《表現の「むずかしさ」を論じ、内田義彦・長洲一二論に至る》
- 2019年 5月 31日
- 評論・紹介・意見
- 内田 弘内田義彦長洲一二
[どの表現も必ず誰にでも分かりやすくできるか] 表現には、話し言葉でおこなう表現、文字でおこなう表現、映像でおこなう表現など、多様な形態がある。そのさい、表現の仕方の工夫次第では、より分かりやすくなる場合と、そのような工夫では超えられない限界に遮られる場合とがあるのではなかろうか。
さらに、別の表現を工夫することが全く不要な独自の固有性を持った表現、特に芸術作品の傑作の場合がある。この芸術作品こそ、「蒐集行為(collecting)」の対象となる。蒐集された作品は展示され、展示者の力が誇示される。ルーブル、ウーフィッツ、プラド、エルミタージュがその典型である。
《表現は平明に》という要求には、妥当性がある場合と、妥当生がない場合とがある。以下の文は、表現を平易にする課題に伴う諸問題について考察する。
[三つのむずかしさ] 文章による表現の「むずかしさ」には、つぎの三つがある。
[1] 文章表現自体が不適切である場合。この場合、文章が分かりやすくないのは、その文章の筆者が表現対象を正確に把握せず、したがって適切に表現していないからある。
表現対象の把握は言葉による。この場合、言葉は表現対象を分析するメスである。言葉(メス)で表現対象を正確に把握(解剖)していないから、言葉による文章表現が不分明になるのである。著者が言葉を用いて対象に立ち向かう対象把握と、言葉で読者に提示する対象表現とは、同じ事柄が「著者との関係」か、「読者との関係」かで異なるが、「言葉による把握=言葉による表現」という同一性をもつ。
「この語法は対象把握で正確であるか=この語法で書いてあることが読者は分かるか」という著者自身の問答過程・模索過程で、「より正確な対象把握=より適切な対象表現」に接近してゆく。
言葉の変換は対象像の変換をもたらす。言葉の順序を変換しただけでも、対象像は変わる。
このような変貌は、詩歌・短歌・俳句・川柳の制作に関わったことがある者なら、良く経験していることである。漫才・落語など言葉芸能でも同じであろう。
論文作成でも同じである。学術論文作成は想像力・美的感覚とは無関係ではない。アダム・スミスの学問研究の出発点は修辞学(レトリック)である。
[2] 読者の理解能力の不足・欠如による場合。どんなに平易に説明しても、超えられない或る限界が各々の表現課題には存在する。何事もすべて、工夫次第では、誰にでも分かりやすくできるということはけっしてない。
「むずかしい」と不満がでる場合、[1]の場合とこの[2]の場合の両方がありうる。[1]の著者の努力のみを前提にした、読者の怠惰は論外である。読者も自己の理解能力を自発的に高める努力を日々持続しなければならない。
[3] 利害関係による「むずかしさ」の場合。このケースは、「この文で表現されていることは理解でき同意できるから、賛成する」と言明すると、自分(たち)の利害が侵害されるから、「この文はむずかしい」といって、そのリスクを回避する場合である。この[3]の「むずかしさ」の実体は「利害関係のむずかしさ」なのである。街場、職場、法廷、議会、学会、同人会、さらに場合によっては家庭で、つまり「社会」で、この三番目のむずかしさが登場する。
[3]のむずかしさはカテゴリーとして[1]と[2]の「むずかしさ」と区別されるけれど、場合によっては、[1]と[2]の「むずかしさ」に潜在しているかもしれない。
以下の本稿では主に、一番やっかいな、通常では「文章のむずかしさ」のカテゴリーには入れられず、[3]に隠される「むずかしさ」を中心に議論する。以下の事例は、「むずかしさ」の[1][2][3]のいずれかに属する事例か、あるいは、いくつかが絡み合っているかの事例である。
[子供と親の問答]「勧善懲悪って、なに?」と小学生の子供に尋ねられて、父親が「《ひとに善いことをするように勧め、悪いことをしたら懲らしめる》ということだよ」と答える。
説明を続けて、「たとえば、電車で高齢者が自分の前に立ったなら、体力のあり座っている人は席を譲ってあげる。これは《善いことをしましょう》の例。
ひとの物を盗んではいけない。ひとが持っている物はたいてい、一生懸命働いて貰ったお金で買った物だろうね。盗んだら、捕まえて、牢屋に入れて、反省させる。これは《悪いことをしたら懲らしめる》例だね」と説明する。
この説明で子供が分かったと思うと、親子のこの問答は終わる。
