『精神の現象学』第八章 絶対知(翻訳):その1
- 2019年 2月 16日
- スタディルーム
- 滝口清栄
- フォイエルバッハのキリスト教批判の論法を思い浮かべてみるのもよいでしょう。つまり、人間は人間としての自己認識にいたる途上で、回り道をした。神を神的なものとして立ててきたが、この神的なものは実は人間自身の神性にほかならない、云々。
*かなり長文の翻訳なので、二回に分割掲載することに致しました。ご了承ください。(編集部)
まえがきとして
「『精神現象学』の「絶対知」章は、マルクスがパリ手稿で、「絶対知」章の抜粋を作り、思索の糧としようとしたことを手始めに、現代思想においても、さまざまな切り口から取り上げられてきた。話題になることが多くありながら、「絶対知」章の内容そのものが比較的分かりやすい形で示されることはなかったのではなかろうか。訳者は、「絶対知」章のコンテクストをふまえつつ、できるだけ平明に、言葉を補いながら、です・ます調で訳してみた。内容上のアウトラインを別途に整理したものも付しておいた。関心のある方々に活用していただければ幸いである。
なお、訳出にあたっては、G.W.F.Hegel Gesammelte Werke,in Verbindung mit der Deutschen Forschungsgemeinschaft,Hrsg. von der Reinisch-Westfälischen Akademie der Wissenschaftten, Hamburg, 1968-2014.を底本とし、「絶対知」章の段落番号を付した。」
『精神の現象学』第八章 絶対知
【422】
第一段落
啓示宗教の精神(のあり方)は、その精神がそなえている(主観に対して客観が、意識に対して対象が現れるような)〈意識としての意識(の立場)〉をまだ克服していませんでした。
それはこう言いかえてもよいでしょう。同じことですが、啓示宗教の精神に見られた現実的な自己意識(つまり教団を形づくる自己意識)は、この精神の〈(意識するものに対してこの意識の対象をもつことを特性とする)意識〉の対象になってはいません。(この自己意識のありようにきちんと目を向けることが大切なのです。)
一般に啓示宗教の精神自身も、そしてこの精神のうちで区別されている契機(純粋思考、表象、自己意識)も〈(自己意識の知るはたらきが一貫して貫かれているあり方ではなく、自己意識の知るはたらきが十分に意識されることなく、自己意識のいわば内なるものが外部に投影されているような)表象(の立場)〉に、対象性の形式に属しています。
(しかしながら、啓示宗教に現れていた)この〈表象〉の内容は(実は)絶対精神といってよいものなのです。
そして、ここで問題になるのは、この(対象性という)たんなる形式を捨て去ることだけです。あるいはむしろ次のように言えるでしょう。この形式は意識そのものに属しているのですから、この(対象性という)形式の真相が何であるかは、意識のもろもろの形態(感覚、知覚、悟性)のなかで、もうですでに明らかになっていたはずです。
――このように、意識の対象を克服するということは、この対象が〈(知るはたらきを本性とする)自己〉の方にもどってくるというかたちで現れる、そのように一面的なものとして考えられてはなりません。
そうではなく、もっとはっきりと言いますと、対象そのものが、意識に対して(対象というあり方を失って)消えていくかたちで自分を表現するだけでなく、さらに(対象という姿をとる―たとえば「精神」章「自分から離反する精神」で、大義に自己を捧げようとする自己意識が、観念的な大義に現実性を与えるという場面などを思い浮かべるとよいでしょう―)物性を立てるものこそ〈自己意識の外化〉であるというふうに考えられなければなりません。さらに、この外化は(自己意識のそのままの姿を放棄するという)否定的な意味だけでなく、肯定的な意味ももっているというふうに、つまり自己意識の外化が(事態が進んでいくのを傍観している哲学者という)われわれにとって、あるいは事柄そのものに即してばかりでなく、(事態の進行のさなかにいる当事者である)自己意識自身にとっても肯定的な意味をもっているというふうに考えられなければなりません。
