《人間の身心までも動員し利用するゲシュテル》-立ち去らぬハイデッガー問題-
- 2019年 3月 28日
- 評論・紹介・意見
- ハイデッガーマルクス内田 弘浜矩子
[1] 用語「人的資源」は異常ではないか
[『東京新聞』浜矩子のエッセイ] 最近、『東京新聞』(2019年3月24日朝刊5頁)に、浜矩子同志社大学教授執筆のコラム《時代を読む》「人は材でも財でもない」が掲載された。
このエッセイは、「人手。人材。労働力。マンパワー。いずれも、今に始まった表現ではない。以前から存在する言葉である。だが、改めて並べてみるととても気になる」という文章から始まり、「人材」というけれども、「働く人々は材料なのか」と浜氏は問い、「人は人らしい名で呼ぼう」というまっとうな文で閉じる。このエッセイは、今の世の中を覆っている人間に対する眼差しを根本的に疑う、注目すべき文章である。
[ナチスの人的資源有効活用工場] 慣れっこの意識の空白を突く、このエッセイを読んで、少し前、このネット「ちきゅう座」で掲載された映画「ゲッベルスと私」について書いた拙稿を思い出した。その映画評で、ナチスが建設したユダヤ人強制収容所における人的資源有効活用工場のありさまを指摘したからである。強制収容所では、ユダヤ人の着物・帽子・履物・金歯・皮膚・毛髪や眼鏡・指輪など彼らの所持品すべてを有効資源として略奪し、正確に記録し、かつ活用する作業が、《平凡な正常な作業》として日常化していた。
剥ぎ取った人間皮膚でハンドバックを制作し、笑顔でそのハンドバックを腕に下げて写真におさまっている女たち。頭髪で絨毯を制作し、その上に座って心地良さそうな人々。異常が正常な事態である。
アメリカ経営学生まれの用語「人的資源(human resources)」を聴くたびに、このようなナチス人的資源有効活用工場の記録映画を、本稿筆者は思い出す。この用語「人的資源」についても、浜氏は疑問を呈し、「人的資源管理」という科目が現在のビジネス・スクールにある、と指摘する。
[ヒロシマ・ナガサキからフクシマへ] 問題の核心は、本稿筆者がナチスの人的資源有効活用工場に観た問題性を、浜氏は21世紀日本の現在に観ていることにある。つまり、「ナチスの野蛮な形態」が「洗練された形態」で現代日本に定着しているのである。いわば、「ハード・アウシュヴィッツ」から「ソフト・アウシュヴィッツ」への変換である。したがって、「アウシュヴィッツ」は消滅した過去の出来事ではない。姿を変えて、いま・ここに、生息しているのである。
[虚人の虚言] 《南京はなかった、アウシュヴィッツもなかった》という虚言が、現代の「ソフト化したアウシュヴィッツ」の一例である。その問題性の持続=貫徹は、ヒロシマ・ナガサキに落とされた「原子爆弾」の原子力エネルギーが「原子力発電」に変容して、現代の日本列島の文字通り津々浦々に定着していることに、象徴的に表現されている。新潟の良寛の記念地の近くに刈場原発がある。
しかも、原発は原爆と正体は同じであることを警告する、池山重郎などの批判にもかかわらず、人々は原発安全神話にどっぷりつかってきて、フクシマでやっとその神話から目が覚めたのである。
[用語の日常化=正常化] 用語は繰り返し使用されることによって、日常語になる。それが異常であっても、その異常性に気づかなくなる。悪も繰り返し行っているうちに悪とは思わなくなる。習慣化の恐ろしさである。あの「人間皮膚ハンドバック」がその例である。
「いじめ」も最初は罪悪感があるかもしれないけれども、反復しているうちに愉快な笑い・快楽になる。「いじめ」は子供の世界だけの問題ではない。むしろ、それは大人「いじめ」社会の子供社会への射影である。大人が教えなくても、子供は、親を含む大人が何を行っているかを直感している。
「朝鮮人」という言葉を日本人大人が発するとき浮かび上がる、日帝支配史が生む罪悪意識を逆手に取りなおした差別意識は、日本人子供に無言で伝わっている。子供は親のそばで、生きることに懸命である。親の無言の意識・無意識も共有することで育ってゆく。子供の問題は大人の問題の転移である。
[2] 立ち去らぬハイデッガー
[ハイデッガーの造語・ゲシュテル] 万物を有効資源活用する動員体制を根本的に考えたのが、ハイデッガーである。《ハイデッガー問題》は彼がナチス党員であったことを確認することで終結しない。ハイデッガーがナチスに直感し哲学的に熟慮した対象は、人間自身を含めて万物を資源として有効に活用し尽くす体制が、ナチスによって荒荒しく顕現してきた事態であり、「ハード・アウシュヴィッツ」がソフト化している、第2次世界大戦後の事態である。その体制をハイデッガーは「ゲシュテル(Gestell)」と名づけた。
