日本人の深層に眠る転換の鍵、アイヌ問題
- 2019年 4月 7日
- 評論・紹介・意見
- 松元保昭
① 謝罪なくしてアイヌ政策なし
2007年、日本政府は「国連先住民族権利宣言(UNDRIP)」を批准した。翌2008年、国会は全会一致で「アイヌ民族を先住民族とすることを求める決議」を採択した。決議では、「アイヌの人々が、法的には等しく国民でありながらも差別され、貧窮を余儀なくされたという歴史的事実を、私たちは厳粛に受け止めなければならない。」と謳っている。しかし、差別も貧窮も加害主体のない受け身で表され、土地、資源、言語、文化を略奪した歴史的事実には触れず、国家としての謝罪はない。核心は避けられ曖昧にぼかされている。
「厳粛に受け止める」とは、地主が小作に、経営者が使用人に、資本家が労働者に、犠牲を強いた支配者が被支配者に、口先だけで詫びた振りをする日本語だ。けっして謝罪ではない。この肝心なところから誤魔化すため、その後のあらゆるアイヌ政策が誤魔化しの楼閣になってきた。
② 国連先住民族権利宣言の枠組み
国連宣言は、近代国家がその植民地主義によって先住民族の土地、資源の収奪、文化、言語の禁止、および強制移住、強制同化による差別と抑圧、社会的零落、民族離散の現実を招来させ、しかも根本的な是正をせずにきた歴史的不正義、すなわち国家の植民地主義を反省し、心底、謝罪することが大前提となっている。宣言の核心はここにある。ついで、こうした歴史的不正義にまみれている国民国家の諸制度を是正(redress)し、かつ賠償し、補償するための(先住民族と国家との)対等な協働関係の基本的枠組みづくりに際しての先住民族の諸権利と国家の義務を国際標準として謳ったものであった。
したがって、自国の歴史的不正義を謝罪し、その是正と賠償、補償の協働関係づくりを決意したものでないかぎり、国連宣言を真に承認したことにはならない。日本の場合、「先住民族」という呼称だけを国際標準に合わせた姑息な「批准」であったことも、日本政府が国連での採択直後に、「第一に、独立・分離権を認めないこと、第二に、集団的権利としての人権を認めないこと、第三に、財産権は第三者や公共の利益との調和を優先すること」という三点の解釈宣言をして留保条件を付け加えたことからも伺える。
さらに重要なことは、アイヌ民族を頑なに「民族集団」として認めようとしないことである。上の留保条件にもあるように、「集団的権利としての人権を認めないこと」はその後一貫した政策となっている。謝罪もなく、民族集団であることも認めずに、生活支援策、「保護」策を引き継ぎ、観光アイヌ文化を推奨し、共生の実態なき「民族共生象徴空間」を中心に、狩猟・採集権利をわずかに小出しにするだけの「アイヌ新法」でしかない。
先住民族アイヌの自己決定権を認め、民族の自立、再生、復権を促そうとするには、謝罪、補償アプローチへの決意からはじめ、是正交渉のための協働関係づくりに誠意をもって着手することから始めなければならない。日本国政府が国連宣言を批准し、国会がアイヌ民族を先住民族であると決議したとはいえ、日本国政府と国会は、国民とアイヌ民族に対して植民地主義を反省し是正措置を採るとまでは、宣言も決議もしていない。2008年の国会決議は、アイヌ民族を国際標準の先住民族と「認めた」にすぎない。これでは、同宣言の中核である「集団および個人の権利」の実現および国家諸制度是正の道(補償アプローチ)を最初から拒絶したに等しい。
ところが日本政府も国会も、謝罪の決意表明をしそうにないばかりか、有識者懇の御用学者たちも「国民の実情に合わせて」「日本的先住民政策」などと、協働関係づくりを始める前から、是正修復の意思の無さを露わに表明して政府のやる気のなさに足並みをそろえている。そうした内実を隠しながら、表向きだけ先住民族政策に取り組んでいるフリをしているのが現下の情勢だ。今回の、「先住民族」の商標だけを盗み取り、緊急生活支援もなく、民族的権利を観光「文化」に封じ込め交付金でコントロールするような、謝罪も補償アプローチもない「アイヌ新法」はただちに撤回すべきである。
謝罪とは、心から「ごめんなさい」と言って(たとえ時間とカネがかかっても)、過去の清算を(賠償、補償の約束とともに)乞願い(相手がこれを受け入れたとき初めて対等の関係が成立し)、未来に向けての対等な関係を約束する人間的な行為である。過去の反省と未来への関係修復への決意なしに、謝罪はない。ところが私は、戦後70年以上生きてきたが、日本政府が誠意をもって謝罪したことを、ただの一度も見たことも聞いたこともない。政府だけでなく、原発事故を起こした東電も、水俣病を引き起こしたチッソ水俣工場も、朝鮮半島はじめ近隣アジア諸国への植民地主義と戦争責任も、謝罪せずに今日まできた。アイヌに対する北大からの遺骨返還に際しても、当然のごとくに謝罪はなかった。謝罪しない、謝罪できない、日本国と日本人の根は深そうである。
③ 日本人はなぜ謝罪しない、できないのか?
