私の「1950~60年代の池袋」ベスト5は~「アド街」を見て
- 2019年 2月 21日
- カルチャー
- 内野光子
先週土曜日の「アド街」は池袋だった。、しかも「昭和の」がついていたのである。池袋生まれの私は、見逃すわけにはいかない。ほんの時々だが、アド街は、見ることはあったが、聞き流しの程度のことが多かった。
録画こそ取らなかったが、テレビの前に座った。私は、生れも育ちも池袋で、社会人となり、家を離れた1970年代初めまで暮らしていた。敗戦後の池袋の様子を、育った環境を振り返りたくなった年になったのだろう。昨年の夏には、くすりやの娘としての体験を、このブログでも書き綴ってしまった。
参照
2019年02月16日 21:00 – 21:54
出没!アド街ック天国~昭和の池袋~
この番組は、どういう基準なのかわからないが、20位のランク付けによって、20位から順に、場所や店、人物などが紹介される。いわば、話題性が低いか高いかなのだろう。今回は、流行した歌などにひっかけているのが、特徴なのかもしれない。「私の昭和」とは、ほぼ10~15年ほど、いわば一回りくらいはずれ込んでいる感じではあったが、知らなかったことも沢山あって、それなりに楽しかった。
私にとって、池袋といえば、なんだろう。「昭和」というより1950年代、60年代の池袋である。
<ヤミ市>
番組では、どういうわけか「ブラックマーケット」と呼ばれていたが、いつからそんな呼び方をするようになったのだろう。出演者の内の高齢者?に入る荒俣宏(1947~)と渡辺えり子(1955~)は「ヤミ市」と口にしていたようだった。私たち家族には、敗戦後の暮らしの衣食がかかっていた西口の「ヤミ市」であり、子ども心に、強烈な印象を残している。西口のヤミ市の入り口のヘビ屋?は不気味で怖かったが、アイスキャンデーを売っていた食堂の「のとや」があったし、大抵の食料や日用品はそろうのだった。母の買い物にはよくついていった。ヤミ米を調達したのもここだった。
「戦後池袋~ヤミ市から自由文化都市へ 展示資料解説」(池袋=自由文化都市プロジェクト実行委員会編刊 2015年9月)より
<映画> 高校からの学生時代には、ずいぶんと通った映画館である。番組でも登場した、東口の人世坐(1948~1968)、文芸座(1956~1997)、文芸地下劇場(1955~)、西口のシネマロサ(1947~)はもちろん、もっとさかのぼれば、ロサの近くにはエトワールというのもあって、邦画の二本立て、三本立てがかかっていて、ジメジメして、周りに怖いオニイさんがいるような、なんか一番居心地の悪い座席だったような気がする。ロサには、その後、シネマセレサ、シネマリリオなんて言う名の映画館も併殺されたのは、1950年代半ばだったか。さらに駅近には、ピース座(⇒松竹名画座、1951~1990)というのもあって、池袋演芸場(1951~1990、新築1993~)と同じ建物だった。さらに、さかのぼれば、旧豊島師範の先、ヤミ市を抜け出たところに邦映座というのがあった。小学校の映画教室でも入ったような気がする。下の地図で言えば東横百貨店の向かいの「東宝シネマ」ということになるのか。東口には、今のジュンク堂の先、旧雑司ヶ谷5丁目の一角に山手劇場(1946・7~1957~?)もかなり古く、松竹映画専門だったような記憶がある。家の近くの銭湯「平和湯」の脱衣所の天井近くには、映画館のポスターがぐるりとひしめいていた時代である。
下の図は、手元にあった『新旅行案内5 東京』(日本交通公社 1955年6月初版、1960年4月Ⅶ版)の「池袋付近」(84P)の地図である。これによれば、今の池袋駅北口を出たところの東口に抜ける地下道を上がった、現在のパルコ別館とビックカメラ本店のあるところ、丸物デパート(1957~1969、現在パルコ)の向いに、池袋日活、池袋東急、池袋日勝館の三館が並んでいるが、この辺りにも映画館は建て込んでいた。多分、この中の池袋東急だったのか、高校の映画教室で、『エデンの東』を見た記憶がある。『エデンの東』の日本封切りが1955年10月とあるから、高校1年か2年生の時だったのか。今でも映画教室なんてやっているのかなあ。池袋東急は、池袋東洋劇場として1949年には開館、改築後のビルで1998年からのシネマコンプレックスとして2011年まで営業していたらしい。