ドイツ語動詞stellenには「調達する、追い詰める、仕掛ける」などの意味がある。したがって、その動詞の過去分詞gestelltからハイデッガーが造語した「ゲシュテル」には「総てを徹底的に調達する仕掛」という意味である。
最近、講談社学術文庫に収められた、ハイデッガー著・森一郎編訳『技術とは何だろうか』(2019年3月11日)では、「人間を取り集めては、おのずと顕現するものを徴用物質として徴用し立てるようにさせる、かの挑発する要求のことを-ゲ-シュテル(Ge-stell)、つまり総かり立て体制と呼ぶことにします」(同書120-121頁)とある。「ゲシュテル」はこの森訳では「総かり立て体制」である。
ゲシュテルという現代を支配する体制は人も物も「徴用する対象」に転化するとも説明されているから、ゲシュテルは「総徴用体制」とも訳できるであろう。かつて山之内靖氏は20世紀世界大戦から生まれたこのような体制を「総動員体制」と名づけた。ハイデッガーの思索の近傍で山内氏も考えていたのである。
[ハイデッガーのゲシュテル経験] ハイデッガーがナチスに観ていたのはこの「ゲシュテル」の荒荒しい形態であろう。ゲシュテルは、ハイデッガーが人間の本来的活動であると規定する「制作(ポイエーシス)」の倒錯形態である。
[真理と美との同時表現としてのポイエーシス] ハイデッガーによれば、ポイエーシスとはつぎのような活動のことである。
「かつては、真なるものを美しいものへもたらす産み出すはたらきも、テクネーと呼ばれていました。芸術というポイエーシスも、テクネーと呼ばれていたのです」(同書147頁)。
真理は美的形態で生まれ出る。その産出活動がポイエーシスである。ポイエーシスは、単に或る存在を産出するだけではない。その産出を通じて、真理と美を顕現させる活動、真理と美を表現する活動である。真理と美は、本源的には、隠されて潜在する。真理と美が隠されている状態(concealment)から顕現させる活動(un-concealment)、いいかえれば、顕現(アレテイア)は、制作(ポイエーシス)、技術(テクネー)によるのである。
[テクネーの両義性] したがって、技術(テクネー)の本質は両義的である。このことを、ハイデッガーはつぎのように説明する。
「一方で、総かかり立て体制は徴用することが猛威をふるうように挑発します。これによって、顕現(アレテイア)という出来事へのまなざしは立て塞がれ、真理の本質への関わりは根本から危機に瀕します。」
「他方で、総かかり立て体制において…人間は、真理の本質を守護するために求められた者となるという点で、存続させられるのです」(同書145-146頁)。
肝心の真理と美の表現という目的を忘却し、ただ物質的・精神的に生産する。生産それ自体が自己目的になっている事態では、すべてを生産活動に活用できるかという「有用性の相のもとに」眺め、その観察に適う存在をすべて徴用し動員する。その徴用衝動は人間の身体と精神にまで及ぶ。このような事態がゲシュテルなのである。その中で人間だけが、真理と美の表現という本来的根源的使命を再発見する使命を帯びている。
[ゲシュテルとポイエーシス、あるいは真理と虚偽は、紙一重である] したがって、ゲシュテルとポイエーシスとは表裏一体である。ゲシュテルはポイエーシスの転倒形態である。真理と美は転倒して、虚偽と醜悪になる。
真理と虚偽、美と醜悪とは隣り合わせである。偽善者は善人を「装う・自己演出する」だけに、善の素朴さが欠如しているだけに、くっきりと善人らしくみえるから、ひとは偽善者にだまされる。
ナチス将校の制服姿の美しさと彼らの残虐さとは表裏一体である。何かが崩れた美しさである。それはデカダンスである。
[ハイデッガー問題の核心] ポイエーシスがゲシュテルに転態している。これが、ハイデッガーが見出した現代技術の問題性の核心である。ポイエーシス(アーリア)の追求に邪魔になるもの(ユダヤ)を徹底的に排除するとき、ポイエーシスはゲシュテルに転化する。
自分たちの意のままにならない者を集団の力で排除することは、その手始めである。その力の発揮は快楽でもある。排除活動(いじめ)は陶酔感をもたらす麻薬である。その麻薬に酔って、デカダンスに陥る。集団の成員はデカダンスの誘惑に陥る危険に身をさらしている。
[自然も人間も資源である] ゲシュテルのまなざしは、自然から人間自身へと向かう。腎臓で病んでいる患者やその関係者は、腎臓移植を望むかもしれない。その希望は、誰かが死んで、新鮮な腎臓を残し、それを急いで移植することを希望することを是認するシステムを作り出す。ひとりの生が他者の死を条件とする。