従軍慰安婦問題も、謝罪なしに10億円拠出で「最終的かつ不可逆的解決だ」と厚顔に言い募った。戦時強制連行被害者の徴用工問題でも、かつて日本政府自ら1965年の日韓請求権協定で「個人請求権が失われたものとは考えない」と言明してきたのに、「国際法違反」などと騒ぎ立てて日本の恥を晒している。謝罪はしたくないのだ。
在日朝鮮人に謝罪をしたか?帝国臣民として戦争にまで駆り出された在日朝鮮人は、憲法制定直前、最後の勅令(外国人登録令)によって無国籍の難民に貶められ、1952年のサンフランシスコ条約によって一方的に日本国籍を剥奪された。その裏には、敗戦直後の解放(光復)に沸く在日朝鮮人の民族的自立への畏怖があった。いまに続く民族教育の場「朝鮮学校」無償化差別の淵源もここにある。切り捨てた他民族に謝罪の必要はない。
琉球・沖縄人に謝罪をしたか?捨て石となった沖縄は、米軍の猛火に晒され、日本軍による住民虐殺・集団自決強要によっても凄惨を極めた。敗戦後も米軍統治下によって無権利状態でほしいままに土地が強制接収され、70年以上も米軍基地が居座り続けている世界でも稀有な生贄の地だ。いま辺野古に米軍基地ならぬ将来の自衛隊基地が建設されようとしている。天皇ヒロヒトの沖縄無期限貸与発言はあっても、謝罪はいまだない。
3000万人ともいわれる犠牲者を出したアジア太平洋戦争の戦争責任、戦後責任はどうか?軍事侵略され植民地化され無数の犠牲者と膨大な被害を被った、中国、朝鮮、東南アジア諸国への戦争賠償は、日本企業に還流する卑劣なODA供与・借款によってすり抜ける一方、自らは朝鮮特需、ベトナム特需で「自力繁栄」を謳歌して怪しまない心性。戦後50年にもなって、ようやく紙切れ一枚に等しい賠償・補償なき「村山談話」なるもので事を済ませるような恥ずべき国である。近隣諸国の正当な謝罪・賠償要求には、「土下座外交」と揶揄する。戦争責任の清算こそ第一という内外の声を日本政府は一貫して圧殺し、「経済協力」の誤魔化しを「補償」と押し付け、誠意ある謝罪も賠償も補償もしてこなかった。
こうしたまなざし、心性は変わっていない。日露戦争の直前、1903年、夜郎自大の帝国主義心性涵養のために大阪で勧業博覧会が開催され、その「学術人類館」にアイヌ、朝鮮人、琉球人が生きた標本として陳列する計画があった。沖縄からは「アイヌと一緒になるなど侮辱」と抗議され撤去されたものの、結局アイヌ、朝鮮人はそのまま展示された。いま白老に、「民族共生象徴空間」なる慰霊・博物館がオリンピックまでに建設されようとしている。社会的に生活支援しなければ文化も尊厳もないという共生なき現実にもかかわらず、見世物小屋をつくって「共生のお飾り」にしようという魂胆がみえみえだ。19世紀末端の旧土人保護法と21世紀初頭の民族共生象徴空間は、ともにアイヌ民族の主体性・根源的自立の根拠を奪っている点で、同化政策の延長、連続性を下敷きにしたものと考えざるをえない。100年前の植民者根性はいまも続いているのではないか?
