苛め・蟻地獄・統合失調症
- 2019年 1月 27日
- 交流の広場
- タークン
誹謗中傷に敏感な人の大半は繊細で、高度な精神の持ち主であり、批判は出来ない。
繊細で高度、私自身どちらかというと元々誹謗中傷に弱かったので、そういった人々に心惹かれる。
誹謗中傷、それはある意味恐ろしい。
特に中高生がそうだが、人一人の人生を変えてしまう程の影響力がある。
教育上の問題で、苛め等がそうだが、中には自殺行為に走る生徒もいるが、それは大問題である。そんなことで死んでは元も子もない。そして、それ以前の段階で登校拒否に至り、精神的に追い詰められ、病院での治療を受ける生徒もいるが、その場での回復は早く、退院して学校に戻っても苛めのターゲットとというのは例えて言えば、蟻地獄の様な物で、半ば、憎しみの対象者と化している場合があり、また元に戻る場合も少なくはない。
綺麗ごとや難しい理論等は通用しない、間接的な殺人と言っても過言ではない、従って相手が死ねば、一つの苛めが終る事になるが、冗談ではない、そんな事があって良い筈はない。
しかし、この仕組み、かなり難しい。斯く申す私は小学生の時から苛められて育ち、時には攻撃による怪我、出血も伴う。
苛める相手の表情を私は実際に観たが「殺してやる」と言う表情、殺意に似たものがあり、まるでなぶり殺しと同じである。私は耐える事が出来たが、耐える事が出来ない生徒の活路が今後も懸念される。
あれは正に、『誹謗中傷の究極』ではないかと私は思う。
誹謗中傷の類は社会のあらゆる分野で垣間見ることがあるので残念だが、それが人間の本能の一部を示唆する。
しかしながら、人間、生まれ持った本能は一生涯続くと言う事が生きていく上で肝要である為、この複雑怪奇な前述の存在を一生涯の内、どこかで認識せざるを得ない時が来る、その時、愕然としない様、落胆しない様、頑張って貰いたい。
今、心の問題、急浮上多様化、私はある意味、敗北者、しかし、それなりに生きている、完全な敗北者ではない、逆に勝利者でもない、では何なのか、生存者である。
私は大学卒業生の様な立派な学はないが、それでも専門学校までは行かせてもらい、就職するまでには至ったが、故あって途中で退職を強いられた。
その理由は私が統合失調症を患ってしまったからであるが、それも過去の苛めが影響している事は確かだ。
気が細く、小心者な私に務まる仕事等無かったのかも知れない。
苛められて育った私は何時も怯えていた。
人を見ると苛められると思い、何時もびくびくし、誹謗中傷に非常に弱く、苦悩する日々が続く。
どんな仕事もそんな事では務まらない事の認識は遅かったが、障害年金の受給資格が降り、質素な生活を送っている。
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