歌人の顕彰とは
- 2019年 3月 5日
- カルチャー
- 内野光子
以下は、一昨日、届いた『ポトナム』誌上の「歌壇時評」である。担当の時評が終わってホッとしている。近くの小学校の裏の梅が満開であった。
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昨年は、ポトナムでも大切な先達を失った一年だった。近年、千葉県の八柱霊園の阿部静枝、旅の途上ながら、法然院の小泉苳三、京都霊園の小島清の各先生の墓所に参り、普段のご無沙汰を詫びた。ただ、八柱の墓地は、そこだけ草が生い茂っていたのが気になっている。仙台に住む阿部温知・静枝夫妻の、双方の遠縁にあたる知人からも、最近、同様のお知らせがあった。芝谷幸子元代表が中心になって営まれていた秋草忌の墓参も途絶えているという。
亡くなった歌人の顕彰には、追悼会、墓前祭、雑誌の追悼号や周年記念特集などの企画、研究会の立ち上げ、歌碑の建立、記念館の建設、その歌人の名を冠した短歌コンクールや賞の設置など、さまざまな形が考えられよう。しかしこれらはいずれも、遺族や継承者や敬慕する人々の高齢化や消長に左右されやすい。記念館や歌碑は、公的な支援や財政基盤のある運営団体の関与がないと継続性の担保は難しいだろう。歌人の名を冠したコンクールや賞は、自治体や観光協会の「まちおこし」の一環として開催されることも多くなった。が、 顕彰として最もふさわしいのは、やはり、遺歌集の刊行や全歌集・著作集の出版ではないかと思う。しかも、本人の意思や取捨選択が関わらない形での編集が望ましく、可能な限り全作品、全著作を収録するならば、その資料的価値は一段と高まるに違いない。とくに、今回、拙著『齋藤史≪朱天』から≪うたのゆくへ≫の時代―「歌集」未収録作品から何を読みとるのか』の資料検索・収集、執筆にあたって痛感したのだった。生前に、歌人自らが取捨選択、編集した作品や著作だけでは、その歌人の全容は把握しにくい。その歌人の評価にあたっては、トータルな著作や業績、活動を知る努力が不可欠と思われた。
なお、歌碑について、私にはいくつかの体験があった。すでに十数年前のことだが、軽井沢の別荘地に迷い込んだ折、そこで、出会った五島茂・美代子夫妻の歌碑の光景だった。木の枝や雑草に覆われた歌碑は、わずかな姿を見せていたが、足の踏み入れようもない有様だった。現在はどうなっているだろうか。
私が初めて沖縄へ行ったとき、伊江島に渡り、地元のタクシー運転手に案内を頼んだ。行き先の一つに城山の「天皇の歌碑」も、と伝えると、そんなものあったかな、とそっけない反応であった。平成の天皇が皇太子時代、海洋博のため初めて沖縄訪問の際詠んだ「琉歌」が刻まれている碑である。城山の中腹に、それは確かにあったが、周辺の観光客は見向きもしていなかった。伊江島といえば、敗戦時、米軍が、いわゆる「銃剣とブルドーザー」で、生き残った住民たちを追い出して、土地収用がなされた島でもある。
また、二〇一七年二月、沖縄屋我地島の国立療養所沖縄愛楽園を訪ねたときのことだった。全国の国立ハンセン病療養所に、一九三二年、貞明皇后が詠んだ短歌「つれづれの友となりても慰めよ行くことかたきわれにかはりて」が贈られ、つぎつぎとたてられた歌碑がそこにあるはずだった。その歌碑の顛末は、昨年のこの時評でもふれたが、広場の片隅に、土台ごと倒され、青いビニールシートで覆われていたのだ。この「御歌碑(みうたひ)」こそがハンセン病者の強制隔離政策を正当化し、さまざまな差別を受容させる役割を果たしたことの象徴でもあった。敗戦直後は、海に投げ込まれたという。私が見たのは復帰後に再建された歌碑だったのだろう。一九三一年制定の「癩予防法」、それを引き継いだ「らい予防法」が廃止されたの一九九六年、その間の苦しみ、その後も続く差別に耐えた、現在の入居者やそこに働く人々の複雑な思いが反映されている光景に思われた。こんな運命をたどる歌碑もある。(『ポトナム』2019年3月号、所収)
初出:「内野光子のブログ」2019.03.03より許可を得て転載
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