しかも、そこには北大、札医大、東大、京大など全国で約2000体にのぼるという盗掘されたアイヌ遺骨が集約され、「慰霊」されるという。アイヌの人々の努力でようやく開かれたコタン(地域コミュニティ)への遺骨返還の道が、ここで逆行する。和人だけでつくった箱モノに移動するだけでアイヌにとって果たして慰霊となるか?そもそも慰霊はけっして謝罪ではない。平成天皇夫妻の各地の慰霊巡幸は、あるべき国家謝罪を粉飾し国民を目眩ます巧妙に仕組まれた儀礼であった。ここでも謝罪は無用とされ、それが200億円で固定化されようとしている。まやかし「新法」の中核になっているこの施設建設はただちに中断すべきだ。
もし真剣にアイヌ博物館が必要であれば、白老は直ちに止め200億円を使ってアイヌ民族自身だけの手によって、アイヌ民族が古代から被った歴史的不正義をつぶさに展示する「アイヌ歴史・人権博物館」が望ましい。場所は、開拓使の象徴である道庁赤レンガを使用するか、あるいはアイヌコタンのあった北大古河講堂前のサクシュコトニ川のメム(泉)の周辺に一大コタン様式の何棟もの博物館をつくるか、どちらかが望ましい。もちろんアイヌ自身の手で。
ついでに言うと、アベ政権がやっていることは見世物小屋で国民をたぶらかす興行国家づくりだ。植民地化を先導し優生思想とレイシズムに根をもつオリンピックの大騒ぎをウソと賄賂で招致して国民を踊らせる。インチキ線量と偽装「復興」で原発棄民をつくり出し、ロボットでデブリを取り出すなどという果て無い夢にカネと時間を費やしては国民をたぶらかす。こうしてオリンピック、カジノ、万博、G20サミット、共生象徴空間、さらに天皇代替わりの興行祭りがセットされている。大企業優先で都会ばかりがバベルの塔のように栄え、災害と数字の誤魔化しで鉄路は廃され地方は疲弊、興行の宴から疎外される地方と弱者は棄民されるだけだ。国家主義者、軍国主義者、天皇主義者のアベがアイヌに謝罪するわけがない。アイヌだけでなく列島諸民族の幸せのためにもアベ政権はさっさと退陣してもらいたいものだ。
アイヌになぜ謝罪しないか?1869年の「蝦夷地開拓御下問書」では、「天祖以来固有ノ皇道復興被為在~蝦夷地ノ儀ハ皇国ノ北門」とのたもうただけでアイヌモシリは一挙に皇国の一部に編入された。「土人ハ平定シ~速ニ開拓教導スベシ」と命ぜられている。問答無用の「無主の地」略取である。19世紀の欧米植民地主義は、土地の略取、先占権が謳われていたとはいえ、先住民族との「契約」の跡がしっかりと遺されている。江戸期松前藩の場所請負制がコタンをほぼ壊滅せしむる侵略であったとしても、幕府日本国としてはまだ「化外の民」として外国・異人扱いをしていた。アイヌモシリは、「御下問」ひとつで誰はばかることなく野蛮にずかずかと奪われてしまった。アイヌに謝罪するには、契約もなく民族主体も認めずこの大地を奪った事実から始めるのが道理であろう。
150年の歴史を顧みて、先住民族アイヌは一方的に土地、資源、言語、文化を収奪され、強制移住、強制同化政策による差別と抑圧、民族離散と社会的零落化に貶められ、「旧土人、劣等民族、滅びゆく民族」とまで烙印(スティグマ)を圧されてきた。一部生活保護や社会福祉の対象にされたとはいえ、民族の自立、自己決定権を軸とした国家との根本的な関係修復は、これまで着手されたことがない。
しかし、和人(日本人)とアイヌとの因縁は、土人と虐げた明治に遡るだけではまだ足らない。戎/夷(エビス)、夷狄(イテキ)、蝦夷(エミシ)、蝦夷(エゾ)といったアイヌへの表象こそ、ヤマト政権成立後の「日本国・日本人」開闢以来のオリエンタリズム表象であった。日本人は、大陸中国の華夷思想を夜郎自大に自己像に盗作合体させ、7世紀来の蝦夷征伐を政権の天命としてきたのである。サムライの棟梁が征夷大将軍であったように、関東以北のエゾ、エミシを敵視する歴史は、国号の「日本」始まって以来の、領土的、軍事的、政治的、文化的枠組みとして生きてきた。
アイヌを民族として認めない夜郎自大な帝国主義心性は、その後ますますいかんなく発揮された。民族の自立・独立など断じて許しがたいという国体明徴、八紘一宇の天皇主義大和魂は、とりわけ苛烈で凄惨を極めた東学農民大虐殺、3・1独立運動大弾圧、日本の民衆が下手人となった関東大震災朝鮮人虐殺に対しても、いまだに深刻な国家謝罪がないばかりか、巷にはヘイトスピーチがまかり通り官憲がそれを守るクニになっている。
自民族優越主義、自民族中心主義と人種主義は互いに手を取り合い自民族をたえず美化しつつ歴史を捻じ曲げ続ける。必然的に日本会議やアベのような歴史偽造主義者を生みだし、いままたオリンピックに向けて全開しそうだ。日本人の自民族優越主義、自民族中心主義のレイシズムの根は深い。謝罪は、ここまで遡ることができるであろうか?