(当事者である)自己意識からみて、対象におこる否定的なこと、言いかえますと、対象が自分を廃棄するという否定的なことが肯定的な意味をもつのはなぜでしょうか。あるいは自己意識が、対象が(意識を離れてそれだけで存在するという自立性ではなく非自立的、つまり)空無であることを知るのはなぜでしょうか。それは、一面から言いますと、自己意識が自分自身を外化するからなのです。
――それはこういうことです。つまり、自己意識は、この外化のなかで、自分を対象として立てます(この原型は、〈此岸的な自己を物となすこと〉としての労働にあります。『イェナ体系構想Ⅲ』)。あるいは、(個別存在としての)対自存在は(事柄の深層から見ますと、対象と)切っても切り離せない統一体をかたちづくっているものですから、対象を(知るはたらきであったり、行為であったりしますが、自己のはたらきが浸透したものとして)自己として立てるのです。
他の面から言いますと、ここにはもうひとつの契機があります。つまり、自己意識は、この外化と対象性を廃棄しますが、同時に自分のうちに立ち返るのです。したがって、自分の他的存在そのもののもとにありながら自分のもとに存在します(たとえば、彫刻家があらあらしい石(物性)を前にして手を加え加工し(自己の外化)、ついに物に自己の意志を刻み込み、自分の作品にほれぼれする姿を思い浮かべてみましょう)。(これが別の契機です。)
――こういうことが、意識がおこなう運動というものなのです。こういう運動をおこなうときに、意識は、自分がかかわるもろもろの契機を(まとめあげていく自覚的存在として)全体性なのです。
――同じことになりますが、対象はもろもろの規定(具体的な姿)をもっているものですが、意識は、この全体を見渡してこの対象にかかわらなければなりません。その上で、これら個々の規定によりそって対象を掌握していくものなのです。
今言いました〈対象がもろもろの規定の全体性として成立しているということ〉のうちに、対象が〈(自己意識の知るはたらきが浸透する)精神的存在〉となる潜在性があるのです。
そして、意識の立場から言いますと、対象のひとつひとつの規定を、〈(自己意識たる)自己〉(のはたらきが貫いたもの)として把握すること、言いかえますと、今言いましたように、これらの規定に対して〈(対象の全体を見渡して、知るはたらきというかたちで)精神的にふるまう〉こと、このことがあるからこそ、事柄の真相において、対象が〈(知るはたらきが貫き、知という場面にすべてがのった)精神的存在〉となるのです。
第二段落
さて、対象はまず第一に〈直接無媒介の存在〉です。言いかえますと、物一般といってよいでしょう。それは(意識の章を思い浮かべていただけるとよいのですが)直接無媒介の意識に対応するものでした。
第二に、対象は、対象が他のものとなるということでした(たとえば、物は多様なものの統一として現れていました)。つまり、物が(他のものと)関係をもつことであり、あるいは〈対他存在〉となり、そして〈(ひとつのまとまりをもつ)対自存在〉、(はっきりとした輪郭をもつ)規定態となることでした。
これは知覚に対応するものでした。
――第三に、対象は本質的存在となります。言いかえますと、普遍的なものとしてあります。これは悟性に対応しました。【423】
さて、対象は、全体としてみますと、推理的な連結からなりなっています。言いかえますと、〈普遍〉が規定態(特殊)を通して〈個別〉にいたる運動です。また逆に見てみると、〈個別〉から、個別が止揚されて、規定態(特殊)を通して〈普遍〉にいたる運動です。
したがって、意識は対象を〈自己自身〉として知るときには、この三つの側面によりそうものでなければなりません。
しかし、ここで(現象学で)問題になっているのは(金子:diesをdiesfallsととる)、対象を純粋に概念的に把握するような〈知〉ではありません。
そうではなく、ここでの〈知〉は、〈知〉が〈生成する〉場面のなかで示されるはずのものです。つまり意識そのものに属している(つまり主観・主体である意識の立場からの)さまざまな面から見た〈知〉のもろもろの契機のなかで示されるはずのものです。
そして、本来の〈概念〉あるいは〈純粋な知〉のもろもろの契機(普遍、特殊、個別)は、意識がとるさまざまな形態(たとえば感覚的確信、知覚、悟性)というかたちのなかで示されるはずです。
