工場労働者大統領ワレサの初仕事――総評事務局長のネクタイを切り落としてみせたのは誰か――
- 2019年 1月 20日
- 評論・紹介・意見
- 岩田昌征
今は昔。前世紀の1980年、当時の共産党(=統一労働者党)体制のポーランド重化学工業労働者階級が公然と共産党独裁体制に反旗を翻して、工場占拠の大ストライキを打った。ポーランド統一労働者党は、妥協の道を選択し、ここにソ連東欧集権制社会主義ではじめて党支配から解放された独立自主管理労働組合が誕生した。人口4000万弱のポーランドで瞬く間に900万人が加盟したと言う。
我が祖国日本も、右から左までポーランドの「連帯」を熱烈に支持し、注目し、翌年前半に「連帯」の輝ける指導者、グダニスク・レーニン造船所の電気工の青年労働者レフ・ワレサ一行の訪日を日本各地で熱っぽく歓待した。ワレサ招待の主役は、総評事務局長の冨塚三夫であった。
『ワレサ自伝―希望への道』(社会思想社・1988年)にワレサの現場労働者魂が面目躍如する様相が生々と描かれている。ワレサ一行を歓迎する集会での一エピソードである。これは競争社会日本へのワレサによる批判的スピーチだ。
「……容赦ない競争を持ち込んでいることなどに触れた。この競争は何処へ向かっているのか?どこで終わりになるのか?……人々は私の話を理解してくれ、自分たちの労働組合の指導者の話よりも身を入れて聞いてくれた。組合指導者たちは何処かエリートの雰囲気を漂わせていた。私は彼らの間違いを冗談めかして伝えたいと思った。そこでレセプションの最中、ハサミを取り出して、総評事務局長の冨塚氏のネクタイを切り落としてみせた。このジョークは好意的に受け止められたが、真意は伝わらなかったようだ。」(p.246 、強調は岩田)『ワレサ自伝―希望への道』の共訳者、著名ジャーナリストの筑紫哲也は、それはワレサに魅せられて、解説を次のように書き始める。
「レフ・ワレサ。その名を聞き、あの風貌を思い浮かべるたびに熱い感慨がこみ上げてくる。長いこと政治、中でも国際政治に関わるジャーナリストをやってきた私は、自分の眼で随分たくさんの指導者、偉いさんを見てきた。会ってもきた。が、ワレサはその中で特別の位置を占める。何故か。……フォーク・ヒーロー(民衆的英雄)のほとんど唯一の生き残りだからだと思う。……『制度』『主義』『組織』など様々な人間以外のものの従僕となり果てようとしている中で、この人間は彼自身の言葉でいえば<自分の家>に住もうとした。そして、その事を説得力を持って自分の仲間たちに説くことができた稀な存在であった。」(p.436)
その後、ヤルゼルスキ将軍による戒厳令によって地下に追いやられながらも、10年も経たない1989年6月4日、ワレサたちの「連帯」運動は上下両院の準自由選挙の実施を勝ち取り、大勝利を掴む。大統領職は統一労働者党のヤルゼルスキ将軍に譲ることに合意しながらも、政治の実権は、「連帯」出身のマゾヴィエツキが政府首相となって掌握した。
「連帯」は、1981年9~10月に開かれた第1回全国大会で自主管理共和国創立の目標を打ち出し、「真の労働者自主管理が自主管理共和国の基礎となる」と宣言していた。権力を掌握した「連帯」はそれを現実化しようとするのか。しかも、1990年末の完全自由な大統領選挙によって、ワレサ自身が大統領に選出されていた。今や、上下両院と政府、そして大統領を手中に収めた「連帯」運動は、十年前に統一労働者党体制に突き付けた労働者大衆の諸要求を実行できる位置にある。
1989年8月にマゾヴィエツキ「連帯」政権が成立した直後9月と10月、ワレサは、十年前とは真逆の反労働者的立場を明言した。
「私たちが強力な労働組合を建ち上げるならば、私たちはヨーロッパに追い付けないだろう。」(David Ost、the DEFEAT of SOLIDARITY、Cornell U.P. 2006、p.37)
また、「私たちが強力な労働組合を打ち立てた場合、組合はどんな所で最強になるだろうか。カトヴィツェ製鋼所その他の巨大偶像(=工場:岩田)においてであろう。しかし、これら巨大な諸工場を何とか始末しなければならないのではないか。強力な組合が同意するであろうか? 私たちが強力な経済を持つまでは私たちは強力な労働組合を持つことは出来ない。」(p.53、強調は岩田)
以上は、大統領になる直前の発言であるが、筑紫哲也がワレサ賛美論を書いた1988年5月を過ぎること、僅か1年5ヵ月後にワレサ自身は「フォーク・ヒーロー」から、完全に脱却していた。
大統領選に勝利したワレサは、ダンスクからワルシャワへ居を移す。大統領府として使われていたベルヴェデル宮殿近く、クロノヴァ通り6番地の大邸宅に大統領宿舎を構えた。そこに、大邸宅の元所有者の正当な相続権者が姿を現した。そんな彼女等は、1930年9月のナチス・ドイツ軍のワルシャワ占領によって大邸宅から追い払われ、また戦後は統一労働者党政権によって大邸宅が国有化されてしまっていた。彼女等相続権者は、ワレサに直訴し、ワレサは彼女等とベルヴェデル宮殿で直接に話し合った。ワレサは、彼女等旧財産所有者の要求を完全に受け容れた。つまり、「旧体制によって、私的所有権が不正に侵害された者は、その権利を回復できる」と。ワレサ大統領は、全国の村長や市長、そして県知事へ、出来る限り速やかに返せる物から旧所有者たちに返還するようにとアピールした。