ところで、先住民族に国家謝罪をした国は、ノルウェー、スウェーデン、ニュージーランド、オーストラリア、カナダ、台湾などまだわずかである。とりわけ数世紀にわたる植民地主義侵略を主導してきた欧米主要国が依然として植民地主義の反省を忌避している現実は、2001年のダーバン宣言の経緯にもみられたとおりである。それは欧米植民地主義主要国が、依然として植民地主義(ポスト・コロニアリズム)を継続している現実があるからである。中東に偽造国家イスラエルという楔を打ち込んだ欧米は、その世界支配と石油支配のため中東を攪乱して対イスラーム包囲網を継続しようとしている。そういう状況を放置してきたため、ある意味、世界がイスラエル化している。その間隙をぬって欧米にすり寄りかつ便乗するかたちで、東アジアの経済的・軍事的小帝国を目指し、その植民地主義を継続しようとしているのが日本だ。
2015年、アベ政権は、日米同盟と震災援助を隠れ蓑にイスラエルと先端技術・武器供与の半軍事同盟を結んだ。どちらの国も時代遅れの単一民族神話にすがりつき民族国家主義をめざす。ここでもアイヌだけでなく近隣諸国へも謝罪などしない日本の姿勢の根がある。日米同盟を錦の御旗に悪の超大国アメリカにすり寄って、「国際法は目標であって従うべきものではない」などといって人種差別撤廃条約などいくつもの国際人権規準勧告をサボタージュしている背景もここにある。
夷狄、異民族、アイヌへの謝罪は、万世一系や皇統といった天皇制と切り離せない日本人の領土的観念、他者観念、日本人の自我意識を覆すものになりかねない。同時に、日本の長い植民地主義的心性の転換点となる可能性も秘めている。相手を貶めず、互いに尊厳あるものとして遇し合う関係、すなわち、東アジアの列島(ヤポネシア)に共存する諸民族の対等平等な共生という可能性である。世界中の大部分の国は、多民族共和制である。アイヌへの真正の謝罪は、日本人と列島に新しい未来を切り開くかもしれない。
このように植民地主義の反省・謝罪といっても、過去から現在まで、その奥行きは広く深い。国号「日本」の成立とともに天皇神話と一体となった征夷の枠組み、土地・資源の略奪、言語・文化の禁止と同化、騙し、差別、抑圧、社会的排外と零落、救与・温情、篭絡・懐柔、盗骨などなど為政者だけでなく日本民衆の加担・共犯も含め重層的に累積してきた歴史的不正義が日本列島から樺太・千島列島におけるアイヌ問題である。まさに「連累(implication)」である[テッサ・モーリス・スズキ 2000]。
敗戦時の天皇ヒロヒトの延命工作から象徴天皇制への鞍替えに始まりアベ政権が成れの果てとも言えるが、和解と申し立てその宴席でアイヌを闇討ちするような戦時、戦中、敗戦時まで繰り返された無数の陰謀と野蛮をみると、日本人のけっして謝罪しない「ずるさ卑劣さ」の来歴の根は深い。大和魂を発揮するサムライにハラキリはあっても謝罪はない。
謝罪とは、相手を尊厳ある人として遇する行為である。ところが日本人は、異質の他者をそのまま尊重して遇する経験に乏しい。「鬼はソト、福はウチ」と、自分たちの輪(和)に入ってきたものは仲間内として歓迎するが、輪から外れる者、従わない者、逆らう者、まつろわぬ者、異質な者たちはおしなべて輪から排外しさまざまな差別で貶める。言葉の通じない者、障がい者、ハンセン病など使いものにならない(カネ儲けの手段にならない)弱者はことごとく差別、抑圧されてきた。人権という言葉が流通してきた戦後においてもそうであった。自らが政治的、社会的に「尊厳あるもの」として扱われていない日常からは、他者を尊厳ある者として遇する日常は生まれない。