こういうわけで、対象はまだ、意識そのもののうちでは(意識とその対象という枠組みが残るなかでは対象性がまだ残っているので)、〈(哲学的な観望者としての)われわれ〉が今しがたはっきりと語ったような〈精神的本質態〉として現れてはいないのです。
そして、意識が対象に関わる仕方も、対象をその全体的な姿を見渡して考察するものではありません。またこの全体性がもつ純粋な概念形式において考察するものでもありません。
そうではなく、意識が対象に関わる仕方は、一面で、意識一般(「意識」章)の形態をとるものですし、他面では、いくつかの形態となります。このような形態を、〈われわれ〉がまとめあげるのです。
そして、対象のもろもろの契機の全体も、意識の関わり方の全体も、このような形態のなかでは、もろもろの契機に(内的なつながりをもつことなく)分散したかたちで示されるだけなのです。
第三段落
対象を捉えることは意識の形態のなかでおこなわれます。こうして、この側面にとって、すでに現れているこれまでの対象の形態をただ想起するだけでよいのです。
こうして、(最初に問題になるのは)直接無媒介にあるかぎりでの、(意識と)没関係的な存在であるかぎりでの対象です。こういう対象に関して、〈われわれ〉は、〈観察する理性〉が、この没関係な物のなかに、自分自身をさがして見出そうとするのを見ておきました。つまり〈観察する理性〉が(外なる)対象を直接無媒介な対象として意識するのにちょうど対応して、自分自身のおこないを外的なものとして意識するのを見たのでした。
また〈われわれ〉は、〈観察する理性〉の頂点(頭蓋骨論で)自分の規定(自分のありよう)を「自我の存在はひとつの物である」という無限判断のかたちで表明したのを見ました。
しかも、ここでいう物とは〈頭蓋骨という〉感覚的に直接無媒介な存在なのです。
(それに対して)自我が魂と呼ばれるときには、自我はなるほど〈物〉として思い浮かべられているのですが、目に見えないもの、手で触れることのできないもの等々、したがて実際には直接無媒介なものとして、人が〈物〉ということで考えているものとして思い浮かべられてはいません。
今あげた無限判断は、それが直接あるがままに受け取られるならば、精神を欠いたものあるいはむしろ精神をまったく欠いたものにほかなりません。
しかし、その核心的なあり方から見ますと、この無限判断は、実際は実に精神豊かなものなのです。
この判断の内なるものはまだ表に出てきていませんが、この内なるものこそ、ほかの考察されるべき二つの契機(対象の側では、関係と普遍性、意識の側では、知覚と悟性)がはっきりと語るものなのです。
第四段落
「物は自我である。」実際には、この無限判断のなかで〈物〉は止揚されているのです(「自我は物である」と言うとき、この「物」はたんなる「物」ではないということが含意されていると見ることができるでしょう。その上で、このような逆転がでてきているのです。)
〈物〉はそれ自体としては何ものでもありません。(多様の統一として)関係のなかでこそ意味をもつのです。自我を通して、そしてその物が自我と関係をもつことで意味をもつのです。
この契機が〈意識にとって〉は(精神章の)〈純粋な明察〉と〈啓蒙〉ではっきりするのです。
もろもろの物は誰がなんと言おうと有用なのです。そして、もろもろの物はその有用性にしたがって考察されなければなりません。
〈教養〉を身につけた自己意識は、自分から離反する精神の世界を遍歴して、自分の外化を通して、〈物〉を自己として産み出します。それゆえ、この〈物〉のうちでなお自己自身を保持します。(ここでいう〈物〉は対象的世界のことです。啓蒙の自己意識は対象的世界を理性の力で掌握して、それを自己の世界とします。その最終的表現がフランス革命です。)そして物は(意識を離れてそれだけで)自立的なものではないことを知るのです。
言い換えますと、〈教養〉を身につけた自己意識は、〈物〉が本質的に(他のものとの関係を離れては存在することのない)〈対他存在〉であることを知るのです。
