■明治維新の近代・8 「天命の自由」と「人義の自由」 ─兆民『民約訳解』を読む・2
- 2019年 1月 22日
- スタディルーム
- 子安宣邦
「此の約に因りて得るところ、更に一あり。何の謂いぞ。曰く、心の自由、是なり。夫れ形気の駆るところと為りて自から克脩することを知らざる者、是れ亦た奴隷の類のみ。我より法を為(つく)り、而して我より之に循う者に至りては、其の心胸綽として余裕あり。然りと雖も、心の自由を論ずるは理学の事、是の書の旨に非ず。議論の序、偶たま此に及ぶと云うのみ。」[1]
中江兆民『民約訳解』「人世」
1 漢訳者兆民に対する侮辱
『社会契約論』第一篇の冒頭でルソーはこの著述の目的についてこういっている。その箇所を二つの現代語訳によってまず見てみよう。
「人間をあるがままに現実の姿でとらえ、法をありうる可能の姿でとらえた場合に、社会の秩序のなかに、正当にして確実な国家の設立や国法の基準があるかどうか、これを私は研究したい。私はこの研究のなかで法の認めるものと利益の命じるものをたえず結合することに努め、正義と効用が分離しないようにするだろう。」(井上幸治訳・世界の名著)
「わたしは、人間をあるがままのものとして、また、法律をありうべきものとして、取り上げた場合、市民の世界に、正当で確実な何らかの政治上の法則がありうるかどうか、を調べてみたい。わたしは、正義と有用性が決して分離しないようにするために、権利が許すことと利害が命ずることを、この研究において常に結合するように努めよう。」(桑原武夫・前川貞次郎訳・岩波文庫)
これは『社会契約論』という著述は何を究明しようとするものであるかを、著者ルソーが簡潔にのべたものである。その際ルソーは、私的な利益の追求主体としてある現実的人間と、全体的な人間集団のあるべき公正・公平的法制との二つを前提にして、いかにして正当で確かな国家的統治体の規約(すなわち一般的社会契約=民約)は可能かを追及したものだというのである。私は現代語訳の説明を意図しながら、ルソー原文の私なりの意訳をしてしまっている。私がここであえて私なりの意訳をしてしまったことには理由がある。それは上の現代語訳によって、ことに後者の現代語訳によってここから展開される「社会契約論」の主旨が分かるかという疑いが私にあったからである。「社会契約論」とは何を前提にして、何が追求されるのか。第一編冒頭の緒言はこれをいっているはずなのに、現代語訳はそれを明らかにしていない。
中江兆民の『民約訳解』は「民約一名原政」としてこの箇所をこう漢訳する。ここには島田虔次の「よみくだし文」をもって記す。
「政、果して正しきを得べからざるか。義と利、果たして合するを得べからざるか。顧(おも)うに人ことごとくは君子なること能わず、亦たことごとくは小人なること能わざれば、則ち官を置き制を設くる、亦た必ず道あり。余もとより斯の道に得ること有らんことを冀(ねが)う。夫れ然る後、政の民と相い適(かな)い義の利と相い合すること、其れ庶幾(こいねが)う可きなり。」
この兆民の漢文訓み下し文を私はさらに兆民の意を汲みながら以下に現代語訳してみた。
「政治が正しいものであることはありえないことなのか。全体の正義とそれぞれの利益とが合する道とはありえないことなのか。人はみなすべて道を了得した君子ではないし、道にはずれた小人でもない。それゆえ法制規約を設けて自らの制約とするのである。私が求めるのは正しく確かな法制規約の道である。それによって政治が人民の情意にも適って正しく、全体の正義と各自の利益とが反することなく合するような道である。それこそ私の希求する道である。」