憲法には国民主権とある。しかし主権はいま国家主義者に横領され、あたかも主権とは国家主権を言うがごとしである。アイヌにも主権があるという希いは、国家が認めない。軍事基地は必要ないという沖縄の主権が踏みにじられているように、国民に主権がない状態で、どうして他者であり隣人であるアイヌに主権(自己決定権)を容認できよう。手足が奪われた日本国民の主権行使とアイヌの主権否認は、不即不離の関係にある。他者の尊厳とは、尊厳が相互に尊重される社会においてのみ可能だ。アイヌ個々人が自分の未来を自由にアイデンティファイできるには、シャモもまた各自のアイデンティファイを再構築できるような在り方(制度)に転換しなければならない。アイヌを民族とは認めない「アイヌ系日本人」なる呼称もなくなるであろう。他者、異民族、アイヌを曖昧な「国民」から解き放ち、尊厳ある人々と宣言することによって、自らの尊厳も相互の尊厳も再生することができるのではないか。150年あるいは1300年を遡る歴史的謝罪は、これを可能ならしめる。
④ 歴史的謝罪宣言の必要
今回の権利宣言が、「『先住民族』に、独自の『政治システム』、『法システム』、『社会システム』を認め、そこに基づいて、普遍的な人権を認めることは、欧州に始まった国際法や人権規準相対化のひとつの到達点であり、植民地主義や帝国主義に関する積み残されてきた問題の解決に大きな一歩を踏み出すことを意味している。」[上村英明、2007]
アイヌを始め、先住民族の民族的、文化的アイデンティティーは、近代の「国民国家」の枠内には収まらず、まったくの独自性をもつことを前提にしなければならない。アイヌに必要なことは、国民国家の成員としての「自由」では足らない。先住民族の原自由たる権利は、あらゆる点で国民国家の枠組みを飛び越えることを承認しなければ、実現されることはない。それはまた、日本国を列島の単一民族神話という呪縛から解き放ち、本来の多民族共存の列島を再生、再構築していく道でもあるはずだ。
その課題は、資本主義と近代国民国家が前提とする「等質な空間と時間」にいかにして「異質な時間と空間」を嵌め込むか、ということに尽きる。同化による時間空間の等質な「国民」への編成である同化主義、植民地主義からの脱却という課題は、その異質な制度を許容し編み出すことにほかならない。憲法10条の「国民」規定に封じ込めてアイヌの民族的自立を阻み観光「文化」にしがみつかせてきた根源、つまり、日本の等質な国家一元主義という神話を解体することなしに、アイヌの日本国からの呪縛を解くことはできない。
したがって、国連宣言の内容を受諾し国家-民族間の関係修復に着手しようとするなら、第一に、(少なくとも)明治以降の歴史的不正義の事実を(政府と国会が)国家-国民として認め、謝罪し、賠償と補償を決意し、民族と国家の関係修復に着手することを内外に(政府と国会が)改めて宣言しなければならない。この宣言には、アイヌ民族だけでなく樺太・千島アイヌ、琉球民族、旧植民地出身者および東南アジア出身者の係累も含めた包括的な歴史的謝罪宣言となることが望ましい。同時に、以下に述べる「歴史和解委員会」の予告、また憲法10条の国民規定変更も宣言に含めるべきだ。
第二に、是正および補償プロセスに向けた国家-民族の協働関係のため、アイヌ民族の暫定自治組織(現行の北海道アイヌ協会ではない)の形成を国家は財政的、制度的に援助する必要がある。言うまでもなく国や道庁が官吏を置いて陰湿に主導するのではなく、形成過程全体がアイヌ民族の自己決定権に基づくものでなければならない。(当面、各地の自治区設立と民族議会形成を目標とするのが望ましい。)
集団としてのアイヌ民族およびアイヌ民族個々人が、収奪された言語、文化および自然資源を復権・利用するさいに国家諸システムにかかわる政治的権利、経済的権利、文化的権利の「交渉」主体であることを認めることこそ自己決定権の第一歩である。民族あるいはコミュニティ(コタン)の自立と自治は、個人および集団が自己決定権の交渉主体となって始めて条件が備わる。各地にコタンの自治区設立のため複数の法制度が許容されなければならない。すなわち制度的多様性である。複数の法制度をもつ政治的正義と社会的公正の枠組みが創出されねばならない。抑圧と差別によって弱者に貶めた歴史的不正義を反省、謝罪し、支配民族の「連累」を償う賠償の一環としての倫理的責任を国家政策の柱に据えなければならない。