あるいは、(信仰にとっては感覚的な存在はうつろいやすいはかないものなのですが、)(啓蒙の真理をなす)関係、つまり(啓蒙の場面で)対象の本性を形づくる当のものがはっきりと表現されると、意識には、〈物〉は(感覚的に存在するままにそれが意義あるものとと認められます。つまりそれだけで存在する)対自的に存在するものとして見られます。
この意識は感覚的確信を絶対的な真理として語っていることになるのですが、この対自的な存在は、(有用性というあり方のなかで)ただ消失するにすぎない契機として、そして自分の反対に、他者に委ねられる存在に移行するのです。
第五段落
しかし、(関係ないし有用性という)ここで物の知はまだ完成してはいません。
〈物〉は、(今見たように)存在の直接無媒介のあり方にしたがって、そして(具体的な)規定をもった存在にしたがってばかりでなく、本質あるいは内的なもの、〈自己〉として知られなければなりません。
このような〈自己〉は道徳的自己意識(「精神」章の「道徳性」)のなかで現れます。
この〈自己〉は自分の知が絶対的な本質的なものとして知るのです。あるいは〈存在〉を〈純粋な意志〉あるいは〈純粋な知〉として知るのです。
このような意志と知のほかには何もありません。
この〈純粋な意志〉あるいは〈純粋な知〉以外の意志や知には、非本質的な存在、つまり自体的に存在するのではない存在、存在のからっぽの殻が帰属するにすぎません。
道徳的意識は「世界表象」(「精神」章「道徳性」の「ずらかし」)で個別的存在を〈自己〉から解き放つのですが、そうしながらふたたびそれを自分のなかにとりもどすのです。〈道徳的意識は道徳性を純粋なものとみなして、現実的なもの、個別的なものを度外視しようとしますが、ふたたび行為ということになりますと、個別的な現実に接しなければなりません。個別的な現実をそっと取り込むのです。道徳的意識はこのあいだで二つの契機をすりかえ、ずらかしたりするはめになります。〉
道徳的意識は〈良心〉であるときに 個別的存在と〈(純粋な道徳的)自己〉を代わる代わる置き換えたり、ずらかしをおこなうものではもはやありません。そうではなく、自分の個別的存在がそのままこのような〈自分自身についての純粋な確信〉であることを知っているのです。
良心は行動するものとして自己を〈(他者との関係を含む)対象的な境位〉に立てますが、この対象的境位は、〈自己〉が自己について純粋に知る〈純粋知〉にほかなりません。(良心としての自己は自己の内なる確信が万人に妥当通用することを確信しているのです。)
第六段落
精神とその本来の意識(つまり意識の対象とかかわる意識一般)との和解ができあがるのは、これら三つの契機(「精神C、自己確信的精神、道徳性」のa,b,c)からなのです。
これらの契機は、それぞれ個々別々のものです。そしてこの和解の力をかたちづくるものこそ、これら三つの契機の精神的(内在性をもつ)統一にほかなりません。
そうはいっても、これらのなかの最後の契機(つまり「良心」)が必然的に統一そのものです。
そして、明らかになることですが、これらすべての契機を自分のなかで実際に結合するのです。
自分の定在(特定のあり方)のなかで自分自身を確信する精神(良心)は、現に存在する基盤として、ほかならぬこのような〈自己知〉をもっています。
この精神(良心)は、自分がおこなうことを、義務について確信することにしたがって行動していると明言します。
この精神の明言は、この精神の行動と(同じものと)みなされます。
ここにいう行動は、概念の単一性がはじめていやおうなく(即自的に)分離することであり、そしてこのような分離から(もとの単一性に)立ち返ることです。
この最初の運動は、(行動する良心と批評する良心が葛藤を演じる)第二の運動に転換します。
承認という境位は、〈義務についての単一の知〉として自分を立てて、行動そのもののうちにある(普遍的なものと個別的なものという)区別と分裂に対抗するからです。そして、このようにして、行動に対して鉄のようなひとつの現実(頑な態度)を形づくるからです。
しかし、〈われわれ〉は、(行動する良心と批評する良心のあいだでおこなわれる)赦しのなかで、(批評する良心は自分の純粋性を汚さないために具体的な行動を拒否して、行動する良心を批評するのですが、批評する良心の)このような頑なさが自分自身を見捨てて、自分を外化・放棄するさまを見ておきました。