私は兆民の漢訳文をこのように理解することで、これがルソー『社会契約論』第一編の主旨を見事に漢文上に表現縮したものと見た。現代諸家の現代語訳よりも兆民の漢文訳によってルソーがこの『社会契約論』によって求めたものは何かをより良く、より正しく私は理解した。だが現代の兆民研究者は必ずしもそうは見ない。兆民が訳文で使用する儒家的な言句が彼らの理解を妨げ、その評価を歪曲させてしまうのだ。兆民の使用する儒家的言句によってその使用者の儒家的思想性を規定し、かくて漢訳『民約訳解』を全く否定的にしか評価しない代表者は米原謙である。米原はこういっている。「『民約訳解』は、彼が訳語として採用した術語を合鍵として中国古典の世界に入り込み、それを通じてルソーの世界を再現する試みである。再現された世界は〈東洋のルソー〉と呼ぶしかない類のものである」[2]と。今さら儒家的言語でもってルソーを再現したりする兆民とは〈東洋のルソー〉と呼ぶしかない、得体のしれない代物だと米原はいうのである。ここでは〈東洋のルソー〉とは兆民に対する侮蔑的評言である。近代日本の政治思想史家はルソーの漢訳者兆民を侮辱するのだ。「〈東洋のルソー〉と呼ぶしかない類のもの」と。
米原は一体『民約訳解』をどう読んだのか。だが兆民に対するこの侮辱の理由を、米原の『民約訳解』の読み方から尋ねみたりすることは無駄なことだというかもしれない。しかしことは兆民があえて『民約訳解』という漢訳テキストを作成したことの意義評価にかかわることだ。漢訳に対する米原の否定的評価の理由を尋ねてみよう。
2 近代主義的ドグマ・1
米原が思想家兆民の生涯をたどった『兆民とその時代』は当然のことながら『民約訳解』に一章を構成するような位置を与えていない。『民約訳解』は第三章「自由民権の時代」の第2節『政理叢談』の「一八八一年政変」「民兵制度」「政治と道徳」に次ぐ一項目をなしているに過ぎない。これは『民約訳解』に中心的な位置を与える兆民理解に対する対極的な兆民理解の意図的な提示だといってよい。
「彼は儒教の普遍性を信じていた。儒教を中心とする中国古典の世界像を通してルソーを読み解こうとした時、漢文訳という方法が彼の心に浮かんだのである」と、米原は近代主義的ドグマというべき偏見に満ちた言葉で兆民の儒家性を規定し、この儒家性こそ漢文訳の理由だというのである。だが米原は「彼(兆民)は儒教の普遍性を信じていた」ことをどこからいうのか。ただ漢訳『民約訳解』がその規定の理由であり、帰結であるだけではないか。だから兆民の儒家性の規定は日本の近代政治学がもつ近代主義的ドグマであり偏見だと私はいうのである[3]。したがって漢訳『民約訳解』は偏見をもってしか読めないものになってしまう。米原はわれわれがいまここで読んでいる『社会契約論』第一編冒頭の緒言をめぐってこういうのである。
「ルソーの原著と『民約訳解』の間には重要な落差がある。ルソーは、第一巻冒頭で次のように述べている。「人間をあるがままに捉え、法律をありうべきものとして捉えた時に、正当で確実な何らかの政治法則が、政治秩序の中に存在しうるかどうかを、私は調べたい」。この部分を兆民は次のように訳す。「政、果して正しきを得べからざるか。義と利、果して合するを得べからざるか」。」
米原は原著のテキストを桑原・前川訳によりながら提示している。私はすでにこの訳が原著からずれるものであり、これによって『社会契約論』の主旨は読みがたいことをいった。米原はこの訳を原著テキストと等置しながら、漢訳テキストの前近代的儒家性を批判していくのである。
「「政は正なり」は『論語』(顔淵篇)に出てくる儒教の根本テーゼである。義と利については、例えば、「何ぞ必ずしも利を言わん、亦(ただ)仁義あるのみ」という『孟子』巻頭の語を想起すればよい。この『孟子』の語を引きながら、兆民は「公利私利を論ず」で、義に合致した行為は結果的に必ず利を生むと書いた。『民約訳解』が設定した二つの問題は、ともに儒教の根本テーマである。兆民は『民約訳解』のテーマを儒教のテーゼに引き寄せ、いかなる政体によってこのテーゼが実現されるかをこの書のテーマとした。」
これは恐るべき読み方である。たしかに孔子は季康子の「政」への問いに、「正なり」と答えた。『論語』におけるこの問答はこうである。
「季康子、孔子に政を問う。孔子対えて曰わく、政は正なり。子帥ゆるに正を以てせば、孰れか敢えて正しからざらん。」私はこれをこう解釈した。「季康子が孔子に政治について問うた。孔子は答えていわれた。政とは正です。正しくあることです。もしあなた自身が統治の場に正しくあるならば、だれが不正を犯すことがありましょう。」[4]
