NATOのセルビア侵略20周年(3月24日)――市民主義の功罪を思う――
- 2019年 4月 25日
- 評論・紹介・意見
- 岩田昌征
去年の11月、ある地方都市でセルビア左翼党 Levica srbije のリーダーが覆面の暴漢数人に殴打され、傷を負った。彼のシャツが血に染まった。数日後の11月末に彼を支持する町の民衆が「血染めのシャツ、止めろ」と言う横断幕をひろげてデモをした。12月に首都ベオグラードで同じスローガンの規模の大きいデモ行進が実行された。そのデモは毎週土曜日に行われ、共通スローガンが「血染めのシャツ」から「五百万人のうちの一人」になった。それは、街頭示威行動に対してヴゥーチチ大統領が、仮に500万人がデモしようとしても屈服しないと言い放ったことによると言われる。デモに参加する者はそれぞれ現政権セルビア前進(進歩)党レジームに抗議する「五百万人のうちの一人」と言う訳だ。統一要求は自由なメディアと公正な選挙である。運動は人々の予感を超えて、セルビア全国の主要諸都市で進行している。
2012年・平成24年に前進党政権が成立して以来最大規模の反政府大衆運動である。資本主義が労働者自主管理社会主義を打倒して、資本主義的生活様式が隅々に浸透して行くにつれて、有産特権層外の一般生活者にとって生活しにくさ・生活しずらさは、資本主義への甘い期待に反して、益々実感される。それは、2012年以前の中道リベラリズム寄りの民主党政権下であれ、2012年以後の中道ナショナリズム寄りの前進党政権下であれ、変わらない。間歇的に噴出せざるを得ない。
このような社会状況の下に2019年3月24日がある。1999年・平成11年3月24日に起こった、NATOの対セルビア空爆の20周年を迎える。またNATO創立70周年も直近。
私=岩田は、編集傾向が政権寄りであると言ってよい日刊紙『ポリティカ』、反政権の親西欧北米の週刊誌『ヴレーメ』、そして親ロシア・民族主義の週刊誌『ペチャト』をNATO空爆20周年前後で比較して読んでみた。
当然と言えば当然であるが、『ヴレーメ』はNATO空爆に関しては全く無視。だからと言って、78日間連日のセルビア全土にわたる大空爆に関連する報道が全く無いのは不自然と編集者も感じたのか、大空爆終了後、すなわち6月10日以後にコソヴォで起こったこのNATO・セルビア戦争に関する小エピソードを二つ紹介していた。『ヴレーメ』の主要関心は、「五百万人のうちの一人」デモである。
『ポリティカ』と『ペチャト』は真逆である。「五百万人のうちの一人」に関しては申し訳程度。全面にNATO空爆批判のメディア・キャンペーンである。親政権側がNATO空爆20周年を強調して、「五百万人のうちの一人」運動の大衆的圧力を軽減しようとする。しばしば見られる反応である。
しかしながら、ここに念頭に入れておくべきもう一つの要因がある。それは、セルビア社会における親西欧北米リベラリストの親NATO運動である。
2019年2月に「セルビアのヨーロッパ運動」なるNGOが「新外交イニシャティヴ」政策を提言した。その眼目は、①ベオグラードとプリシティナの関係改善、②EU参加、③近隣諸国との友好、④NATOとの完全協力、反NATOメディア・キャムペーンの中止。この提言に、「ヘルシンキ人権委員会」、「市民フォーラム」、「人権基金」等々、ベオグラードの有力な19の市民団体・NGOが署名していた。
前進党政権側も①、②、③に反対する理由はない。④が問題の要である。前進党系の人々には、「親露も親EUも」の気持が強く、かつNATO加盟反対・武装中立路線が強い。私見によれば、セルビアの東アジア政策において、近年、中国重視が目立つのも、中国側の外交攻勢によると言うよりは、西欧・米国からの圧力に抵抗して国家運営の独立性を保つうえで中国への接近が役立つからである。