[日常会話に控えているマルクス] しかし、子供がさらに、「働くと、なぜお金がもらえるの?《働くこと》と《お金》とはなぜ同じなの?」と尋ねてくると、親は説明に困るかもしれない。
子供のこの問いかけは《賃金労働の問題、労働力の商品化の問題》である。《マルクスなんか》と距離を置いてきた者は、このとき、マルクスに学ばなければならない問いに遭遇する。
その子供にとって幸いなことに、「うん、これはすごい問題だ。いまに大きくなって、経済学という学問を勉強すると分かるよ」と対応する親がいるかもしれない。
逆に、答えに窮した夫(父親)をそばで観ている妻(母親)が「お父さんは、お仕事で疲れているのよ」と助け船を出すかもしれない。
[平易な問題の周辺に深淵が潜む] このように、平易な問題の周辺には、難問が控えている。浜辺の数百メートル先が断層になっていて、その先に深淵が待ち構えているかもしれない。あるいは、小学生が使う自然数の2と3との間に、超越数(ネイピア数)e=2.71828182845904523536028…が存在する。
このように、表現をやさしくできる場合でも、その周囲に難解な問題に潜在する場合がある。
[文章読解・文章作成は自己改革が必要になることがある] 適確な文章で指摘されて、自分も問題が鮮明に分かるのに、その問題の存在を認めたくないので、「難しい」といって問題承認を回避する場合がある。政治的回避・逃亡である。
表現されたことを認めて、いままでの自己の見解を修正するか、認めないで、狭い、あるいは誤った、これまでの見解を墨守するか。ひとは文章を読む場合にも、その岐路に立つことがある。
教育過程はその自己改革を社会的に組織している。学習による自己改革は学校を卒業したら終わるのではない。そのあとからこそ、自己改革は自立化し、本格化するのである。
[人格を賭ける承認問題] 承認するか・承認しないかの選択問題は、自己改革の機会とするか否かの岐路である。自己改革は、表現する者が表現過程で遭遇する事柄でもある。以下の本稿を作成する過程でも、筆者は、いくつかの自己改革を経験した。特に「寅さん映画」に潜む「上層部と最下層部との自己再帰関係」(後述)を発見したときには、密かに驚いた。
[規範意識が崩壊しはじめた] 現在の日本の言葉による表現は規範が崩れている。自己改革どころか、自己退行である。
北方領土問題をロシアとの交戦問題に転化した国会議員は、その発言が批判されると、「私にも言論の自由がある」と嘯(うそぶ)く。国会議員には、交戦権放棄の規定を含む「日本国憲法を遵守する義務」があるのに、その義務を棚に上げて、「言論の自由」だけを盾に取る。浅はかな「良いとこ取り」が通用すると独断する人物がこの日本に実在する。
[明白な事実を隠す論難] 問題の深刻さは、言論規範の崩壊が「右」にも「左」にも観られる事態にある。規範崩壊の兆しは、国民規模、さらに国際的一般事なのである。
たとえば、論敵の主張を明確に根拠づける明々白々な事実が存在することを知りながら、その事実を隠蔽して、別の論点を創り上げ、論敵を執拗に批判する。このような言論は退廃そのものではなかろうか。
[魯迅と孫文] 国会議員の「言論の自由」主張を知って、思い出すのが孫文である。「自由とはなにか」という問いに対して、孫文は『三民主義』で、自由とは食べ物にありつけること、食って生き続けることができることである、と答えた。
魯迅は「ものごとは、フェア・プレイで対応しようではないか」と上品な方々に注文されて、「中国では、まだフェア・プレイは、時期尚早である」と答えた。
[自由の上品な規定と下品な規定] この孫文の答えは、自由のエレガントな規定=文体に慣れている者には、何やら生臭い、下品な規定、払いのけたい規定だと思われるだろう。
孫文のその自由規定は、清逸な書斎で心地よい思弁に浸る研究者にとって、まったく理解不能な規定、分からない規定、したがって、受容を拒否する規定であるかもしれない。
「むずかしい」といって、『三民主義』をデスクの脇に置くかもしれない。しかし戦時中、北京に滞在していた竹内好は『三民主義』に魅了された。そこに中国が息づいていると感激した。
[阿片とフェア・プレイ] 孫文は、自由とは、とにかく食えること、生き延びられるように中国人がなることである、と答えた。「公平な広場」からは、中国人は排除されていたからである。