『論語』における孔子の言葉は質問者とのパーソナルな関係における、具体的な問題状況を踏まえた回答である。いま孔子は魯の国政の担当者に向かって「政治は正しくあれ」といっているのである。これは権力者季康子にとって重い意味をもった警告である。同じ顔淵篇で子張の政治への問いに孔子が答えた言葉がある。「子張、政を問う。子の曰わく、これに居て倦むこと無く、これを行うに忠を以てせよ。(子張が政治について問うた。孔子は答えられた。心をそのことに置いて、倦むことなく務めることだ。事にあたって真心をもって行うことだ。)」子張とは「才高く意広し、而していたずらに難きを為すを好む」(朱子集注)士だとされる。その子張の政への問いに対して、この孔子の答えがあるのだ。孔子はこのように答える師である。「政とは正なり」とはまさしく権力者季康子に向けた言葉であって、政治の定義でも、根本テーゼの提示でもない。そのことは「政治は正しくあれ」という孔子の答えが普遍的な意味をもつことを否定することではない。
梁の恵王が遠くより見えに来た孟子に「叟、千里を遠しとせずして来る。亦将に以て吾が国を利することあらんとするか」と問いかけた。孟子はそれに答えて、「王、何ぞ必ずしも利を曰わん。亦(ただ)仁義有るのみ(王はどうして利益を言ったりする必要がありましょうか。ただ仁義だけを心がければよいのです)」といった。これは『孟子』の巻第一「梁恵王」章の始まりの問答である。これもまた遊説家としての孟子の為政者へのすぐれた回答のあり方を示すものであっても、決して仁義概念の優越性なり、仁義をもって政治を定義したりするものではない。このように『論語』や『孟子』を見てくれば、米原が何を根拠にして、「『民約訳解』が設定した二つの問題は、ともに儒教の根本テーマである。兆民は『民約訳解』のテーマを儒教のテーゼに引き寄せ、いかなる政体によってこのテーゼが実現されるかをこの書のテーマとした」といったりするのか、訳が分からなくなる。要するにこれは漢文訳『民約訳解』への近代主義的偏見による歪曲的理解の跡を示しているだけである。
3 近代主義的ドグマ・2
兆民は「民約一名原政」の冒頭を「政、果して正しきを得べからざるか。義と利、果して合するを得べからざるか」と記した。これはルソーの原文「人間をあるがままに現実の姿でとらえ、法をありうる可能の姿でとらえた場合に、社会の秩序のなかに、正当にして確実な国家の設立や国法の基準があるかどうか、これを私は研究したい」(井上訳による)を前提にして、ルソー民約論の主旨を独自の漢文的言語をもって問いかけの形で見事に縮約的に表現したものである。ルソーは「人間をあるがままに現実の姿でとらえ」るといっている。前回見たように兆民はこの人間を「天命の自由」をもったままの人間としていた。私的所得と欲求主体としての人間である。その人間が全体的正義を前提にした法制的社会の構成員にいかにしてなりうるのか。全体的正義と各自的利益とが反することなく調合した統治体はいかにして可能か、その共同社会の規約はどのようなものであるべきなのか。
「政、果して正しきを得べからざるか。義と利、果して合するを得べからざるか」という問いかけの中身を尋ねてゆけば、それは『社会契約論』の本旨に行き着くことになる。これは決して儒教的理念の実現を求めたテーゼではない。むしろ「政は正なり」「何ぞ利を曰わん、ただ仁義有るのみ」といった経書的記憶を担った漢語概念はより的確にルソーの民約論的本旨を指し示していくだろう。私は兆民の漢訳『民約訳解』は現代語訳のどれよりも的確にルソー『社会契約論』の本旨を表現すると見るのである。
前回すでに見たように兆民は『民約訳解』の第一章「本巻の旨趣」の「解」で本巻の趣旨というべきことをいってしまっていた。
