福島の子供たちと日本の政治
- 2011年 5月 6日
- 評論・紹介・意見
- 安東次郎日本の政治福島の子供たち
ポスト3.11―原発震災後の日本―を考える ③
「銀(しろかね)も 金(くがね)も玉も 何せむに まされる宝 子にしかめやも」という憶良の歌がある。この歌を思い出すのは、いまの日本の政治が、この歌のちょうど逆となっているからだろう。
最近の日本の政治は本当に異常だ。
原発が危機的事態に陥ったとき、政治の仕事は、まずこの危機を隠ぺいすることだったし、汚染の隠しようがなくなったとき、今度は汚染基準を緩めることが、政治の仕事となった。
水や食品に対する基準の緩和からはじまって、ついには子供の被曝が年間20mシーベルトにまで緩められた。最も放射線に弱い子供たちに対する基準を、原発作業員に対するレベルにまで緩めることが、この国の「政治」なのだ。
なぜそんなことをするのか?
それは、日本の政治が、原発災害の責任問題を回避することに汲々としているからだろう。
原発からはるかに離れた地域でさえ、子供たちが健やかに暮らし、育つことができないとすれば、その責任はだれが負うのか。
国策として原発を推進してきた政治家や官僚たちか?あるいは原発推進から利益配分を受けていた人たちか?
いや、そうした人たちこそ、現政権党の基盤であり、あるいは旧政権党の基盤なのだ。日本の政治は、これだけの事故を起こしても、まだ原発に縛り付けられており、日本の政治にとっての『大事』は、原発を推進してきた官僚や政治家や財界人の栄達をまもることなのだ。
日本の政治にとっては、その『大事』をぶち壊すより、何事もないかのように子供たちを被曝させることのほうが、はるかに『合理的』なのだ。放射線という自然の領域での危機を克服するのではなく、恐怖心という人間の領域での危機を『克服』すればよいのだ。
こうして子供たちより、大人たちの「カネ」と「栄達」を優先する政治が続く。
しかし、カネや栄達は、はかないものだ。他方、子供たちこそ我々が未来を託することができる唯一の存在だ。
だから、ほかの何事かを優先して、子供たちに被曝をもたらすような政治は、もっとも愚かな政治だ。
ところが不思議なことに、日本の『リベラル派』の一部は、このもっとも愚かな政治を熱心に擁護している。
たとえば山口二郎は「もっと非常識なのは民主党内で首相退陣を叫ぶ政治家である。反菅グループの動きからは私心しか見えてこない」という。http://www.yamaguchijiro.com/
しかし、子供たちを放射線管理区域に押し込めるような首相に退陣を求めることの何処が「非常識」なのか 。子供たちの健やかな成長を妨げる権力への怒りの何処に「私心」があるのか。
「私心」に固まっているのは菅直人であり、「非常識」なのは「首相を代えなければ解決できない問題があるのか」などという山口二郎のほうだ。
なぜ「非常識」というか。仮に菅直人が「代えなくても何とかなる」程度の首相であるにしても、そんな首相をいつまでも使わねばならぬ義理は、国民にはないのだ。
「ちきゅう座」でも阿部治平氏は「我々は、菅内閣にたいする役立たずの揚足取りではなく、・・・放射線被曝に対して適切に対処できるような行動をしようではないか。菅内閣がウスノロ・マヌケであろうがなかろうが、当面は・・・自民党のエネルギー政策の後始末を彼らがやらざるを得ないのだから」という。http://chikyuza.net/archives/9058
しかし自民党の原子力政策の「後始末」を菅直人はどのようなやり方でやっているのか。それは汚染を隠蔽するというやり方、子供たちに被曝を強制するというやり方、ここまで至っても原子力発電を擁護するというやり方で、だ。(最後の点は、海江田万里・与謝野馨両閣僚の発言を聞けば明らかだろう。)
菅直人への支持は、始めから不思議なものだった。
彼を首相に推した人で、菅の能力や政策を評価した人を私は知らない。いや彼の人格さえ評価した人を知らない。
彼を支えたのは「首相がコロコロ変わるのはみっともない」というようなくだらない理屈であり、「対立候補」への「政治とカネ」なる「ネガティブキャンペーン」であった。
就任後、彼の能力のなさが露呈すると、こんどは、『仮免許』論が登場する。要するにまだ『見習い期間中だから大目に見るべきだ』という議論だ。
しかし首相が「仮免許でもよい」とは、ずいぶん政治を見くびったものでないか?
じっさい『仮免許』の首相とはどんなものなのか、震災によって人々は思い知ることになった。
なぜ彼らは、ここまで菅直人を擁護するのか?
日本の『リベラル派』なるものは、本質的には既得の地位と権益を享受する人たちだ。そう私には思える。
だから彼らにとっては、能力一般がない――したがって現状を変革する能力などない――首相が、『よい首相』なのだろう。
しかしふつうの人びとにとってはそうではない。情報を提供する代わりに空疎な言葉を語る、本当に安全な水や食べ物を確保する代わりに基準を緩和する、被曝を避ける対策を実行する代わりにたくさんの会議をつくる、そんな首相は普通の人々の基準からすれば、失格だ。
福島の子供たちを被曝させているのは、政治家と官僚だけではない。
いうまでもなく『ジャーナリスム』や『学界』がそれに協力している。
多くの学者がTVに出て、「安全だ」と言い、「ただちに健康に被害はない」と言い、「心配は要らない」と言った。ほとんどのマスコミはそれを無批判に流し、それを疑わせる情報を排除したことは、いまさら言うまでもない。
学界やマスコミにはこうした「国策への協力」、「国民への裏切り」に対する反省は、ほとんどない。
たとえば、「ちきゅう座」にも藤田博司氏の「海外メディアの震災報道」という記事が載っている。http://chikyuza.net/archives/9291
氏は今回の震災に関する海外のマスコミを一見客観的に評価しているように見える。しかし氏は根本的なことを語っていない。
それは、日本人が今回の原発事故の真実を知ったのは、海外の報道によってだった、ということだ。
日本人が最初にみた「1号機の爆発」の映像は、おそらくBBCのものだったし、「3号機の大爆発」も、sky news in Londonなどのものだっただろう。また最初に見た「放射能汚染のシミュレーション」は、ドイツ・シュピーゲルの報じたものだったとおもう。
海外のジャーナリズムには――トンチンカンなものもあっただろうが――「真実」があった。
それに較べ、日本の『マスコミ』にどんな真実があったのか。
日本のマスコミは国民相手にも福島県民相手にも「安全」を宣伝し、「平静」を呼びかけていたが、まさにその時、マスコミ各社はおおよそ原発50キロ圏への記者の立ち入りを止めていたのだし(上杉隆のツイッターによる)、東京から家族を避難させた「デスククラス」もいたのだという(孫崎享氏のツイッターによるhttp://chikyuza.net/archives/9248)。
日本には子供たちを大事にする「政府」も「財界」も「官僚」も存在しない。子供たちを大事にする「学界」も「マスコミ」も存在しない。
3月11日以降の事態が明らかにしたのは、こうしたことだ。
今日は「子供の日」だから、子供を行楽地へ連れていき、疲れて帰ってきた大人も多いとおもう。しかし、疲れたところで言うのは恐縮だが、大人がしなくてはならないことは、まだ他にも残っているのだ。
(5月5日夜 執筆)
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
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