こうしてここ(良心)では、(良心である)自己意識にとって、現実とは、(感覚でとらえることのできる)直接的な定在としてありながら、(普遍性の境地にある)〈純粋な知〉以外のいかなる意味ももちません。(良心は、個別的な自己でありながら、そのまま普遍的な自己というあり方をしているのです。)
同じく、現実が特定の定在あるいは関係としてあるとき、互いに対立するものであり、一方で〈この純粋に個別的な自己〉についてのひとつの知(つまり行動する良心)であり、他方で〈普遍性として知ること(普遍的な自己)〉についてのひとつの知(批評する良心)です。(上述したようなあり方をしつつ、そこには二つの良心の対立が生まれるのです。)
ここで、このようなあり方をしながら、次のことがはっきりとしてきます。つまり、二つの対立するもののそれぞれにとって、第三の契機、普遍性、実在(Wesen,本質存在)がただ〈知〉として妥当するようになっているということです。(肝心かなめのものとして意識されるようになったのです。)
そして、両者(行動する良心と批評する良心)は、(告白と赦しのなかで)まだ残っていた対立を空虚なものとして、最後には廃棄するのです。
そして、両者は、〈自我は自我である〉ことを知るのです。(といっても、この自我は)この個別的な自己がそのまま純粋な知あるいは普遍的な知であるような個別的な自己なのです。
第七段落
このようにして、(対象)意識と自己意識との和解が、二つの面でなされたことが明らかになります。
一方では、宗教的精神においてです(実体の外化、つまり受肉に始まる啓示宗教において)。また他方では、意識それ自身においてです(自己意識の外化、つまり精神章の展開において)。
この二つの和解の区別はそれぞれ、前者の和解が〈(実体的、普遍的)自体存在〉の形式におけるものであり、後者が〈(主体的、個別的)対自存在〉の形式におけるものであるという点にあります。
これまでの考察から分かるように、二つの和解はさしあたり別々です。
〈われわれに〉意識の諸形態は順序よく現れてきたのでした。この順序のなかで、意識は、一方で、このもろもろの形態の一つ一つの契機に到達したのです。他方で、(「精神」章の「道徳性」良心のところで)、それらの諸形態の統合に到達したのでした。このことは、宗教も宗教の対象(つまり実体としての神)に現実的自己意識の形態を与える(つまり、受肉のことです)ずっと前のことでした。
これら二つの面の統合はまだはっきりと示されてはいません。
精神のこの一連のもろもろの形態を締めくくるものこそ、二つの面を統合することなのです。
なぜなら、この統合のなかで、精神は、自分が何であるかを知るにいたるからです。
この自分が何であるかを知るとは、精神がそれ自体として(普遍的実体的面に即して)どのようなものであるかを知るだけではありません。言いかえますと、精神の絶対的な内容にしたがって、知るだけではありません。さらに、精神の無内容な形式にしたがって、あるいは自己意識の側面にしたがって、精神が対自的に(個別的主体的面に即して)どのようにあるかを知るだけではありません。そうではなく、精神が即かつ対自的にどのようにあるかを知ることなのです。
第八段落
この(二つの面の)統合は、潜在的にはすでに生じているのです。なるほど、宗教において、〈表象〉から自己意識に立ち返るときに(普遍的自己意識としての教団において)生じているのですが、しかし、それは(概念という)本来の形式にしたがったものではなかったのです。
なぜなら、宗教の側面は、〈(普遍的客観的)それ自体〉の面で、この面は自己意識の運動に対立するからです。
それゆえ、統合(という作業)は、別の面のほうがふさわしいのです。この別の側面は(宗教とは)反対に、自己内反省の面であり、したがって〈自己自身〉と〈自己の反対〉を含むのです。そして潜在的にあるいは普遍性をもって含むだけでなく、自覚的に(主体的に)あるいは(もろもろの契機を)展開したかたちで、区別をそなえたかたちで含んでいるのです。
自己意識的精神という別の面は、(宗教とは)別の側面です。そのかぎりで、自己意識的精神という別の側面も、その内容も、その余すところない姿で現れて、はっきりと示されています。
まだ欠けているものこそ、これらの統合なのです。この統合は概念の単一の統一です。
