平成最後の冬も終わり…
- 2019年 4月 3日
- 時代をみる
- 新宿野宿労働者の生活・就労保障を求める連絡会議笠井和明
今から25年前、1994年の2月17日、新宿駅から都庁へと続く4号街路で、東京都と特別区による初の「路上生活者対策」が、「強制排除」として行われた。
時は鈴木都政末期。有楽町から西新宿への都庁移転は彼の功績であるが、皮肉にもその都庁へ続く歩道を改修=車道と歩道に壁を作り、歩道側を単体のトンネル状にした結果、そこが暖が取れ、雨露凌げることもあり、路上生活の人々がいつしか集まり始めていた。
時代はバブル崩壊期。日雇労働市場や建築飯場やら、サービス業末端の住込寮やらから、仕事を干された不安定就労者(底辺下層労働者と我々は呼び、その流れで野宿労働者と語ったが)が回り回ってこの街にたどり着き、その数、当時の資料を見てみても西口地下だけで270名前後(92-93越年報告パンフ「路上から撃て」より)。通行人やら商店街やらから都への苦情が殺到し、そこを通行するのはほとんど都庁職員だけであったこともあり、東京都の職員組合なども「これはちょっと」「何とかせなければ」と議論を開始した頃でもある。
この2月17日の「事件」から、1996年1月24日再びの「強制排除」に到る一大「騒動」(「動く歩道」問題)を経、その刑事裁判で、東京都の瑕疵を司法が初めて指摘し、異例なことに、排除ではない対策を強く求めた97年3月の「村瀬一審判決」に到り、ここに来て初めて東京都は、「強制排除」のプランを、もはやこれは時代遅れと懐にしまうこととなる。
長き3年余でもあった。まあ、我々、活動家連中も若かったし、おじさん達も平均年齢52.5歳(連絡会パンフ「新宿homeless」より)と、こちらも若かった。
今の人々は不思議に思うかも知れないが、この国の人権意識なんてものはそんなもので、何かがあって初めてそんな風になるのであり、無宿の時代から人に非ずと差別され、無視されて来た人々が、有無を言わせぬ強制力により仮小屋を奪われたり、夜露に放り出されたりするのは、時代劇の話ではなく、昭和の時代も続いていたし、平成の最初の頃まではそうであった。
まあ、差別と云うのは根深いものなので、今でもそうであるとも言えるのであるが、少なくとも行政レベルにおいては、「強制排除」を対策のメインに置くことは今はない。
「排除と収容」「環境浄化」と云う問題は、この3年余りの攻防の結果、東京都的には結論が出、終わりを告げ、その後は自立支援の制度政策の問題へと昇華されて行く。あの暴れん坊の我々も、そしておじさん達も、色々な寮や施設やアパートや団地に入り、その中で「改善、改善」が始まり、排除とセットでなければ自立支援センターをどんどん作れ、仕事につながる対策をしろ、果てまた、法律まで作れと、そんなかんだで、「ホームレス自立支援法」が制定され、全国規模で「ホームレス対策」が開始されてから、早15年。
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毎号訃報を告げるのは心中穏やかではないのであるが、この時代を共に歩み続けて来た斎藤さん(74)が亡くなった。東京の西の下町である品川の豊町の底辺の家に生まれ(この近辺、高層ビルが建ち並び、大きく変わった下町の一つである)、そんな環境なものだから、いつしかグレ、「新宿愚連隊」にも出入りし、ちんぴらにもなり、手配師にもなり、現場にも出、そこで労災事故にあい、左腕を失い、その補償の金は兄弟に騙され取られ、金もなく、やはり新宿に戻って「やくざもの」なのに何故か、俺らの周りにいた不思議なおじさんであった。デモには必ず居た。炊き出しにも必ず居た。越年にも必ず居た。
その斎藤さんや、先に亡くなった、これまたいつも連絡会の周りにいた荒井さんが居ない初めての越年が、25年後の越年であった。誰もが気がつかないが、おじさん達を組織しながらここまで来た連絡会の歩みを知る物だけは、どこか悲しみに暮れている。
まあ、当時とは変わった。いや、変えていってしまっただけなのかも知れない。
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「必要な人々に必要な限度の量だけ」。応急援護の難しさはそこら辺でもある。山ほど置いておけば、それに殺到し、全て持ち去る。これは当事者を非難しても仕方がない。仕組みをそうしてしまうが故に、そのような性分を発揮できる土壌が出来てしまうだけで、「タダより怖いものはない」と言われる所以である。
相互扶助関係の互酬性と云うものには、その昔から指摘され、着目して来たつもりであるが、その善かれと思う分量は、こんな長くやっていても、そんなものは、なかなか数値化できないし、経験でしか分からないし、当人からすれば「もっと」となるのは当たり前であるからしてニーズと云うのは難しいとなる。
新宿の路上生活者の数も減った。連絡会史上、最低のラインを更新し続けている。また、これ以上増える根拠は今のところ見当たらない(若いのは、過酷な路上生活ではなく、お金があれば、仕事があればネットカフェの傾向となるのは、ある意味当然かも知れない)。
ならば、それに見合った形で我々の活動も、もっと変えていかねばならない。それが、応急援護の「必要な人々に必要限度の量だけ」「多すぎず、かと言って少なくもなく」であり、数や量が少なくなっても、そこに「希望」さえあれば、それは、それで良いとは思うのである。
今、人や物をあてがうべきは、路上よりも、(戻ってこないよう)路上より上のところであるべきであろう。
担い手が少なくなるのもこれは、対象が少なくなっている以上、避けられないことである。それでも人が必要ならば、それこそ雇っていくしかないであろう。ボランティアの力とは、それこそ、限定的でしかない。
