『美しい日本の私』と『あいまいな日本の私』から
- 2019年 1月 17日
- 交流の広場
- 箒川兵庫助
澤藤弁護士は,『櫻井よしこの護憲派へのエールに応えよう。』(2019年 1月 16日評論・紹介・意見,ちきゅう座)でタイトル「世界で一つの変な憲法の改正は今が最後の好機」を取り上げ「ちょっと変な日本語感覚だが、・・・」と感想を漏らされている。
確かに少し変だ。読みようによっては,世界で一つ変なのは「改正」である,とも読むことができる。つまり「変な」のは,「改正」であって「憲法」ではない。
そこで思い出したのが,作家川端の『美しい日本の私』である。「美しい」のは日本なのか,それとも「私」なのか。その両方だという人もおられる。しかしこの本を読めば,川端が日本を美しいとは言っていないことが分かる。「日本の美」とは言っているが,日本には美しいものが数えきれないほどあるというのが近いだろう。
このように考えると川端の場合,美しいのは「私」である,ということになる。同様にして櫻井氏の場合,「世界で一つ変な」のは,憲法「改正」であるということになる。したがって櫻井氏の文章が『護憲派へのエール(澤藤氏の読み通り)』というのは,川端の意味で正しいだろう。
さてしかしそこでまた思い出したのが,ノーベル文学賞受賞の大江健三郎の受賞演説である;『あいまいな日本の私』。英語では“Japan, The Ambiguous, and Myself”というらしい。この語順をみると,「日本」と「あいまいな」と「私自身」は同格であり,3つの 単語である。「あいまいな日本」とか「あいまいな私」という解釈の入り込む余地はない。
太平洋横断経済連携TPP11・12の正文が美しい日本語を除外しているのは残念だとしても,英語表記ならよく分かる。おそらくフランス語でも同じであろう。しかしこの表記に従えば,櫻井氏の「世界で一つの変な憲法改正」はどうなるのであろうか。「憲法」,The「世界で一つの変な」,そして「改正」である。
もちろん櫻井氏の他の部分を読めば,「憲法が変である」と主張していることが分かる。しかし,コスタリカ国は軍隊をもたず,戦争行為を否定する憲法をもつ。だから「世界で一つ」というご指摘は当たらない。
また日本国憲法はよく知られているように,ハ-グ陸戦条約,パリ不戦条約などを踏襲しているので少しも「変」ではない。櫻井氏の文章からこれだけ「変な」印象が得られる以上,文章としても,タイトルとしても意味をなさないように思われる。
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