「然りと雖も、自由権も亦た二あり。上古の人、意を肆(ほしいまま)にして生を為し、絶えて検束を被ること無きは、天に純なるものなり。故に之を天命の自由と謂う。本章の云うところ即ち是れなり。民あい共に約し、邦国を建て法度を設け、自治の制を興し、斯くて以て各おの其の生を遂げ其の利を長ずるを得るは、人を雑(まじ)うるものなり。故に之を人義の自由と謂う。第六章以下の云うところ即ち是れなり。天命の自由はもと限極なし。而して其の弊や、交(こも)ごも侵し互に奪うの患(うれ)いを免れず。是に於いて、咸(み)な自(みず)から其の天命の自由を棄て、相い約して邦国を建て制度を作り、以て自から治め、而して人義の自由うまる。かくの如きものは所謂る自由権を棄つるの正道なり。他なし、其の一を棄てて其の二を取り、究竟して喪(うしな)うところあること無ければなり。若し然らざれば、豪猾(ごうかつ)の徒、我の相い争うて已まず、自から其の生を懐(やすん)ずること能わざるを見、因りて其の詐力を逞しうして我を脅制し、我れ従いて之を奉じ之を君とし、就きて命を聴かん。かくの如きものは、所謂る自由権を棄つるの正道に非ざるなり。他なし、天命の自由と人義の自由と、幷せて之を失えばなり。此の二者の得失を論究せんこと、正に本巻の旨趣なり。」
兆民はここで新たな社会契約からなる人間社会の成立を、「咸(み)な自(みず)から其の天命の自由を棄て、相い約して邦国を建て制度を作り、以て自から治め、而して人義の自由うまる」と「天命の自由」の喪失と「人義の自由」の獲得として説いた。この二つの自由をルソーの原文にもどしていえば「la liberté naturelle(生来の自由)」と「la liberté civile(社会的自由)」である。兆民はこの二つの自由を「天命の自由」と「人義の自由」とし、前者の喪失と後者の獲得として社会契約的な人間社会の成立を説いていった。もし兆民による漢訳『民約訳解』の成功をいうのであれば、この「天命の自由」と「人義の自由」という兆民の漢訳的「自由」概念による新たな人間社会の成立が成功裡に説き出されたかどうかを確認しなければならない。われわれは直ちに第八章「人世」の章を見よう。
だがその前にこの「自由」の漢訳的概念についても米原の近代主義的ドグマによる否定的批判があることを知らねばならない。米原は『兆民とその時代』に先立つ論文「方法としての中江兆民」で『民約訳解』について恐るべきことをいっている。ここで米原は彼の近代主義的ドグマというべき漢文的言語への偏見のすべてをいっている。長いが米原のドグマ的発言のすべてを引いておこう。米原はここで「夫れ自由権を棄つる者は、人たるの徳を棄つるなり。人たるの務を棄つるなり。自から人類の外に屛くるなり」(『民約訳解』巻之一第四章)という兆民の訳語を前にしていっている。
「ここに「徳」とはqualitéである。『訳解』の最大の特色は、儒学の用語を訳語として多用することによって、儒教倫理の内包するエートスの内部で『社会契約論』を理解しようとした点にある。ヨーロッパ近代の思想家の中で、ルソーはこのような試みに最も適した思想家である。あるいはむしろ、ルソーの政治思想のもつ強い道徳的性格は、儒教のエートスの中に位置づけることによってのみ、当時の日本語の文脈の中に移しえたと言えるかもしれない。兆民は明かにこのことを意識した上で、『社会契約論』の漢訳を試みたに違いない。彼の方法と文体は一体のものである。」[5]
ここで例示されている「徳」とは他者に及ぶような人の持ち前の強さ、大きさ、広さをいう語であって、それは直ちに儒家的概念であるわけではない。兆民がqualitéを「徳」と訳したことに、彼のすぐれた漢語的感覚をわれわれは見るべきであって、彼の儒家的エートスなどを嗅ぎ出すべきことではない。米原のこの発言は漢訳『民約訳解』のテキストに何の根拠も理由ももたない、漢語文に対する彼の近代主義的先入見を示す以外の何物でもない。こうして米原はla liberté civileの兆民の漢訳語「人義の自由」について、「「人義の自由」とは、したがって、礼の世界において当然「脩め」るべきことを「脩め」た上で、はじめて許される「自由」である。「民約」による「一般意志」の拘束を、兆民は礼の世界における当為による拘束に移し換えた。ルソーがcitoyenに要求した市民的倫理は、こうして見事に再生したのである」ということになるのである。兆民の漢訳『民約訳解』を読み直し、その意義を再発見するためには、このテキストを蔽い、その意義をみえなくさせてきた日本の近代政治学の近代主義的ドグマを破り捨てることが必要なのである。
4 「天命の自由」と「人義の自由」
