リハビリ日記Ⅲ ⑰⑱
- 2019年 2月 20日
- カルチャー
- 日記辺見庸阿部浪子
⑰テレビ出演した辺見庸
庭のウメのつぼみが、2つほころんだ。コケの生えた老木に楚々と咲いた。たしか昨年も、この木から開花したはずだ。地面には、スイセンが凛と咲いている。どちらも、浜松特有の強風にたえつつ、春のおとずれの近いことを告げる花たちである。
2019(平成31)年は、自然災害のない穏やかな年であってほしい。昨秋の台風24号の影響で、わがボロ家のトタン屋根がめくれた。ブルーのシートを覆ったまま越年したのだった。改修を依頼した工務店は超多忙だそうな。
昨年は自然災害だけではなかった。12月なかば、同級生が他界した。その2か月前、内山さんは、小楠さんとともにわが家を訪ねてくれた。心筋こうそくによる急死だったという。97歳の母親より先にあの世へ旅立った。母は戦争未亡人で、河合楽器に勤めながら息子を育てあげた。浜松商業高校を卒業後、かれはトヨタ自動車のセールスマンをした。30代になり自力で保険業を起ちあげる。〈多趣味の男でしたね〉と、小楠さんは親友を回想する。わが脳裏には、同窓会で「ふるさと」をハーモニカ演奏した、かれの姿がうかぶ。
かれは、浜松の奥地に山小屋を建てて、1週間の数日を独りで過ごしていた。〈自然は神だ〉といった。
内山さんの浜商時代の同級生に佐野真樹夫さんがいる。広島カープの内野手として活躍した。佐野さんの父は、昭和初期のプロレタリア詩人、佐野嶽夫である。1933(昭和8)年、「小林多喜二追悼の歌」を作詞している。わたしは佐野嶽夫について、「浜松百撰」の連載「わたしの気になる人」に書きたかった。まず息子の真樹夫さんにかんして、内山さんに取材しのだった。
〈あのころに、こういう名前をつけるとは、かれも詩人だね〉とも、内山さんはいった。中日ドラゴンズの選手から、常葉学園菊川高校の野球部長と監督をした、佐野心さんのことだ。こころと命名したのは父、真樹夫さんだったのか。
散歩道をいくと、ある家の入り口にサザンカの高木がある。じつにみごとだ。上から下までびっしりと花を着けている。しばらく立ちどまり、見とれる。うつくしい! 奥には質素な平屋が建つ。主はどんな人なのだろう。
その主が、ある日、わが家を訪ねてきた。治一郎のバウムクーヘンをもって。思いがけないことに、おどろいた。阿部廣重さんは、つえをついている。『脳梗塞を生きる』(私家版)を読んでほしいという。〈回覧用〉とある。わたしはすぐに読んだ。同病者の体験記はせつない。だが著者は、後遺症、病院でのリハビリ、家庭環境など詳細に書いて、自身を客観化する。悲観も楽観もせず、病によりそいながら生きるそのプロセスは、理性的だ。
阿部さんは公文教室の塾長を長年してきた。6年前に発症したという。
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辺見庸の紺色の中綿ジャケットは、よく似合っていた。その日、作家の辺見さんは黒色のジャケットで現れると想っていた。
1月19日。NHK教育テレビが再放送する番組「こころの時代―在るをめぐって」。わたしは、辺見庸の登場をそわそわしながら待ったのである。
画面は、昨年11月の早朝だろうか。小さな公園のようだ。ひと気がない。辺見庸は、50代とおぼしき男性に腕を助けられながら歩いてくる。右足が硬くなっているのだ。
老いるとは「屈辱」だ。いつぞや、辺見庸は自身のブログのなかに書いていた。しかし、人が人に、しぜんに腕をとられながら歩行する。けっして、わるくはない。あったかい風景だと思った。感動した。わたしにも経験がある。辺見庸はそのとき、人の優しいまなざしをしみじみ感じていたのではないか。
2003(平成15)年9月、辺見庸は、大杉栄らの墓前祭の日、追悼集会で講演した。「八十年忌、そして現在〈いま〉」という題で。その16日夜であろう。辺見庸がホテルの1室で撮影された写真が、わたしの手元にある。女性史研究家の市原正恵が送ってくれたものだ。帽子をとった辺見さんは、笑っている。やや太りぎみだ。精悍な感じもする。その翌年3月、辺見庸は脳内出血でたおれた。病魔は人の一生を一瞬に襲った。だが、辺見庸は病後も、精力的に仕事をこなしている。作品も発言も、心をしたたかに揺さぶる。そして昨年11月、『月』(KADOKAWA)を刊行したのであった。
辺見庸は、死刑反対、憲法九条の尊重、自作の意図と主題について語る。13年前、毎日ホールで初めて耳にした辺見庸の肉声よりも、優しくて、わかりやすい。国家が人の死を決定してよいのか。人が人の存在を剥奪してよいのかと、辺見庸はいう。この世のもろい力、よわい存在に引かれるとも。
