私が会った忘れ得ぬ人々(5) 河合隼雄さん ――人間の心の中の自然を守れ
- 2019年 1月 30日
- カルチャー
- 横田 喬河合隼雄
神奈川県座間市で一昨年秋、若い女性ら九人もの殺害~死体遺棄事件が起きた。犯人は自殺願望を抱く被害者にツイッターを介して接近。自殺幇助を口に次々と手にかけ、僅か三か月ほどの間に驚くほど大勢の命を奪った。奸悪な犯行が許せないのは無論だが、うら若い娘たちがそろって自殺を口にするこの国の苦い現実に胸が痛んだ。反射的に、若者の自殺願望の心理に詳しい臨床心理学者・故河合隼雄さんの存在を思い起こし、古い取材ノートをめくって思い当たる箇所を探った。彼は、こう述べている。
――「死にたい」と言うことでしか「生きたい」気持ちを伝えられない人たちがいる。
自殺願望を口にする裏には、「死ぬと言っても見捨てませんか」「死ぬほどの苦しみなんです。分かってくれますか」という強い問いかけがある。
――人間が成長するということは、「死」と「再生」とを繰り返すこと。人間が自己変革する苦しみの中で、自殺を考えたり、死にたいと思ったりするのは、むしろ当然と言ってもいい。「自殺予告」の背後にある大切なことは、本当に信頼し得る、共感を伴う深い人間関係に対する強い希求なんです。
日本の若者の死因の第一位は自殺だ。先進七か国の中で、若者の死因の第一位が自殺なのは日本だけ。この傾向は長らく変わっていず、河合さんの透徹した考察は今もって少しも古びていない。私が河合さんにインタビューしたのは、今から三十四年も前の一九八五(昭和六十)年のこと。奈良市郊外の閑静なご自宅を訪ね、差しで一時間余りいろんなお話を伺った。当時の記事の触りはこうだ。
――「現代は、物質文明のものすごい進歩に、精神文明のテンポがとてもおっつかん難儀な時代。心身症にかからずに生きていくには、外界の自然と同様、人間の心の中の自然も守れ、と言いたいな」と京大教授河合隼雄(五六)はいう。ユング派分析心理学を修めた精神分析家として、心を病む人たちを相手に数多くの臨床経験を積む。その結果、心を病む人たちの精神の深層に、病んだ時代の影が色濃くさしていることをつきとめる。――
彼は日本の家庭内における家族関係崩壊の事情について、諄々と説いた。戦前までは厳然として存在した「イエ(家名)」制度は敗戦後、占領軍の手であっさり廃止される。男たちは自由になったが、アイデンティティを見失い、会社などに「代理イエ」を見つけて心の支えにする。戦前は祖父母や叔父母ら眷属ぐるみの「イエ集団」で行っていた育児の仕事は、全て若い夫婦のみに任される。夫は「代理イエ」に逃れ、育児は「教育ママ」の一手に委ねられる。
多くの母親は偏差値信仰が強く、子どもを「いい学校」に入れて、「早く答の書ける出来のいい」子に育て上げようとする。しかし、まるで養鶏のように子どもを育てようとすると、子の方は自分が操作されているように感じて反発し、時には無茶苦茶をやりたくなる。不登校のある女子中学生は、母親が寝ようとする枕元で足を踏み鳴らし、「私がこんなに苦しんでいるのに」と訴えた、という。河合さんは言った。
――(相談相手と)面接すると、(しんどくて)フラフラになる。個々人の心の問題を解きほぐしていくと、決まって社会的な問題が入ってくる。どこそこの家が悪い、と一口で片付けられない。
――心身症とか、家庭内暴力とか、病んでるから結果が出る。心の中の緑地帯オアシスが荒らされてる。目には見えん話やけど、結果は出てるんです。臨教審なんかいじっても、うまくいきません。