冬の応急援護の柱は、単純明快、健康であり、そのためには防寒である。お喋りではない。
携帯カイロの配布量を例年よりも増やした。この冬(12月から2月)の携帯カイロ配布数は4320枚。これでも基礎数を200とすれば一人あたり21枚であり、毎日は使えるものではないが、他の教会系団体も配っておるので、少しはタシにはなったであろう。おにぎり配布は越年期に1度だけであった(毎週日曜日はもちろん続けている)が、その代わり携帯に便利で栄養価もある「カロリーメイト」の配布をこの冬から戸山公園を中心に始めている。こちらは4本入りのものを840箱、この冬提供をしているので、栄養補助にもなっただろう。
毛布の配布も駅中を台車に乗せて渡して歩く新種のパトロールも実験的に3回行った。これにて60枚の毛布は提供し、防寒着も関ビル一極配布を改善し、おにぎり出発地での配布へと変更をしている。
イベントは例年通りの質と量で行い、ついでに大晦日対策(終電がないので、駅構内でなかなか寝れないので、公園で寒いけど、毛布被ってみんなで寝る)も行った。臨時シェルターはかつて越年期けっこう稼働して来たが、近年は現場が流動化していない現状なので利用者は出ていない(今季もゼロであった)が、一応、緊急体制は取っておいた。医療班の面々も相も変わらず地味な活動を共にしてもらっている。
酒を出さなぬところ(教会系はご法度)が多い中、酒は例年通り2回のイベントで出した(飲めない人には「お茶」)。仲間と一緒に飲む酒は格別であり、一年が終わり、一年が始まることを祝う酒である。飲める人も飲めない人も、その良き新宿の雰囲気だけは、集団行動、集団活動をメインでやって来た者だけが持つ実感かも知れない。かつてほど暴れん坊は今は居ないので、仲間の互助の潤いの酒になる。
気候もまた幸いした。東京は雪はちらついた時もあったが、積もらず、氷点下の日も例年よりは少なかった。
概ね、どうやらこうやら冬を越したのが実感である。
それでも、今年も路上死は防げなかった。そんな報が後からついて来る。
いくら関係性が深くとも、病院に行くと言うのはそれを抵抗をしている人を前にしたところで、限界がある。それが医師であったとしても、その医師をその人が信用しなければ同じである。我々は生きているところでの関係性であり、働いているところでの関係性であり、その延長が、困った時の関係性になると予測をしてしまうが、決してそうでもない。困った時に逆に言いにくいと云う関係性をまた、作ってしまう。そんな時は「おいこら、病院に行け」と強制力を誰かが行使してくれれば良いのであるが、そうとも行かないのが今の時代でもある。
この冬亡くなった全ての仲間に無念追悼・・・。
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越冬が終わりかけた頃、ホームレス自立支援法に基づく、東京都の「第4次実施計画(案)」がしれっと発表された。
内容的にはあまり見るべきものはなく、予想の範囲内であるが、ここにも含まれている各種統計で気になるのが、路上生活者へのアンケート結果の「今のままで良い」とする人々の増加と、路上生活者が次のステップを目指すべく設立された「自立支援センターの無断退所率」の増加(ここら辺の数値は自立率の低下問題もあるので、あまり公になっていなのであるが)である。
「今のままで良い」問題は、色々と解釈がされているようであるが、「当面、今のままで良い」から「この際、仕方がないので、今のままで良い」「チャンスがめぐるまで今のままで良い」「誰かに言われて出ていきたくない。出ていくときは自分で決める。今はその時ではない」まで、その内実はかなり幅広いと思うのであるが、それを解明する社会学者は残念ながら居ない。「今のままで良い」とするのであるから、行政は何もしない、そうなりがちであるが、これは違う。当人達を過酷な野宿生活の中「今のままで良い」と言わしめているのが、今の対策の内実であると考える人はいないのであろうか? そこにあるのは「絶望」であり、「諦観」である。それを自分の運命として受け入れてしまっている辛さでもある。
自立支援センターは知っている。生活保護も何度も受けた。でも、失敗した。
その昔、大島さんと言う50代のおじさんが中央公園に居た。彼は当時「なぎさ寮」で就職活動のためのお金を借りた。でも、失敗した。再度役所に行けばそれを返せと言わ、責められると言う恐怖(実際そんなことはないが)の中、病気になっても病院にいかず、テントの中で死んでしまった。
一度失敗した人が再びチャレンジするのは難しいものである。そんなことがあるので、自立支援センター入所の「リピーター問題」に取り組んだことがあったが、当事者からすれば、「もう一回」とお願いするより「もういいや」と言って、意地を張る方がかっこ良いと思われている。
「地域移行」と言うのであれば、その地でどのように暮らしていけるのかのイメージなくして言うべき言葉ではなく、それこそ、自立支援センターの退所率の増加にみられる規則の強化であったり、門限の問題であったり、居づらくして管理しようとする発想のままでは、施設にせよ、アパートにせよ、いずれ、そこに人は居なくなる。
自立支援センターにもならず、生活保護でも、退所率は高くなっている。この流れは、誰かが指摘し、真剣に議論をしていかないと止まらないであろう。
その意味では、今、議論がされ、来年までに形が出来ると言われている「日常生活支援付き宿泊所」は、かつてホームレス対策としてステップアップ方式となり、未完のまま終わった「グループホーム」がその位置になるであろうか?