ベルヴェデル宮殿における会談から4ヶ月経った1991年5月、クロノヴァ通り6番地の大邸宅は、旧所有者家族に返還された。そして、長い交渉を経て、大統領府に売り渡された。これがワレサ大統領の初仕事である。(Iwona Szpala、Małgorzata Zubik、ŚWIĘTE PRAWO、Agora、Warszawa、2017、pp.46-49)
同年5月21日に、身なりの良い紳士淑女の集団がベルヴェデル宮殿前で集会を開いていた。掲げられたプラカードには、「政府は盗品売買をするな!」(社会主義体制による国有化は、旧所有者によって盗みと見なされている。:岩田)や、「建物を持ち主に返すのにコストはかからない」とある。(Piotr Ciszewski、Robert Nowak、WSZYSTKICH NAS NIE SPALICIE、trzecia strona、Warszawa、2016、p.186)
このスローガンは、ポーランド社会主義経済を資本主義化するプロセスにおける路線の、というより利害の対立を反映している。全般的な私有化・民有化に直ちに入るか、それとも、先ず第一に戦前の旧所有者に財産を返還してから、全般的な私有化・民有化に入るか、の相違である。後者をしないで、前者を行うのは「盗品売買」に当たるという理屈である。
両路線・両利害の調整をしないままに、その後、両者がポーランドでは同時進行し、そのマイナス効果は全て「連帯」運動の実質的担い手であった労働者階級が引き受けることになる。
もっとも運の悪い労働者は、自分が長年働いていた巨大工場(ワレサの言う巨大偶像)が「何とか始末」されるだけでなく、すなわち私有化・民有化されて、過剰人員として整理・解雇されるだけでなく、自分が長年生活していた立派なカメニツァ(石造アパート)が旧所有者の相続者・遺族に返還(再私有化)され、退去を迫られることにもなる。イギリスに行け、そこには仕事も部屋もあるよ、と言う訳だ。
1970年代からワレサ達の労働運動を支援しつづけて来たが、体制転換後も権力職につかなかった故タデウシ・コヴァリク教授は、2003年のある世論調査を遺著で紹介している。――「共産主義のポーランドと今日のポーランド、どちらが生活しやすいと思いますか?」の質問に、50パーセント強が旧システムの方だと回答し、わずか11.5パーセントだけが今のシステムの方と回答した。同じ様な傾向が旧共産諸国のすべてで観察され得る。――(Tadeusz Kowalik、from SOLIDARITY to SELLOUT The restoration of Capitalism in Poland、Monthly Review Press、2012、p.25)
その結果、「連帯」勝利後、4半世紀余が過ぎた2018年2月14日の『朝日新聞』で、ワレサ自身は、次のように嘆くことになる。
「私は、自分が最後の偉大な革命家だったのだと思ってきましたが、ポーランドや米国でいま起こっていり事を見ると、そうは思えなくなってきています。今日では、聖人のような人が解決策を提案しても、誰も耳を傾けないでしょう。今は詐欺師の時代。みな、人を信じなくなっています。」「金のある人は、ポーランドでは5%だけです。残りは貧乏人で何もできない。」
シンボリックに言えば、ポーランド体制転換の受益層は、2003年の11.5パーセントから2018年の5パーセントに減少したわけだ。
1980年の「連帯」人士の言行と1990年以降の「連帯」人士の言行が働く者に関して、白黒正反対である事実を身体で知れば、「人を信じなくなるのも当然であろう。」
平成晩期の日本市民社会でポーランドに言及する知識人は、『朝日』でも『情況』でもPiS(法と正義)政権の強権的民族主義に焦点を合わせて、その新権威主義を批判する。ところで、私がこの小文で突いたようなポーランド社会の状況は、PiS政権以前に左派にも反対されなかったリベラリズム支配の下で実現されたのである。自由にされた、すなわちバラバラにされた人間が頼れる第一は、マネーである。そのマネーに欠ける自由人=ポーランド民衆生活者が民族主義の幻想的統合性に頼ろうとする。それが今日のポーランドである。
この文章は、高木雄郷氏が主催する「連合」系の雑誌『経営民主主義 The Workplace Democracy』(No.69、December 2018)に発表された。ここに補足して提供する。高木氏は、半世紀前専修大学在学時代に民社系の学生として旧ユーゴスラヴィアの労働者自主管理社会主義に関心をいだいて以来、今日にいたるまで一貫して働く場の民主主義、労働者の日常的正義の保証に向けて努力している。レフ・ワレサのようなドラマ性に欠けるが、ワレサのように言行に真逆性のない労働思想家である。
平成31年1月15日(火)
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://chikyuza.net/
〔opinion8319:190120〕
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