この概念は、自己意識そのものの側にもすでに生じているものなのです。もっとも、概念は先立つもののうちに立ち現れていたのですが、〈概念〉も、ほかのすべての契機と同じように、〈意識の特殊な形態〉という形式をもっているのです。
したがって、〈概念〉は、〈自分自身を確信する精神〉の形態の一部をなしていて、それは、自分の〈概念〉のうちにとどまったままです。それは、〈美しい魂〉と呼ばれていました。
つまり、この〈美しい魂〉は、精神が、自分自身の純粋で(自己と他者、自己と普遍的実体との区別をもはや含むことのない)透明な統一のうちで、自分自身を知る(という意味をもつ)ものです。
(また〈美しい魂〉をこう言ってもよいでしょう。)〈純粋な(内面深い自己確信にもとづく)自己内存在についてこのように純粋に知ること〉を〈精神〉として知るような自己意識といってもよいでしょう。
(またこう言ってもよいでしょう。宗教では一般にそうなのですが、)神的なものを直観するだけでなく、神的なものを自己(として)直観することです。
この(美しい魂というかたちでの)〈概念〉は自分の自己実現に対立して、自分を固定してしまいます。そうすることで、〈美しい魂〉は、(自己実現に踏み出さない)一面的な形態であり、空虚なもやのなかに消えていくのです。しかし、〈(読者としての)われわれ〉がすでに見たことなのですが(美しい魂は、批評する良心として行動に踏み出さなかったのですが、最後には、行動する良心の告白を受け、そしてついには頑なな態度を放棄し、行動する良心との和解へとすすんだのでした。)、この形態は積極的に(自分を)外化・放棄して、前へと進んだのでした。
(純粋な内面性に引きこもって、具体的行動に進むならもつであろう)対象をもたない自己意識は、(言いかえると)、概念の充実に対立している〈概念〉の(一面的な)限定態は、この自己実現を通して、廃棄されるのです。
すなわち、概念の自己意識は、普遍性の形式を手にするのです。そして、(一面的な固執を放棄した後に)この自己意識に残るものは、この自己意識の真の〈概念〉、自分の実現を果たした〈概念〉なのです。
つまり、残っているものこそ、概念の真の相における〈概念〉、すなわち、(自分への固執ではなく)自分の外化・放棄と統一したうえでの〈概念〉なのです。
(この外化・放棄のあと、残るものについて、こう言ってもよいでしょう。)それは、(主体と客体という区別の境地を十分に経験して、その上で、主体と客体の統一の上に成立する)純粋知について知るということです。(ですから、「精神」章の「道徳的世界観」に出てきた)義務というような抽象的な実在(本質存在、Wesen)としての純粋知ではありません。そうではなく、(この場合、主体と客体との分離が止揚されていますので、純粋知は)この(個別的な)知、この(個別的な)純粋な自己意識(がすみずみまで浸透している)ような実在となっているのです。
したがって、この(個別的)自己意識は、(たんに、対象に向かっている自己意識というのではなく)同時に〈真の対象〉となっているような自己意識なのです。(つまり、自己意識と対象との統一が実現しているのです。)
なぜなら、対象は、自覚的に存在する〈自己〉(が十二分に浸透しているという意義をもっている)からなのです。
第九段落
この概念は、その充実をみずから得ました。一方で〈行動する自分自身を確信する精神(つまり行動型の良心)〉のなかと、他方で、宗教のなかでそうでした。
後者、つまり宗教で、〈概念〉は、絶対的な内容を内容として獲得しました(神の何たるかを十分に知りました)。(ただし)表象の形式、意識にとって他的存在の形式で得たのでした(物語や聖餐式などの儀式を通して得たのでした)。
それに対して、前者では、形式は〈自己〉自身です(つまり、深い内的確信に良心の本領がありますから、他的なものは何もなく、〈自己〉がすみずみまで浸透していました。自己が形相としてはたらいているといってよいでしょう)。
なぜなら、この形式は、行動する〈自己自身を確信する精神〉を含んでいて、この〈自己〉が〈絶対的精神〉の生命を遂行していくのです(つまり、そうした生命をみずからの生として引き受けていくのです)。