『都内の借家は約310万戸、うち民営借家は約243万戸あります。借家全体のうち、1ヶ月当たりの賃料が5万円未満の低家賃住宅は約67万戸。一方、約60万戸の借家が空き家になっています。(データは「平成25年住宅・土地統計調査結果」(総務省統計局))』との記述が、この東京都の第4実施計画(案)にあるが、アパートに行くなら5万以下の物件に行け、空き家もいっぱいあるぞと、けしかけているようである。けれど、それは都心部ともなれば、木造、4畳半程度、風呂なし、台所もあるかないか、収納もなし、洗たく機を置くスペースすらなく、日当たり悪し、駅から遠い、壁が薄く、共用部分はゴミだらけ、近隣の人付き合いも悪いし、大家もそこには住んでもいない、そんな、昭和の頃の「下宿」を連想させるアパートに行けと云われても、あまり積極的に行きたがるものでもない。
そもそも、故あって都会の繁華街の同境遇の人々が辛うじて暮らす周辺部にたどり着き、そこで仲間と共同生活を作り始めた人々に対し、「ここは駄目だから、どこぞの住宅街の中のアパートに行って自分で関係性も作り、そこで暮らせ」と言われても、それは、それで、酷と言うものである。
それでも良いとする人は居るだろうが、そう云う人にも、その地域の中でどのように暮らしていけるのかを教示し、地域が意識的に包括していかないことには、ゴミ屋敷になり、しまいには孤独死、特殊清掃業者である。
どこに住むのかは、対策の側はあまり気にもしていない。
高齢者やら困窮者が安心して暮らして行けるような地域を作ってから「客」を呼ぶのが普通なのであるが、アパートを投資物件にし、「家主」の社会的責任なんてのはあまり考えもしない物件や不動産屋がとりわけ多いのが東京の都心部。
他方、都営住宅の場合は高齢者、高齢単身者が安心して暮らせるような仕組みを年々作りながら、募集をかけている。旧住宅局が民生局化を進めているのは実に頼もしい限りであるが、残念なことに、公営住宅を増やすと云う住宅政策が東京都にはない中、これだけ困窮者が高齢化しても、残念ながら、こう云う居心地の良い場所にはなかなか貧乏人は入れない。
「その人が、どこで、どのように暮らすのか?」と云う発想を「ファースト」にしていかないと、再開発で「ドヤ街」などが少なくなり、貧者が集う場所も限定されてしまう都会の地では、それこそ意識して作らねば、その「場」は永遠に作れないのであろう。
しかし、「走りながら考える」としていた東京都が、今度は「PDCAサイクル」である。
東京都「長期ビジョン」には、2014年8月現在で1697人のホームレスについて、2024年度には、すべて地域生活に移行させる目標が掲げられている。このPlan(計画)から、いかなるDo(実行)に到るのか?
まあ、我々の活動も、対策の側も、揃って「改善」である。
「今のままで良い」なんて言わせない、そんな魅力のある対策や、貧者が安心して暮らせる地域を作ることが、我が身に降りかかった使命だと思い、もちろん、そこにつなげていけるだけの応急援護のやり方や自立支援のやり方を、工夫し、続けていけるよう、我々も命ある限り孤軍奮闘するしかないであろう。先人が倒れても、一緒に倒れて、次から次へと続かない悲しい戦場ではあるが、それも良し。我々は「今のままで良い」とは言わないし、それを言ったら、何もかも終わってしまい、25年前に戻るだけである。
平成と言う時代は、ホームレスを筆頭とする貧困や辺境の問題に解決の糸口を見いだした時代であると、後々の歴史家に書かれるためには、今が実に重要であったりもする。
まあ、どう書かれても知ったこっちゃないが。
(了)
初出:「新宿連絡会NEWS VOL.75」 2019.3.10より許可を得て転載
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://chikyuza.net/
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