ルソーの『社会契約論』の第一編の第八章は「社会状態について(De l’état civil)」として、人間が社会契約を介して自然状態からいかに社会状態へ意志的に移行するかを記述する。人間社会が自然的にではなく、その構成主体である人民の共同の制作的意志とともに成立するものであること、そしてこの社会の制作とともに人間は何を得、何を喪うか、それまでの人間からいかなる人間に転身するのかを記す重要な章である。西欧に準じて近代社会への移行的形成をめざす明治日本に欠けていたのは、人間による共同社会の制作的意志であり、その意志をもった人民的な制作主体であった。ルソーはこう語り始める。
「自然状態(l’état de nature)から社会状態(l’état civil)へのこの移行は、人間の行為において正義をもって本能に置き換えたり、それまで人間の行動に欠けていた道徳性を与えたりすることによって、人間にきわめて注目すべき変化をもたらすのである。このときはじめて、義務の呼び声は肉体的衝動に、権利は欲望に入れ替わることになり、それまで自分しか考慮しなかった人間は、違った原則に基づいて行動し、自分の好みに従う前に理性に図らなければならない。」(井上訳)
これを兆民はこう漢訳する。いや漢訳というよりは兆民は漢文的言語をもってその主旨を再表現する。なお兆民はこの第八章のタイトル“De l’état civil”を「人世」としている。
「民約すでに立ち、人々法制に循いて生を為す、之を天の世を出でて人の世に入ると謂う。夫れ人ひとたび天世を出でて人世に入る、其の身に於いて変更するところ、極めて大なり。蓋し、曩(さき)には直情径行、絶えて自から検飭(けんちょく)すること無く、血気の駆るところ、唯だ嗜慾に是れ狗(したが)う。禽獣と以て別つ無きなり。今や事ごとに之を理に商(はか)り、之を義に揆(はか)る。合すれば則ち君子となし、合せざれば則ち小人となす。而して善悪の名、始めて指す可し。曩には人々ただ己を利せんことを図り、他人あることを知らず。今や利害禍福、必ず衆と偕(とも)にし、自から異にするを得ること無し。」
さきに示した現代語文によるものを「翻訳」とするならば、これは翻訳ではない。これはルソーの原文を逐語的に漢文脈に置き直して、漢訳テキストを完成させようとしているのではない。兆民が直面しているのは人類史における最大の転換、すなわち自然状態における人間が共同的契約によって社会的存在に転身し、自らを社会的制作主体、権利主体として再構成していくという転換である。こういう人類史的転換を語りうる理論的言語をわれわれはもっているだろうか。
明治日本が西洋の新知識を受容するに当たっての翻訳言語・翻訳文は漢語カナ混じり文からなる漢文訓読体的翻訳文であった。兆民の最初の翻訳『民約論』の文章がそれである。いまその一節を引いてみよう。
「君主ノ権ハ最モ専擅に最モ貴重ニ又最モ犯ス可カラズト雖モ、而レドモ当初約定ノ分界ヲ超過ス当ラズ、乃チ各人此約ニ由テ己レニ有スル所ノ資財ト自由ヲ用ルコトハ其全権ニ在ル当シ、又君主ハ決テ一人ニ命ズルニ重役ヲ以テシ一人ニ命ズルニ軽役ヲ以テスル等ノ事有ル可カラズ、公会ノ議事衆人ニ渉ラザルヲ以テ君権ノ所轄ニ在ラザレバナリ、」[6]
この文章の分かりにくさ、これが分かるためにはもう一度われわれはこれを自分の言葉に訳し直さねばならない。これが分からないのは、漢文訓読体的文章であるからではない。これが自分の言語ではない翻訳文であるからである。七年後の兆民はあらためて漢訳し、漢文体『民約訳解』として自由民権の叫ばれる世に問うた。なぜか。われわれはその答えを、いまここに見る『民約訳解』の文章の上に見出すことができる。ここに引く「人世」章の文章によって、われわれは「天世」から「人世」への人類史的な転換の意義を生き生きと読むことができるのである。
私は兆民論の始めに「制作論的序章」を書き、徂徠の制作論的文章を引いた。それは人間の祭祀的共同世界の成立を聖人の制作として論じた文章である。それは東アジアの漢語的世界における初めての人間社会の成立をめぐる制作論的文章である。そしてわれわれは兆民の『民約訳解』に初めての自覚的人民を制作主体とした人間社会の成立をいう生き生きとした漢語的文章を見出すのである。なぜ漢語なのか。それがわれわれの自立的な思想言語であったからだと、いま私は仮りに答えておこう。