河合隼雄は京大理学部数学科を卒業後、奈良の私立高校の数学科教師を三年勤める。「日本一の高校教師を目指した」そうだが、生徒たちから度々悩み事の相談を受け、気が変わる。京大の大学院に入り直し、臨床心理学を学び始める。精神病かそうでないか、病的反応の判別に役立つロールシャッハ・テストに注目。その道の権威、米国のクロッパー博士と文通を交わしたのが縁で、五九(昭和三十四)年、博士が勤めるカリフォルニア大ロサンゼルス校(UCLA)にフルブライト奨学生として留学する。
慣れぬ英語の授業に四苦八苦しながらも、数学科出身の自らの科学主義を心頼みに指導教授らに対し厳しい質問を遠慮なく連発し、見どころのある学生として目をかけられる。在学二年、心理療法の専門家になるための教育分析を受けるよう勧められ、テストを十回ほど受ける。資質を見込まれ、クロッパー博士らの推薦を受けて六二年にチューリヒのユング研究所に留学。マイヤー博士らに師事し、現地の高校生らを相手に心理療法の臨床体験も積み重ね、首尾よく日本人初のユング派分析家の資格を得る。
帰国後、河合は京大などで教鞭をとる傍ら、心理療法の専門家として数々の臨床体験を重ねる。その経験から多くの心理療法士育成の必要性を痛感し、日本心理療法学会を設立し、臨床心理士制度やスクール・カウンセラー制度の確立に尽くす。非言語的な表現が多い日本人向きではと考え、遊戯的な心理療法の一つ「箱庭療法」の導入にも動いた。
実験心理学が主流だった西欧では、ユング心理学は長らく傍流視され、フロイト以上にまやかし扱いされてきた。潮目が変わるのは七〇年代。工業社会の行き過ぎによる環境破壊や地球温暖化が問題視され、物質万能の科学信仰が崩れ始める。アメリカではベトナム戦争の実質的敗北のショックや帰還兵の心の病の問題も重なった。心理療法を説くユング心理学の見直しが始まり、ユング療法家の河合にも海外から講演依頼が相次ぐ。
――欧米の人たちが僕の話を聞きたがるなんて、考えられへんかった。講演して、まさか金までもらうとは。でも、よく考えてみれば、先方は男性原理で、こっちは女性原理。日本は男性原理が弱い分、犯罪は少ない。文化の原理が違うだけで対等なんだ、と思えるようになった。
河合は同じ京大出身の物理学者・湯川秀樹や哲学者・梅原猛から、鎌倉時代の仏僧・明恵の『夢の記』を読むよう勧められる。十九歳の時から約四十年にわたって見た夢の内容を綴る日記だ。その夢の一つ一つをていねいに読み解き、明恵の心理の奥深くへ分け入ろうと試み、労作『明恵 夢を生きる』は新潮学芸賞を受ける。
彼はユング派の心理療法を実地に度々試みるうち、日本人の心の在り方は欧米人とは異なるのでは、と疑問を抱く。その療法はある程度は適用可能だが、肝心のところが当てはまらない。日本人全体の心の深層構造を知りたくなり、日本の昔話や神話などの読み解きに向かい、著作『昔話と日本人の心』は大佛次郎賞(朝日新聞社)。
また現代文明に批判的な立場から独自の日本文化論を展開し、『母性社会日本の病理』『中空構造日本の深層』『日本人の心のゆくえ』『「日本人」という病』などを次々と著す。NHK放送文化賞や朝日賞などを受け、文化功労者として表彰される。二〇〇二年には文化庁長官に就任。民間人としては今日出海・三浦朱門に続く三人目だった。
インタビューのおしまいに、河合さんはポツンと言った。
――今は難しい時代や。電子機器にしても、造ってる人はいいが、使われる方はたまらん。そういう滔々たる流れの中で、心身症にならん生き方があるか、それを考えんとならん。やっぱり、「心の中の自然を守れ」いうこっちゃろな。
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