)・農・工・商・皮田(後の穢多・非人)」として検地帳などで把握されていた。
もっとも江戸時代の身分は今「武士・平民・賎民」と表現される。それはそれとして、私は先の序列を職業的カテゴリーとして残すべきと考えている。秀吉が行った「兵農分離」は「兵農」だけでなく「検地」で百姓村(惣も含め)の実態を把握し、荘園はもちろん在地領主(戦国大名)の土地領有をも否定し「刀狩令」でその百姓たちの武装解除、「身分統制令」で「兵農」「農商」の分離分断を、さらに侍(武士)の城下への移住によって家臣の同行、武具を作る職人(鍛治や皮田)も「奉公人」として「城下」に移住した(『国史大辞典 3』吉川弘文館462p)。秀吉はこれを「天下統一」―律令制による国家的統治に替わって武士による国家統治ーのために行ったのである。そのため私はこの状態を「百姓村の分離分断」と呼ぶ。
こうした歴史を前提にして分離分断の前を考えると「侍(武士)・農・職・商・皮田」がすべて百姓、または町人として共存していたのがわかる。したがって私は、分離分断の前を「共同体内(ない)分業」と呼び、分離分断の後、天下・国家が諸職能―この後は「職業」とするー・分業を単独の職業共同体として統治する「共同体間(かん)分業」と呼んでいる。
三 社会的分業
日本的ともいえるこのような中世的近世初期的職能者・分業者―専門的職業でなく農耕などと兼業の場合<職能>と呼んでいる―であるが、それらが西欧社会でどのように把握されていたかを十九世紀フランスの社会学者エミール・デュルケムの『社会分業論』(講談社学術文庫)を手掛かりに考えたい。これまでみた日本での諸職能・分業者は分離分断の後の近世社会にあって、その基本的要素といえる「士・農・工・商・皮田(穢多非人)」が身分・職業・居住地が一体的に分離分断され、いわばそれぞれが「純粋培養」として国家に統治されたのであり、日本でそれら総体が分業として把握されることはほとんどなかった。仮に少しはあったとしても、多くは「士・農・工・商」までであって、そこに「皮田(穢多・非人)」が本格的に組み込まれることはなかったのである。そうした傾向の中では、この国の歴史の全体像を把握できないだろうし、ましてや民主主義が成り立つことは出来ないのをしっかり認識すべきと思う。
一方デュルケムは、例えば中世ヨーロッパの自立的同業組合としてのギルドを基盤とし、ギルドの総連合、その連帯を構想し、それぞれの分業体が協同、協労することで国家とは別に、大衆・民衆が自立する基盤ができると考えた。この構想について同書の訳者・井伊玄太郎は「訳者まえがき」で「それはいうまでもなく、小さな村に相当するものを都市や国家のうちにつくり出すことである。彼によれば、それは、あらゆる社会的機能を共同体的並びに自治的に果しうる専門的諸職業の『同業組合』」であるとし、さらに「文明的社会の共同体または自治体を、職業的団体またはそれらの連合体に見出している」(『社会分業論<上>』前掲6P)のである。井伊が最後にいう職業的団体の「それらの連合体」が社会的分業の実像であり、デュルケムの構想の根幹であり理想ともするものだ。それをデュルケムは「有機的連帯」という。ここでデュルケムのいう「共同体または自治体」と日本社会のそれが決定的に違うのはデュルケムの場合それが分離分断されてないことだ。したがって日本社会で同じことを構想するには、織豊政権の前か、その後かなり時間が経った後、幕藩体制の「藩」が一定の自立性をもってからのことといえるだろう。このことは後で述べる。
デュルケムはそうした連帯を重視するにあたって、資本主義社会で専門的諸職業(分業・川元)がややもすると個別の競争に追い込まれるのを指摘。資本という非人格的価値によって専門的諸職業が個別の競争に巻き込まれる可能性があることだ。しかし専門的諸職業は本来は社会的分業であると彼は主張「分業はそれが分化させる諸活動を集中させる。それは、それが引き離すものを接近させる。(略)互に闘争している諸個体が既に連带的であり、そして連带的であると感じていること、すなわち、同一社会に属していることが必要なのである」(前掲 <下>78p)とする。つまり専門的諸職業が常に「同一社会に属している(分業として・川元)」という、そうした社会をデュルケムは社会的分業といい理想像とする。
なおまたデュルケムは、インドのカースト制をみながら、文明的・有機的分業の連合の中で、職業による差別が超克・解放されて「水平化」現象が起こるとする。インドのカースト制はヒンズー教の血縁による身分と職業差別が一体化したもので、日本の神仏習合政治による「ケガレの忌避=タブー化」としての職業差別に近似するが、デュルケムは社会的分業の連合体について「有機的連帯―近代的諸職業の分業―が類似から結果する連帯(機械的分業・近世以前・川元)に少しずつとって代ってゆくのであるから、外的諸条件が水平化されることは不可避である」(前掲<下>245P)とする。ここでいう「有機的連帯=近代」と「機械的分業=近世以前」はあまりに機械的分類と思うのであるが、ともあれこうした近代的結果が現代的価値観、民主主義の構想に欠かせないのは確かだ。なお、デュルケムにみられる機械的分業と有機的連帯の区別には、彼の宗教観、殊にエドワード・B・タイラーの「文明」と「未開」の対立構図に類似するところがあり、タイラーも含めてキリスト教の人間中心主義が背景にあると思われる。