ルソーは「人間は自然状態から永久におのれを引き離し、無知な、想像力のない野獣を知性的な存在、人間たらしめるあの幸福な瞬間を、たえず祝福しなければならないだろう」(井上訳)という。さらにルソーは人間はこの移行とともに「生来の自由」を喪失し、「社会的自由」を獲得することをいう。兆民の漢訳はこれを「天命の自由」の喪失と「人義の自由」の獲得として説いていく。
「抑も此の約に因りて失うところと其の得るところと、請う、比して之を較ぶるを得ん。蓋し其の失うところは則ち曰く、天命の自由なり。その得るところは則ち曰く人義の自由なり。天命の自由は限極あること無し、人々ただ力を是れ視る。凡そ其の得んと欲するところは、力を出して之を求め、必ず能わずして後ち止む。人義の自由は、之を建つるに衆意の同じく然るところを以てし、而して之を限るに亦た衆意の同じく然るところを以てす。是の故に、天命の自由に由りて得るところ、之を奪有の権と謂い、之を先有の権と謂う。奪有の権は、人の弱くして守りを為すこと能わざるに乗じて之を行う。先有の権は、人の未だ功を下さざるに先んじて行う。此の二者は、名づけて権と曰うと雖も、実は力と倶に生まれ、亦た力と倶に亡ぶのみ。人義の自由に由りて得るところは、之を保有の権と謂う。此の権は文書以て之を著し、生滅ともに力に渉ること無し。」
さらに兆民は[解]で、「天命の自由は、人々ただ力を是れ視る」といい、「人義の自由は、民約の置くところ、亦た民約の限るところなり」と注解している。私はここに兆民がルソーの二つの「自由liberté」概念を「天命の自由」と「人義の自由」という漢訳概念に再構成することによって、わが言語上に社会的存在としての人間の成立意義を鮮やかに記しえたことを知るのである。社会的存在としての人間の成立意義を記しえたことの悦びは筆者兆民こそ深く知るのであり、その悦びはそのまま最後の「心の自由la liberté morale」の記述に溢れている。
「此の約に因りて得るところ、更に一あり。何の謂ぞ。曰く、心の自由、是なり。夫れ形気の駆るところと為りて自から克脩することを知らざる者、是れ亦奴隷の類のみ。我より法を為(つく)り、而して我より之に循う者に至りては、其の心綽として余裕あり。然りと雖も、心の自由を論ずるは理学の事、是の書の旨に非ず。」
私はここに制作主体としての我の成立をわが言語によって誇らかに告げられていることを見る。ここで「わが言語」とは「漢語」である。兆民にとって「漢語」こそがわが自立的な思想の言語であった。だが明治の時代も国家もこれを「わが言語」とはみなさない。その明治の国家的法制化への岐点をなす明治15年(1882)に兆民は「漢語」をもってこの国のそれぞれの「我」が法制的国家の制作主体であることを告げたのである。
漢訳『民約訳解』とは近代日本に早くして投げかけられた根底的なアイロニーであるようだ。
[1]中江兆民『民約訳解』からの引用は島田虔次の「よみくだし文」(『中江兆民全集』
第一巻、岩波書店)によっている。なお島田の「よみくだし文」は『中江兆民の研究』(桑原武夫編、岩波書店、一九六八)にも収められている。
[3]私はここで米原による「兆民の儒家性の規定」を「日本の近代政治学がもつ近代主義的ドグマ」だといったが、『兆民とその時代』の「あとがき」で米原が丸山の福沢論への対抗を強い動機として書いたものであることをいっている。丸山政治思想史の強い磁場の中にいながら米原は福沢と異なる反功利主義的近代批判者としての兆民に惹かれて、丸山・諭吉像に対する米原・兆民像の構築を考えたのである。そこから〈反儒家諭吉〉に対する〈儒家兆民〉が意図的に作り出されることになる。だから〈儒家兆民〉もまた「日本の近代政治学がもつ近代主義的ドグマ」の産物といって間違いではない。
[5]米原謙「方法としての中江兆民ー『民約訳解』を読む」下関市立大学論集二七−三、1984年1月。
[6]中江兆民『民約論巻之二』「君権ノ分界」、『中江兆民全集』1。
初出:「子安宣邦のブログ・思想史の仕事場からのメッセージ」2019.1.20より許可を得て転載
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