[相手の両足を縛って、《さあテニスをしましょう》] 阿片を中国人に売りつけ、公平な場面から中国人を排除している人間たちや、彼らの手先(走狗=チャイナ・ハンドラー)が、《フェア・プレイしましょう》と要求する。
相手の腕をねじ伏せていながら、楽しくテニスをしましょうと呼びかける。その偽善を穏やかに批判する。魯迅の答えと孫文の答えとは、連結している。
[日本軍の阿片の秘密生産・密売] 日本のかつての中国侵略の軍資金のほとんどは、阿片密売によるものであった。この事実は、日本阿片研究史が明らかにしている。しかし、日中戦争に関する著作の多くは、この汚点を表現しないか、無視する。その汚点を指摘すれば、学会の世間は狭くなるかもしれない。
文体が正確に分かりやすく真実を表現していればこそ、その真実の承認を避け、「むずかしい」と嘯いて拒否する。利害関係が文体問題という隠れ蓑をかぶって身を隠しているのだ。しっぽが見えるのに。
[内省の声が響く] 現代中国では、麻薬犯罪に関わった者は極刑である。そうであるのは、日本軍の麻薬密売を含む麻薬被害史が中国に存在したからである。
国家による極刑に反対する本稿筆者は、はたと、ここで立ち止まり、考える。それでもなお、国家による死刑には反対する。しかし、それでもなお、《自分のこの反対は調子がいいのではないか》という内省の声が響く。その声は痛切で消えない。この痛覚は、南京虐殺記念館を観ているときの痛覚、そこを出て、思わず空を見上げたときの痛覚と同じである。
[富者は善人、善人は富者] 経済的剰余を、賃金を増やすことに使わずに、利潤として取得し、そのほんの一部を寄付することで、善人になる。《富者は善人である。善人は富者である》というカラクリも、相手を拘束しておきながら、《フェア・プレイしましょう》と呼びかけるのと同種の偽善である。この偽善者を国民が羨望の眼で崇拝する。これこそ、地獄図ではなかろうか。
[子供は知っている] この偽善者は、勤労者を貧者へと転落させながら、貧者は悪人になる可能性が高い人間である、という。豊かな親が「貧乏人の子供に近づかないように」と自分の子供に諭す。「朱に交われば赤くなるから」というのである。
子供は、親が子供の幸福を思って行う、その忠告で、不幸になる。子供の世界は「大人が振り下ろす卑しく鋭い斧」で切断される。
そのとき、子供は、親たちの世界の暗さ、大人の世界の恐ろしさを垣間見る。子供は明るく生きているのに、大人が暗い醜い世界を垣間見せる。だから、《子供は知っている》のだ。子供は大人が考えるよりも賢く、人間としての感受性がある。
[山田洋次の寅さん映画] 先に記した魯迅たちの苛烈な思想に対比できるのが、山田洋次監督の寅さん映画作品「男はつらいよ」である。
そのシリースの或る映画で、寅さんは中流家庭の人たちとレストランで会食する。寅さんは出されたスープを「ズルズルと音を立てて飲む」。その場面で、映画館の観客はほとんど、山田監督の狙いどおりに、大声上げて爆笑する。《いいねぇ、この笑いが楽しみで、寅さん映画を観るのよ》と「寅さん映画」の常連客は嬉しがる。寅さんの「下品」を嗤う笑いも、楽しみなのである。
[なぜスープは音を立てて飲んではいけないのか] 下積みの人間は、自分より下に、自分を見上げる人間を求める。魯迅がいうように、奴隷は、自分が奴隷主になるために、奴隷が必要なのである。食物を生産する者たちが、そのエレガントな貴族作法に従い、ズルズル吸う寅さんを嗤うのは、奴隷根性ではなかろうか。
[オ・リムジュンの慨嘆] 在日詩人・呉林俊(オ・リムジュン)は、日本の権力は、日本国民を籠絡(ろうらく)する技に驚くほど長けていると慨嘆した。日帝朝鮮支配50年(1895-1945年)の被害史を省みての発言であろう。
「下品な飲み方」をする寅さんを蔑む日本の観客は、その寅さんを見下して、嬉しく、幸福なのである。孫文が「自由とはとにかく食い物にありつけることである」と答えた痛覚は、「ズルズル音を立ててスープを飲む寅さん」が共有する。「寅さんの不作法」を嗤う観客には分からないだろう。
[呉林俊・辺見庸] 「音立て寅さん」を嗤う者たちは、自分の父・祖父たちの中国への出征・「三光作戦」行為など、知らない。寅さん映画がテレビで何回も再生されている時期に刊行された辺見庸の『1★9★3★7(い・く・み・な)』も読んでないだろう。「《令和》空騒ぎで明るい日本人」は、呉林俊が慨嘆したように、籠絡されていないだろうか。
魯迅・孫文が分からない限界内で嗤う、楽しい笑いである。分かったら、失せる笑いである。この限界問題は、文体の技術的修正の問題ではない。何を書くか、書かないか、自己変革するか、しないかの限界問題である。