私は若いころデュルケムのこうした自然観・宗教観と、さらには彼が過激な社会主義革命を避けているのに失望し、彼への関心を失ったのであるが、しかし私が当時関心を寄せた社会主義革命とその社会はこの間急速に失墜し、資本のグローバル化を招いた。そうした状況に対抗する論議があるものの、それは総体性を失ってその基軸を明確に描けない今日にあって、グローバル社会の過当な競争原理と格差が拡大、労働そのものに不毛感が蓄積される今日、デュルケムの社会観、労働観、殊にその分業論は、その宗教観を克服しながら―キリスト教はその人間中心主義を反省している―もう一度見直す必要があると思われる。
五 惣と「社会的分業論」
デュルケムの『社会分業論』にあるギルドの総連合、専門的諸職業の連帯は日本中世の惣村の実像に近似すると私は思っている。またそれは諸職能=分業が共同体内にある状態であり、日本でそれを原型に構想すると、それはどうしても分離分断以前の「共同体内(ない)分業」の形態といえるだろう。
そうした時期―分離分断以前―日本の共同体内(ない)分業は、早くから内部の商業者によって他の共同体や都市・市場などとの交流が盛んだった。そうしたエネルギーが戦国時代の「分国」を支えるところまで行った。この時点をデュルケムがいう「自立的」「有機的=近代的」分業の萌芽といってよいと思うが、それがさらに進んだ形で「分国」の連合体「共和国」までは進まなかったのが日本なのである。その一歩手前で、古い天皇制の権威を借りた「天下統一」=「共同体間(かん)分業」=統一国家となり、それまで戦っていた諸分国の、それぞれを支えた「共同体内(ない)分業」、その主要な構成者としての百姓や町人、職人の「惣」をも分離分断し、自立の出来ない小さな個別の職業集団・単独の職業共同体にして国家に「隷属」させたのである
とはいえ現代、そうした歴史を逆手にとって、それを民主主義を基軸に見直したらどうなるだろうか。そうしたことを考えるのである。
いうまでもなくすでに五百年も前に分離分断された共同体、共同体内(ない)分業をそのまま取り戻すのは不可能である。しかしその後の、国家による「共同体間(かん)分業」は、各地に今も残る城下町ーしかもそれはかって「分国」成立直前までいった経験を持っているーを中心に分断されたのであり、我々がその分断をそのまま、民衆を主軸に新しい共同体として取り戻す構想を持つのは不可能とは思えない。そしてそうした構想を主軸に新しい民主主義の要素を含めて大きな分業共同体を想定し、新たな「共同体内(ない)分業」、ジュルケムのいう専門的諸職業の連帯として、そこに現代的分業も組み込んでいく。そうした可能性が浮かぶのではないか。
なお、最後にもう一つ書き加えたいことがある。「祈年祭祝詞」でみた天皇制支配と、織豊政権後の国家的支配は、先に少し見たように江戸時代をとおして続き、なお近代の「王制復古」=絶対的天皇制にまで続くのである。しかも明治政府は明治二年に神祇官を復活し「祈年祭」をも再興した(『新版 祝詞新講』前掲60p)。
こうした歴史をマルクスが指摘したアジア的形態と考えることが出来ると思われる。その場合その形態を人・民の位置からみると、その根幹に共同体―都市的同業組合も含めて―が常にあるのがわかる。しかも「祈年祭祝詞」でわかるとおりその原型は人・民が稲・米作りのため灌漑用水による水田で働く姿であり、それは常に民の共同体を必要としたのが明確だ。したがってアジア的形態を頭から否定してはならないし、否定できるものではない。だからそれを民衆の側に取り戻すために、共同体を民衆の主体で運営する理念とか思想を構想しなくてはならない。タイラーたちが「未開」を否定的にみた原因の一つには、その共同体の運営に専制的主従関係の厳しさなどがあったのは確かだ。そうした歴史を反省しなくてはならないが、幸いにも我々は、そして多くの地域では、共同体の自主的、あるいは民主的運営の経験をもっている。我々の地域ではそれが「惣」だ。その経験を現代的に生かし、そこに第一章の最後に示した新しい民主主義の構想を加えることで、その民主的現代を構想したい。
<了>
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
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