歌手のミッツ・マングローブさんによる『月』の朗読がながれる。長編小説『月』は、2016(平成28)年7月の、相模原で起きた障害者施設殺傷事件に、着想したという。「障害者なんていなくなってしまえ」。刃物で19人を殺害した若者はさけぶ。社会に役立たずは消去する。自由、平等、民主主義のないこの社会が、若者の背中をつきうごかしたとすれば、「価値や意味を強制する社会とはなにか」。「それを問い続けることが、事件への正当な反論になるのだ」と、辺見庸は自問自答する。「だれも生きる価値はあるのだ」。人の存在について、熱っぽく語りかけるのである。
辺見庸は、介護施設のデイサービスに通所している。東京の郊外だろうか。施設の送迎バスに乗って新興住宅地をいく。畑が散在する。サトイモのでっかい葉っぱに、つゆがころころ転がり朝陽に反射する。何色にもかがやいて、うつくしいと、辺見さんはいう。
風景に人が感動する。そこには想念がつきまとうと。自分が自由になれるとも、辺見庸はいう。さらに、人は他者の存在に気づくのだと思う。今、人たちはサザンカやコスモスを見ても感動しなくなっている。例の若者の心のありようは、他人事ではないのだ。
「ただひたすら昏い番組」ではなかった。わたしは一条の光を感じた。番組ををいっしょに見ていた姪のくにこが、「このテレビをもう1度見たい」といった。
⑱車内で見かけた加藤典洋
短歌研究・評論家の村永大和さんから年賀状がとどく。「浜松百撰」の拙文に返事がなかったので心配していた。「貴女のエッセイはいつもいいですね。深味があります」という。村永さんは、拙著をいつも購入して読んでくれる、たよりがいのある先輩だ。
リハビリ仲間で、なにかと親切なたまえさんも、読者である。主婦業に忙しくて時間がないとはいうが、長年の読書好きはやめられないみたいだ。
ちきゅう座に連載している「リハビリ日記」も、3年目に入った。理学療法士のT先生も、よき読者である。今月号の花はなに? と訊いてくる。拙文はいつも花のことから始まるからだ。T先生は、4月の掛川・新茶マラソンの出場をきめた。完走をめざして、もっか、同僚のL先生と特訓中である。
来る日も来る日も、浜松特有の強風が吹く。体感温度が低くなる。気温、湿度、気圧などの急激な変化で、足の調子はよくないのである。とても歩きにくい。やっかいな後遺症だと、つくづく思う。ななめの棒。硬いわが足を例えてみた。
きょうは、リハビリの担当はY先生だった。〈ひざの使いかたが柔軟で、あのころよりも上手になりましたね〉という。2年前の入院時と比べているのだ。Y先生も理学療法士として成長している。〈この職業を選んだことに悔いはない〉。たのもしい胸の内だ。隣のベッドでは、L先生が施術をしている。こちらに気づいた。わたしも心の中でニコッと返した。L先生は、スタッフのなかでいちばん礼儀正しい。言葉づかいもていねいである。Y先生もL先生も、そしてH先生も、可能性を秘めた、有望な理学療法士にちがいない。
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東武東上線の電車内で、わたしは何回か、評論家の加藤典洋さんの姿を見かけている。小柄な人だ。連れのいるときは、手ぶりを交えながら話している。饒舌の人のようだ。
ある日。わたしの隣席でかれは読書中だった。村上春樹の小説に線をひいている。しばし宙を見ては考えこんでいる。村上作品には比喩表現が多い。たとえが何を意味するのか。加藤典洋は、考えこんでいるのかもしれない。かれの評論にもたとえの表現が多い。
わたしは加藤典洋の文学論に触発されて、村上作品を読むようになった。読みやすい。セックスの描写は従来の作品にはないもので新鮮だった。しかし、さらに深く追求していこうとは思わなかった。辺見庸の文学のように、村上文学は読者に思索と想像をうながしてはこなかったのである。
辺見庸はいつぞや、「辺見庸ブログ」のなかで、加藤典洋を思想的な側面からこっぴどく批判していた。
わたしは、加藤典洋の著書を2冊、書評している。作品論はおもしろい。だが、文章に魅力がないのだ。文章の推敲が不足していないか、とも思ったのだった。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
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