〈〈読者である〉われわれ〉が見たように、この(行動型の良心という)形態は、単一の概念です。といっても、(引きこもりに陥っていった、たんなる美しい魂とはちがって)自分の〈永遠の本質(純粋性に固執して、抽象的義務をいだくにとどまる)〉を断念して、特定の姿で存在する(da ist)、言いかえると、行動するにいたった〈単一の概念〉なのです。
(ところで)〈行動する、自己自身を確信する精神〉は、自分を分裂させて登場するのですが、そうしたあり方を概念の純粋性にもっています。
なぜなら、この純粋性は、絶対的な抽象、言いかえるならば、〈否定性〉です。(概念の純粋性は、分裂をうわべでなぞるたんなる抽象ではなく、どこまでも否定性が浸透した上に成立するものです。)
同じく、この〈概念〉は、自分の現実態を、存在を(生み出す)境地を、自分のうちに、(対象を自分の外部にもつようなあり方ではなく、良心たる)純粋な知そのものに即してもっています。
なぜなら、この〈純粋知〉は、単一の直接態です(つまり、胸のうちなる主観的確信が即、普遍的義務という意義をもつ直接態です。ですから、)この直接態は、存在ないし(具体的、特定の)定在であるとともに、(普遍性をもつ)実在なのです。
(前者の、具体的、特定の)定在は、思考の上で(悪を示す)否定的なものであり、後者は、思考の上で(善を示す)肯定的なものそのものです。
定在(を重視する行動型良心)も義務(を重視する批評型良心)も同じなのですが、このような定在(行動型良心)は、結局のところ、この〈(良心の良心たるあり方を示す)純粋知〉から出てしまいます。(そして)自己のうちへと反照して(具体的行動に軸足をおいて、普遍的義務に固執しないというかたちで)悪となるのです。
(このように普遍性への固執よりも特定の行動を重視するときに、)この〈自己うちに入っていくこと〉は、概念の対立(つまり個別を重視する行動型良心と、普遍を重視する批評型良心という対立)をかたちづくることになります。
(ですから、)それとともに、行動しない、現実的(であろうと)しない(普遍的義務という)本質(実在)にかかわる(良心つまり)〈純粋知〉が登場することになるのです。
しかし、このような対立のなかにこのような知(批評型の良心)が登場することは、(この知が)この対立に参加していくことです。
つまり、〈本質(実在)の純粋知(つまり批評型良心)〉は、潜在的には自分の単一性(内的確信と普遍的義務がそのまま無媒介に一致しているあり方)を外化・放棄しているのです。
なぜなら、この知(つまり批評型良心)は、自分を分裂させることになるし、否定性を示すことになるからです。否定性は概念(にそなわったもの)なのです。
この分裂が〈自分だけで存在するものとなる〉かぎりで、この分裂は悪であり(行動型良心)、分裂が〈(普遍的な即自)自体〉となるかぎりで、それは善にとどまるもの(批評型良心)となるのです。
最初(宗教において)潜在的に起こっていることは、(今では)同時に意識にとっても起こっています(意識の自覚するところとなっています)。そして同じくそれ自身、二重になっています。つまり意識に対してあるとともに、意識の〈自覚的存在〉、言いかえるならば、意識自身の行為となっています。
すでに(宗教において)潜在的に設定されているものが、今や(良心では)すでに起こっていたことを意識的に知ることとして、そして意識的行為として、繰り返されるのです。
【第9段落 続き】
(行動する良心と批評する良心という)それぞれの意識は、限定された姿をもつ自立性のなかで相手に対して立ち現れたのですが、(今や)その相手と向かい合ってこの自立性を放棄するのです。
この放棄は、概念の一面性を放棄することと同じものです。これが潜在的に始まりなのです(良心章)。
しかし、この放棄は今や意識が(自覚的に)おこなう放棄となっています。この意識が放棄する概念は自分の概念なのです。
始まりをなすあの〈それ自体Das Ansich〉は真相においては否定性としてあるので、媒介されたものです。
こうして、あの〈(未展開の)それ自体Das Ansich〉は今や、それが真の姿においてあるように、自分を明確に立てます。そして、この(この〈それ自体〉が分裂をいだくことになった)この否定的なものは、一方が他方に対してもつ〈限定をもったあり方〉として存在することになります。そしてそれ自体として〈自分自身を止揚するもの〉となるのです。