2019年3月22-23日にベオグラードの国防会館で開かれた国際集会「ユーゴスラヴィア共和国(セルビアとモンテネグロから成る連邦共和国:岩田)へのNATO侵略20周年」においてヴェネズエラ共和国の代表が「アメリカは民主主義の名前で死と破壊をもたらす。私達みんなは彼等にとって野蛮人にすぎない。しかし自分達だけが文明人だ、と。勝利か死かの選択はない。ヴェネズエラのために必ず勝たねばならぬ」と演説し、「ノパラサン!」と結んだ時、会場は一斉に「ノパラサン!」で応唱した。「ノパラサン」とはスペイン語で「奴等を通すな!」の意であるそうだ。
仮想日本の政治状況と対比すると、あるいは意訳すると次のようになろう。安倍政権が反安保・反米軍基地の構えであり、立憲諸党・市民運動が安保護持・米軍基地賛成で運動するような状況、それが今日のバルカン小国の有様である。もっとも、本音の日本は、前者も後者も親米・親安保かも知れないが。
親NATOのリベラル市民主義系諸NGOの主張、現実にNATOとの協力が進展しつつあるのだから、反NATOキャムペーンを停止すべきであると言う提言に対して、民族主義系のNATO批判論者は、どのように論判しているのか。ここにセルビア前進(進歩)党と協力関係にある軍事外交問題ジャーナリストで国会議員のミロスラフ・ラザンスキによる論説「何故我国を攻撃したのか」(『ポリティカ』2019年3月23日)を要約紹介しよう。
――1999年3月24日に始まったNATOによるユーゴスラヴィア(セルビアとモンテネグロから成る連邦共和国:岩田)への侵略は、2012年まで(セルビア前進党政権成立以前:岩田)諸メディアにおいて軍事行動、作戦、空爆と呼ばれて来た。『ポリティカ』紙だけは、侵略を侵略と常に言い続けて来た。国防省関係の新聞『オドブラナ』(Odbrana防衛:岩田)でさえ2012年以前は侵略と言う用語を避けて来た。政治家達の発言については語るまでもない。それも変わった。しかし、すべての政治家が変わったわけではない。――
――セルビアのNGOグループは、NATO批判を制裁しようと要求する。NGOセクターは、教育者達がNATOに対するイライラ感をなくす手助けをするように、NATOのことは過去のことになったのだと説得するように要求する。――
――それだけではない。ランブイエ交渉(1999年2月、パリ近郊ランブイエで行われた空爆直前の外交会議:岩田)が失敗したのは我々が悪かったからだと言う。すべてに同意すべきだったと言う。――
ここでラザンスキは、その交渉でセルビア側が拒否した付属文書Bの内容を語る。一言で言えば、コソヴォだけでなく、ユーゴスラヴィア全土へのNATO軍進駐承認文書だ。どんな小国でも、主権国家である限り受け容れられない要求だ。基本的人権ならぬ基本的国権の完全無視・完全侵害だ。
日本人にとって分かり易い仮想事例を用いて説明しよう。昭和16年11月、東郷外相が東條首相を説得して、ハルノートの諸要求を受け容れたとしよう。即座に、日本がのんだハルノートの諸要求を実現・実施する為の必要諸措置として日米安保条約の行政協定・地位協定に類似の文書がアメリカ軍によって突き付けられたとしよう。そんな内容の文書を大日本帝国は絶対に受け容れられない。ミロシェヴィチ大統領のユーゴスラヴィアと東條内閣の大日本帝国の相違は、座して侵略を待つしかないか、連合艦隊による真珠湾奇襲に掛けるか、であった。
それでは、何故にNATOによる一方的な対セルビア空爆が国際法上侵略と性格付けざるを得ないのか。第一に、NATO加盟諸国のどの国にとっても自国への攻撃に対して反撃する自衛戦争ではない。第二に、国連安保理の決議によって正当化される国際法的手続きを経ていない。