日勝館は、戦前からあった映画館だったらしいが、焼け跡にいち早く開館したのが1946年、1960年には池袋松竹となり1963年池袋スカラ座になっているが、日勝地下や日勝文化劇場というのも記憶にある。いずれも、ハタボーリング場などで知られる旗興行の運営だったというが、1995年再開発のためすべて閉館したという。
『新旅行案内5東京』(日本交通公社 1955年6月初版、1960年4月Ⅶ版)より
参照
・豊島区映画館・池袋東口地区
https://www.japan-post.com/me/data2/res-me-std.php?FRTWID=FW000237
・豊島区映画館・池袋西口地区
https://www.japan-post.com/me/data2/res-me-std.php?FRTWID=FW000238
現在はヤマダ電機が入っている旧三越の裏手にも、いくつかの映画館があった。巣鴨プリズン跡のサンシャイン60がオープンしたのが1978年4月というから、私は、結婚・転職・出産、すでに両親もなくなっている池袋の生家に帰省することはめったになかった10年余を過ごしていた。この間の池袋の変貌ぶりは、大きかった。
『東京区分地図』(国際地理学協会編刊 1990年5月)より
<立教大学> 1945年4月14日未明の城北大空襲で、池袋は焼野原になったが、立教のキャンパスだけは大方焼け残った。長兄は、戦前に立教中学校を卒業しているし、次兄は、戦後、疎開先から立教中学校に編入し、そのまま大学に進んでいる。時代は下るが、私も娘も社会人入学した修士課程で世話になっているだけに、我が家には縁のあるキャンパス。私の場合、メデイア史をと思って入学したが、原書購読はきつかった。若い院生に助けられながら、何とか単位も取れ、修論も提出できた。学内外のメンバーで立ち上げられた天皇制研究会にも参加することができたのは貴重な体験で、その後の仕事にも活かすことができたのではないかと思っている。愛校心ともちがう、育った池袋と一体となって立ち現れる、何かと気になるキャンパスにもなっている 「アド街」の習いによれば、私にとっての「昭和の池袋」ベスト5ということになれば、上記の「ヤミ市」「映画」「立教大学」に続くのは、やはり、「百貨店」だろうか。西口の東横・東武であり、東口の西武である。5番目が、生家のある「平和通り」か。いまは「へいわもーる」というらしいが、その商店街としての変貌ぶりを見ると、懐かしさよりは、やはり寂しさの方がまさってしまう昨今ではある。思いは、いろいろこみあげてくるものがあるのだけれど・・・。
・<池袋学>夏季講座に参加しました~生活者の視点が欲しかった―池袋のヤミ市への熱い視線は、“男のロマン”にも似て―2015年9月15日
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2015/09/post-9a00.html
2015年、戦後70年企画として、立教大学が中心になって開催された「戦後池袋 ヤミ市から自由文化都市へ」という展示とシンポジウムをのぞいてみた。その時の報告は、以下の記事にもあるが、「自由文化都市」といわれても・・・の思いは変わらない。シンポの講師4人のだれもが池袋に住んだことのない研究者ばかりだったのである。
下の地図は「戦後イケブクロ会場案内MAP」『戦後池袋 ヤミ市から自由文化都市へ』2015年9月)より
初出:「内野光子のブログ」2019.02.18より許可を得て転載
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://chikyuza.net/
〔culture0766:190221〕
「ちきゅう座」に掲載された記事を転載される場合は、「ちきゅう座」からの転載であること、および著者名を必ず明記して下さい。