死体を無駄にせず有効に利用するシステムが作動すると、メカニカルに他者の死が必要になる。臓器が新鮮なうちに移植するため、「人の死」を「心拍停止」でなく「脳死」に早める。死の結果を利用するシステムは、死の発生を望む可能性を開く。これもゲシュテルの一環である。人間身体の有効活用は、アンデス山脈に不時着した航空機の乗客だけの問題に極限されてはいない。むしろ日常化している。
[人材・人的資源・資源患者] このような今日の事態をハイデッガーは、すでに1950年代につぎのように指摘している。
「人間自身が、自然エネルギーをむしり取るようにと、とうに挑発されているからこそ、徴用して顕現させる、このはたらきが生じるのです。人間がそうするようにと挑発され、徴用し立てられているのであれば、人間もまた、徴用し立てられた物質に属しているのではないでしょうか。しかも、自然よりもいっそう根源的に属しているのではないでしょうか。それが証拠に、人材、つまり人的資源という言葉が世に流通していますし、臨床例、つまり患者も資源のうち、といった言い方すら病院ではまかり通っています」(同書117-118頁:ボールド体引用者)。
浜矩子教授はハイデッガーのこの文章を読んだことがあるだろうか。ハイデッガーは、浜教授や私が比較的最近になって問題視している事態を1953年8月5日、ドイツ、ダルムシュタットで行われた講演「技術とは何だろうか(Die Frage nach der Technik)」で指摘しているのである。
[3] ハイデッガーからマルクスへ
[顕現し拡張するゲシュテル] ハイデッガーがナチスに加担したことは事実であろう。しかし、ハイデッガーが「ゲシュテル」という造語でもって問題にした事態は、ハイデッガー以後の今日、ますます明確に露呈している。ハイデッガー個人のナチス加担を実証すれば、それで幕が下りて終わり、となるのではない。
[円空の解脱] ハイデッガーが問題にした事態は、ハイデッガー以後の今日、ますます普遍性と多様性をもって、顕現している。21世紀の人間は、いったい何を価値として生きているのであろうか。
梅原猛が研究した円空は、あの純朴な笑みとたたえる木彫佛を、蝦夷地まで赴いて、沢山制作した。円空は、最晩年、何も食べずに数ヶ月生きて、ついに棺に横たわり、空気を吸えるように竹筒を咥えて埋葬されたという。
[ハイデッガーからマルクスへ] 自然のみならず人間も資源として観るまなざしを問題視したのは、ハイデッガーだけでない。マルクスもまた『ドイツ・イデオロギー』から『経済学批判要綱』にかけて、なにものも「効用性の相の下に」みる観点がどのようにして発生するかを批判的に研究した。
『資本論』で資本家は自然と人間を共にアウスボイテンする(ausbeuten)と指摘するとき、「自然の開発」と「人間の搾取」を同じ資本の二重の作用として指摘しているのである(内田弘『資本論のシンメトリー』220頁、脚注17を参照)。
舞踏会を控えて浮き浮きする貴族の令嬢の舞踏用ドレスを、徹夜で縫う仕事で過労死する縫い子の悲劇も、『資本論』が記述する、人が人を食い物にする残忍例である。
[ハイデッガーのマルクス注目] ハイデッガーが『ヒューマニズムについて』においてマルクスを論じるのは、ハイデッガーが、「人間らしい人間」を「社会」に見出すマルクスにハイデッガー自身の思想との親近性を見出しているからではなかろうか。『資本論』の「労働過程」は、アリストテレーカー・マルクスにとって「真理と美とが顕現するポイエーシス」であった。『資本論』研究者も、「人的資源」というとき、痛みをもって内省しなければならない。科学主義からは、その痛覚は生まれない。その無感覚は退廃である。
[マルクスとゲシュテル万博] 若きマルクス(1839年)はその痛覚から、まず「エピクロスの哲学」を研究した。「否定的な自己関連(negative Beziehung auf sich)」がその基本視座である。ハイデッガーにならっていいかえれば、「ポイエーシス」(真理と美)が「ゲシュテル」(虚偽と醜悪)として顕現する事態への視座である。
「ポイエーシス」は、すでにマルクスの同時代から、代表的には1851年ロンドン万博のようなグローバル・イベントとして、「ゲシュテル(惑星帝国主義)」として、展開している。
五輪・万博は、世界の貴族・資本家にとって定期化されたビジネス・チャンスである。開催地からごっそり奪ってゆく。「五輪不況」は開催国が受忍すべき「負の遺産」である。裏工作費(2億数千万円)問題はその正体を垣間見せた彼らの失策である。失策者は仲間ではなくなり、切り捨てられる。富者は冷たい。冷たくなければ富者になれない。(以上)
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://chikyuza.net/
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