「北一輝論」続編-A君の批評に応えて
- 2019年 3月 6日
- 評論・紹介・意見
- 古賀暹
1.国家社会主義なのか、構造改革であるのかということですが、はっきり言って、答えようがありません。理由は「国家社会主義」も、また、構造改革だと考えるからです。国家が中心になって計画経済をやるということは、どちらも変わらないのではないでしょうか。ただ、国家社会主義を、排外主義や自国中心主義と結びついたもの、ファッシズムやナチズムと考える場合には、明らかに、北の場合は、構造改革に近いものと位置付けられるのではないかと思います。 これは改造法案の場合です。
2.改造法案の場合は、上海で、書かれています。大正8年です。この年に半島では3・1事件、中国では5・4運動が起こり、明らかに、民族独立運動の質が変化しています。ロシア革命の影響もあります。日本がそうした動きに対応できないならば、日本は明らかに侵略国家の位置に立たされます。そうかといって、ロシア革命に同調すればよいかというと、ソヴィエトの現実を注視していた北は、そうした道には反対でした。第二のピェートル大帝の出現を感じていたようです。さらに、フランス革命をモデルにしていたため、党独裁国家の出現に大反対です。北は、ロシア及びそれに指導された中国の孫文の国家のことを、「党国家」と定義し「奇妙なる国家」と書いています。
3. そうすると、新たな質をおびた新たな民族解放運動に対処するためには、日本を革命せねばならないということになります。そこで、出てきたのは「改造法案」ということになる。したがって、この革命は完全なる計画経済ではない、党による革命ではない、ということにならざるを得ません。西田には党を作らせますが、それは、国家を掌握するものではなく、長崎さんが言うところの「大衆政治同盟」に近いものでしかありえません。
4. クーデターは有志によるもので、党によるものではないことに注目すべきです。この有志はもちろん軍の有志が中心でしょうが。
5.国家改造法案は憲法の3年間の停止と言っていますが、議会は国家改造議会として、この期間中にも召集され、新たな憲法を定めるとしています。北は、二院制を認め、貴族院の代わりに有識者による参議院を作るといいます。議会主義についていろいろと難癖をつけていますが、衆議院の優越性を認めています。
6. 2・26事件は、青年将校たちの主導で、ある意味では、北は口を差しはさめなかった。西田も反対で、西田の妻の初子さんは、警察に密告しようとまでしています。北は、報告したように、日米対支財団による中国との和平に夢中でした。
ところが、天皇機関説問題が発生し、皇道派が首切られていきます。皇道派と近かった青年将校は憤ります。追い打ちを掛けたのが第一師団の満州派遣命令です。第一師団が満州に派遣されれば、在京の青年将校はいなくなります。追い詰められた将校の暴発。
7.さらに、重要なのは、在郷軍人会が平沼派に完全に握られたことです。北が当てにしていた大衆運動ですよね。北や青年将校は、天皇機関説反対に反対するわけにはいかなかった。ここが大きな弱点となります。他の大衆運動(労働運動)はどうかといえば、西田は、決起の当初はこれを動かすのには反対でした。動くなという指令さえ出しています。動いても敗北するという予想でした。
8.しかし、事件が発生すれば、動かねばならなかった。北はいろいろと工作をしていたようです。北としては、軍事参議官会議や海軍の軍令部、政界、財界への工作を行い、なんとか、完全敗北は防ごうと思っていたでしょう。事実、有利に27日段階までは、動いていたようですが、昭和天皇が思いもよらぬ大権を発動。「若君に兜取られて負け戦」
9.なぜ、皇居を占拠しなかったのか。これは大きな謎ですが、わたくしは青年将校たちの天皇崇拝の他に3月事件に対する反発があったかと考えています。3月事件は統制派系の幕僚たちが起こしたものです、それを批判して立ち上がった青年将校にはできないことだったと考えています。統帥権干犯(満州事変もそうです)という呪縛です。
参考文献:古賀暹『北一輝』(御茶ノ水書房)
*反論、疑問などは大歓迎ですので、ぜひお出し下さい。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://chikyuza.net/
〔opinion8454:190306〕
「ちきゅう座」に掲載された記事を転載される場合は、「ちきゅう座」からの転載であること、および著者名を必ず明記して下さい。