本間宗究(本間裕)の「ちきゅうブッタ斬り」(216)
- 2019年 2月 22日
- 評論・紹介・意見
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本当の財産
現在は、「お金が神様となった時代」であり、また、「誰も、お金の価値が無くなることなどは考えていない状況」とも思われるが、このことを象徴するのが、いわゆる「キャッシュレス社会の到来」とも言えるようだ。つまり、世界中の人々が、「目に見えない数字」に価値を置き、「本当の財産である」と考えている状況のことだが、この点について歴史を尋ねると、まったく違った状況が見えてくるのである。
具体的には、「6000年ほど前に、人類がお金を発明した状況」のことだが、その後の展開としては、「1971年まで、金(ゴールド)が、お金の役割を果たしてきた」という状況でもあった。つまり、数千年間という期間、「本当の財産」は、「金(ゴールド)」を始めとした「実物資産」と考えられてきたが、現在では、前述のとおりに、「目に見えない、単なる数字」が、「最も価値のある財産の一つ」となっているのである。
そして、このことにも、大きな意味が隠されているようにも感じているが、実際には、「人類の覚醒」と「精神的な向上」のために「天の計らい」が働いている可能性のことである。別の言葉では、「本当の財産とは、いったい、どのようなものか?」を教えるために、現在のような状況が発生している可能性のことだが、私自身としては、「この世での経験」こそが「人生における本当の財産」のようにも感じている。
つまり、「あの世に持っていけるものは、いったい、何だろうか?」と考えた時に、当然のことながら、「お金や地位、そして、名誉」などが除外されることにより、「これらは、決して、本当の財産ではない」という真理が浮かび上がってくるのである。また、「この世で自由になるのは、自分の心だけである」ということも「人生の真理である」と考えているが、この観点からは、「自分が心から望み、行動に移したことが、未来永劫、価値を失わない財産」のようにも思われるのである。
そして、このことを理解させるために、現在、「マネーの大膨張」が発生した可能性もあるようだが、この原因は、やはり、「1971年のニクソンショック」以降に誕生した、現在の「信用本位制」が指摘できるものと考えている。つまり、「コンピューターマネー」が「コンピューターネットワーク」を駆け巡り、「未曽有の規模で自己増殖した状況」のことである。そして、今後は、「紙幣の大増刷」により、「神から紙へ」という変化が発生し、その時に、「現代人の覚醒」が起こるものと考えているが、この時に、「どれほどの紙幣が必要とされるのか?」が、今後の注目点だと考えている。(2019.1.10)
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仏教と唯識論
今から1600年ほど前の「インド」で、盛んに研究されたことに「唯識論」があるが、この理由としては、紀元前5世紀に誕生した「仏教」に対する「理解の行き詰まり」、あるいは、「誤解」が指摘できるものと考えている。つまり、「仏教」が教える「全ては空である」という考えに対して「虚無論」が広がった結果として、「心だけは、人間に固有のものである」という理解がなされたようにも感じられるのである。
そして、この点については、「芹沢光治良先生」の「神シリーズ」という著書における説明、すなわち、「人間が自由にできるのは心だけである」という考えとぴったり合っているものと思われる。ただし、唯識論に関して惜しむべき点は、「全ては、心が産み出したイメージにすぎない」という「三次元の観念論」に陥った結果として、その後、「理論的な発展」が見られなかったことである。
つまり、「玄奘三蔵」が、膨大な量の経典を中国に持ち帰り、漢訳したことにより、仏教が広まったのだが、その後は、「念仏を唱えれば救われる」というような理解が広まった結果として、「心とは、いったい、何なのか?」を考える人が激減してしまったものと想定されるのである。また、「西暦1200年から2000年」までは、「西洋の時代」、すなわち、「唯物論が中心的な価値観となる社会」が、世界的に広がった結果として、「唯心論」や「唯物論」は、ほとんど忘れ去られた状況となった。
そして、現在は、「文明法則史学」が教えるとおりに、再び、「東洋の時代」が始まったものと思われるが、これから人々が求めるものは、「物質的な豊かさ」ではなく「心の安定」だと考えている。具体的には、「心の謎」を解明し、「不安感」を取り去ることなどが、人々が、今後、真剣に求めることだと思われるが、この点に関する具体論は、さまざまな「仮説」を打ち出して、実証的な検証をすることでもあるようだ。
また、この時に参考になるのは、「なぜ、唯識論という言葉が使われたのか?」という点だと思われるが、「心」ではなく「識」という文字が使われた理由としては、「心の特性」が指摘できるものと考えている。つまり、「心」には、「時空を超えて、いろいろな対象に向かい、事実を認識することが可能だ」という性質があるものと考えているが、この時に重要な点は、「意識と行動の関係性」である。具体的には、「心が動かなければ、実際の行動に繋がらない」という状況のことだが、実際には、「これから、世界中の人々が、心の中で、何を求め、どのように行動するのか?」ということである。(2019.1.10)
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理性の誕生と預言者の出現
「人類の発展史」を考えると、最初に、「お金」や「文字」が発明されたことにより、「食料の分配」が円滑に行われ、かつ、「先人の智慧」を活用することが可能となったものと想定される。つまり、この時から、人類は、獣と一線を画すこととなったものと思われるが、この点については、より深い理解が必要なようにも感じており、実際には、「聖書の創世記」で書かれているように、「神が、この世を創った」という認識である。
別の言葉では、「始めに言葉があり、光あれという言葉によって、この世が創造された」というものであり、このことから導かれる結論は、「人間は神の子である」ということでもあるようだ。そして、この点は、「芹沢光治良先生」の「神シリーズ」で述べられていることとも一致しているために、「唯物論」に慣れ切った現代人にとっては、たいへん理解しがたいことではあるが、このことを、前提条件として、話を進めていきたいと考えている。
つまり、「人類」と「獣」との違いを考えると、「理性の誕生」が指摘できるようだが、実際には、「本能の赴くままに、自分の種を守ろうとする獣」と「神の化身であり、精神性を向上させて、神に近付こうと努力する人類」とを区別するものである。別の言葉では、「原罪」や「業」と呼ばれるものの正体であり、実際には、「理性の誕生」が、人間の「悩み」や「苦しみ」を生み出したものと考えている。
具体的には、「人間は、他者を犠牲にしても生きるべきなのか?」というような疑問を持ち始めたものと思われるが、この時に使わされたのが、いわゆる「預言者」と呼ばれる人々でもあったようだ。つまり、前述の「神シリーズ」では、「人類が誕生して以来、10人の預言者が使わされた」と述べられているが、実際には、「釈迦」や「キリスト」などの存在であり、この時の注目点は、「預言者とは、神の言葉を預かるものであり、真実しか述べられていない」という事実である。
別の言葉では、「人類の精神的な未熟度が低かったために、当時の人々にとって、真理を理解することが、きわめて難しかったのではないか?」ということである。その結果として、その後、数多くの「聖人」が誕生したようだが、実際には、「孔子」や「孟子」などは「預言者」ではなく、彼らの言葉には、「人智」が混ざっている可能性も存在するのである。つまり、「天や神の意志」が正確に読み取られていない恐れがあるものと思われるが、今後は、「社会科学」と「自然科学」の融合、すなわち、「AI(人工知能)の活用」などにより、この分野の解明が、急速に進展するものと考えている。(2019.1.12)
本間宗究のコラムhttp://www.tender-am.com/column.html より許可を得て転載。
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〔opinion8404:190222〕
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