対立している二つの部分のうちの一方〈行動する良心〉は、〈普遍性〉に対立する〈(分裂を含む)同等でないあり方〉であり、それも〈自分の個別性のうちにある(に軸足がある)自己内存在〉での〈(分裂を含む)同等でないあり方〉なのです。
他方(批評する良心)は、(主体的に行動に出て、個別性に軸足をおく行動する良心としての)〈自己〉に対立している〈自分の抽象的普遍性〉が(抱え込む)不等性です。
そこで、前者は自分の(個別としての)〈対自存在〉に対して冷淡になります。そして自分を外化(放棄)して、(自分の一面性を)告白するのです。
後者は、こうして(告白に促された赦しにおいて)自分の抽象的な普遍性の頑なさを断念します。そして、自分の生気をもたない自己(行動に進むことのできない自己)と自分の動きのとれない普遍性に冷淡になるのです。
こうして、前者は、〈本質存在(実在Wesen)〉である普遍性の契機によって、そして後者は、〈(個的主体性である)自己〉によって、自分を補完し(て全体性となっ)たのです。
行動(する良心)のこのような運動を通じて、精神は、自己意識(によって十分浸透されたもの)である〈知の純粋な普遍性〉として、(主客の分離、意識とその対象というような分裂を克服した)知の単一の一体性であるような自己意識として登場しているのです。
精神は、精神が現に存在し、自分の(あるがままの)現存在を思想のうちへと高めて、そしてそれによって、絶対的対立へと高めて、この対立からこの対立のさなかで(自分へと)立ち返ることで初めて精神といえるのです。
【第十段落】
こうして、宗教において内容(三位一体)であり、中保者を表象する形式をとっていたものが、ここでは〈自己〉自身の行為となっています。
内容が〈自己〉自身の行為であるということを〈概念(金子:良心において主体となった事そのもの)〉がむすびつけます。
なぜなら、〈われわれ〉が見るように、この〈概念〉とは、自己内の〈自己〉の行為がすべての本質であり、あらゆる存在であることを知ることです。またこのような主体について実体として知ることです。そして実体について自分の行為のこのような知として知ることです。
われわれがここで付け加えたことは、(もっぱら次の二つのことです。)ひとつは、個々の契機を集めたことです。そのそれぞれが自分の原理のなかで全体的精神の生命を表現しているのです。
二つ目は、概念の形式のなかに概念をしっかり据え置くことです。概念の内容は、今述べた契機のなかに生じていたでしょうし、また概念は、意識の一形態(美しい魂)のなかですでに生じていたでしょう。
【第11段落】
(実体は主体であるという)精神の最後の形態、自分の完全な、そして真なる内容に、同時に〈自己〉の形式を与える精神、そしてそのことを通して自分の概念を実現するとともに、このような実現のうちにありながら、自分の概念のうちにとどまっている精神、このような精神が絶対知というものです。
それは、精神という形態のうちで自己を知る精神です。言い換えますと、概念把握する知です。
真理が(宗教におけるように)潜在的に確信と完全に等しいというだけではなく、真理が自己確信という形態ももっているのです。
言い換えますと、真理は現に存在するにいたっています。つまり、知る精神(自己意識)と向かい合いながら、自己自身を知るという形式をとるにいたっているのです。
真理は、宗教ではまだ自己確信に等しくなっていない内容ですが、これらが等しくなったあり方は、内容が自己の形態を得たという点にあります。
このようにして、まさに本質である当のものが、現に存在する境地となったのです。言い換えるならば、意識にとって対象性の形式となったのです。つまり、概念になったのです。
精神がこの境地において意識に現象すると、言い換えるなら、ここでは同じことなのですが、この境地で意識によって創り出されると、そういう精神は〈学〉というものなのです。
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〔study1018:190216〕
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