にもかかわらず、米軍と英軍を先頭に、独仏伊等の空軍は、セルビアの諸都市を連日空爆した。軍事施設や軍隊自体への空爆(劣化ウラン弾をも使用)に効果が期待出来なくなると、ドナウ河にかかる橋のすべて(但し、ベオグラード市内のものはフランスの反対で攻撃対象から除外)、各種工業施設、石油精製・化学工場、温水供給工場のような都市インフラ、電力供給網等々を破壊しつくすも、セルビア国民の抗戦(と言うより耐戦)姿勢におとろえがないと悟るや、ロシア人とフィンランド人の政治家をミロシェヴィチ大統領と直接面談させ、「このまま続けば、ベオグラード市全体が更地になる。」と脅しをかけさせ、抗戦を断念させる。
これらはすべて、「人道介入」を唯一の口実として断行されたのだ。コソヴォ・アルバニア人をセルビア人による大量虐殺から守護すると言う名目だった。この問題に関しては、岩田昌征著『社会主義崩壊から多民族戦争へ エッセイ・世紀末のメガカオス』(平成15年・2003年、御茶の水書房)「第Ⅱ部 多民族戦争」を読んで欲しい。北米・西欧・日本のリベラル市民社会による圧倒的NATO支持は、今想い出しても異様なほどである。どうしてそうなったのか。それは、NATOの対セルビア空爆がアメリカでは民主党クリントン大統領、イギリスでは労働党ブレア首相、ドイツでは社民党・みどりの党(赤緑)連立政権のシュレーダー首相、ヨシュカ・フィッシャー外相、シャーピング国防省等、左派とリベラル中道派が主導する「ノーモアウォーよりもノーモアアウシュヴィツだ」と言った政治哲学(?)が先進資本主義諸国の市民社会の心をとらえたからだ。「事実」をでっち上げ、空理念が人心をリードした。1968年世代の左派が先頭に立って、ドイツ国防軍を第二次大戦後はじめてドイツ国外へ、それもヨーロッパの一国を攻撃させたのである。
ドイツ国会で唯一人この戦争に反対したヴィンフリート・ヴォルフ Winfried Wolf によるならば、前首相ヘルムート・コールは、左派ではなくて、伝統的な保守・中道右派が国防軍の国外使用を打ち出していたならば、「左の抗議デモは北海から南ドイツまで連なる大行列になっていただろう。」と述懐したそうである(『ポリティカ』2019年3月25日)。
最後に「私達が1999年の侵略からセルビアを守らなかったことは誤りだ」なる見出しのインタビュー(『ポリティカ』2019年4月8日)を紹介する。相手はロシア連邦副議長ピョートル・オレゴヴィチ・トルストイ、文豪トルストイの曽孫(ひまご)である。
問:アンナ・カレーニナが鉄路に身を投げた後、ヴロンスキー伯爵は、セルビアを助けるために、セルビア・トルコ戦争に向かった。なのに、ロシア連邦はセルビア・モンテネグロに対するNATO侵略を阻止できなかったのですか。
答:ロシアは90年代国内的困難が山積、その後も長く回復できなかった。それでもセルビアの主権を守るために出来ることがあったのに、それさえやらなかったと反省するロシア人は多い。
問:あなたの曽祖父(ひいおじいさん)が望んでいたようにノーヴィサド(セルビアのヴォイヴォディナ地方の都市)に移住していたならば、あなたは今日セルビア人だったかも。曽祖父はペンで、あなたは政治でセルビアを助けてくれる。トルストイ家はどうしてセルビアと縁が深いのでしょう。
答:曽祖父が亡くなって、祖父達兄弟は国内戦後(10月革命後:岩田)、白衛軍の一員としてイスタンブール経由でセルビアに亡命した。私の父は、セルビア生まれで、第二次大戦の終わりまで住んでいた。私はロシア生まれで、勿論ロシア人だ。が、私の内に曽祖父の声がこだましている。セルビアが好きで、友人も多い。ロシアには私のような人が沢山いる。民族、文化、歴史だ。
平成31年・2019年4月21日(日)
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://chikyuza.net/
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