「人種」としてのアイヌであっても、「民族」としてのアイヌであっても、「状況」としてのアイヌであっても、選択的に「交渉主体」となれるよう条件整備・制度設計すべきである[佐々木昌雄1973]。アイヌ個々人と集団が、未来に向けて選択的に自己実現する場、修復、復権する手がかりを制度的に備えることが差し当たっての支配民族「和人」すなわち日本国民の義務である。
ただし、ここで欠くことのできない段階がある。当該アイヌ民族の科学的な人口動態調査である。上に述べた歴史的不正義の烙印はすさまじいものであって、出自を隠しとおしてきたサイレント·アイヌが数多くあり、アイヌ民族自身が各都道府県および各地域のアイヌ民族数を正確には知らない現実がある。第一で述べた謝罪·賠償·補償の誠実な宣言によって、数年がかりの全国的な人口統計調査を複数回繰り返すことによって実態把握に努めるしかないであろう。アイヌ民族の自立と尊厳にむけた民族主体確立のためにこれは欠かせない。(出自の選択を自由意志に委ねることは言を俟たない。)
第三に、国家-民族関係修復のための、あるいは国連宣言実施のための、最低限の民主主義的な制度上の枠組みは提示しておくべきだろう。すなわちアイヌ民族議会選出による地方議会および国会における議員定数枠・ジェンダー枠の設定、あるいは「先住民族関係修復委員会」、または在日朝鮮人、韓国人、台湾人、中国人などの旧植民地出身者も含めた歴史的不正義是正の「歴史和解委員会(仮)」のような、制度的見通しを与えておくことも必要だ。とうぜん、憲法上の国民規程にも変更を与える決意と手続きが必要であり、複数民族、多様な民族の共存という現実を折り込む必要がある。
第四に、84年にアイヌ民族から出された自立化基金の発想から学んで、新たな「宣言」執行の過渡期として、アイヌ民族緊急助成策が必要だ。世帯当たり平均収入を日本人並みに底上げする低所得者助成金、就学援助金、アイヌ個々人が狩猟・採集の交渉権・取引権をもって民族権利を実行できる施策、年金・医療・介護支援、全国の初等・中等教育に「アイヌの歴史・人権教育」を徹底する、などの緊急助成策を当面、アイヌ議会設立まで設ける。(イージスアショア、FX戦闘機などという無駄なおもちゃを買うカネがあったら、すぐにもできる。)
以上四つの課題は、長年かかるであろう関係修復のための協働作業着手のための大前提に過ぎない。こうした前提なしでは、カムイ(大地・自然)とコタン(コミュニティ)なきアイヌ民族、生活と生業なき観光文化振興、実態なき共生、生活保護中心の曖昧と誤魔化しのアイヌ懐柔政策が永遠に続くだけだ。第一に掲げた、国内外への宣言の際に言及されることが望ましい。またこれに準じて、列島諸民族の各民族主権確立のために常設研究機関などを設置して検討する必要が出てくる。
《憲法規程の変更》
日本列島諸民族共和の国づくりのため、象徴天皇制を廃棄して、第一章第1条から第8条まで全文を削除する。とうぜん宗教的・民族的アイデンティティが各自、各民族によって異なるのであるから天皇制は象徴とならない。また、第10条日本国民たる要件は、法律でこれを定める。これを⇒「日本国民とは、日本列島に居住する諸民族である。列島の範域および国籍は、法律でこれを定める。」と変更する。憲法前文第二段落の冒頭に、「多様な民族が共存する日本国民は、」と挿入する。その後は、多民族の共和国制憲議会に委ねられるであろう。
最後に、
けっして欺かない、武器を持たない、侵略しない、心優しいホビットのような隣人アイヌを大切にしたい。そして、日高地方だけでなく、帯広十勝、釧路、根室、紋別、宗谷、阿寒、洞爺、支笏、登別、白老、小金湯、定山渓、江別、石狩、渡島、旭川、層雲峡など、アイヌモシリ各地にあるホビットの村、イオル(テリトリー)もある小さな(大きいとロクなコトがない)自治区コタンを訪ね歩き、遊びに行きたい。〔ホビットはトゥールキン『指輪物語』から〕
2019年2月15日
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://chikyuza.net/
〔opinion8546:190407〕
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