[寅さん映画論は、いや、やめて] この「分かる・分からない」の問題は、たんなる映像表現の問題、文章表現の問題を超えている。第一、寅さん映画を論じること自体を忌み嫌う、上流趣味派がこの日本に現存するのだ。
或る会で、「寅さん映画の主人公は誰だろうか」という問題を本稿筆者が出したら、「そんな下品な話題、出さないでください。せっかくの会食が不快なものになるわ」と叱られた経験がある。
[寅さんは主人公ではない] 寅さんは映画展開の「狂言回し」であろう。真の主人公は、さくら、ひろしである。この二人のそばに、団子屋のおばちゃん、おじちゃんがいる。さらに商店街のひとびと、寅さんが「労働者諸君!」と呼びかける、団子屋の裏で「たこ社長」に雇われて働いている印刷所の工員たちが、二人を取り巻く。
[寅さんの《氷の微笑》] 寅さんのこの「労働者諸君!」は「冷やかし・からかい」である。本稿筆者はその「冷やかし・からかい」に、《だから寅さんは実社会の外部に属する法外な者(outlaw)である》というメッセージとともに、《氷のような冷たい微笑みを湛える資本家・貴族への「忖度代弁」》を直観する。
彼ら上層部人間は、労働者が嗤われ格下げされると得する人間である。彼らは内心、《5月1日メーデーなんていって、とんがるな》といいたいのである。その利害意識を寅さんが「工員からかい」で代弁する仕掛である。老獪な仕掛ではないか。
日本支配層の国民籠絡の仕掛は巧妙である(オ・リムジュン)。このことの実例を筆者は寅さんの「工員からかい」に直観する。上層部と寅さんは、労働者を嗤うことで連結しているのだ。
[日本を支える中小企業] 寅さんに「労働者諸君!」と揶揄された工員たちは、中小企業の工員である。実在する中小企業の工員たちこそ、現在の日本全体の生活を支えている。彼らを一人前の職業人に育てるのは、中小企業のおじさん・おばさんである。
社会を変えるような技術は、決して大企業からは生まれない。それを開発するのは、中小企業の人々である、と弁護士・鮫島正洋は証言する(『朝日新聞』2019年5月14日13頁)。
[巧みな国民籠絡システム] であるのに、その最重要事を知とうともしない世間は、大企業を憧れ見上げる。その頂点のさらに上に天皇がいる。「印刷所工員からかい」を楽しむ寅さんは、その世間と上層部の代弁者である。
法外人間(outlaw)・寅さんに日本を支える工員をからかわせて、沢山の観客に嗤わせ、工員たちを矮小化して押さえ込み、彼らが産み出す富を《こっそり・ごっそり》横取りし、最も利益を得るのは、最上層部の人間たちである。これは巧みな籠絡システムではないか。
[寅さんの不可思議な代弁] このようにして、実社会から疎外された寅さんは、実社会の上層部の利害を代弁する。上層部は表面では下降して最底辺にたどりつき、その最底辺は裏側で「忖度代弁」で上昇し最上層部とつるむ(トップ→最底辺→トップ)。
『資本論』のように日本社会も、このような最初と最後が楕円になって連結する、「原始的再帰関数(primitive recursive function)」で組織されている。存続する存在はみな、太陽系や資本主義のように、始元に再帰するこの関数で編成されている。
トップも最底辺も「法外の存在(outlaw)」である。寅さん映画は天皇制を暗黙に前提しているのではなかろうか。
[エレガンスと寅さんのミスマッチ] このようなことを、寅さん映画論で議論したかったのである。その寅さん映画論を、エレガントな方々に回避されてしまった。世間の虚飾な気品は、寅さんの利益代弁という不思議な仕掛を観ない。それを論じることを回避することで、気品は成立するからである。これも問題回避語「むずかしい」のポリティックスの一例である。
[貴族が寅さんを論じる] もし気品ある方々が「寅さん映画」について話すことがあるとすれば、それは「国民への寄り添い」というサービスである。慈悲からする行為である。それを国民は「畏れ多い、もったいない」とありがたがる。ここにも籠絡があるだろう。
最上層と最底辺が連結していることの認識は、筆者にとって痛覚をともなう社会認識であった。因みに『資本論』も、貴族の気品と貧者の悲惨との加害=被害関係を暴露している。拙著『資本論のシンメトリー』はこの点も詳述した。
[文体以前の「問題を不在にする」問題] 以上のように記してきた問題は、文体の技術的修正以前の問題である。真の問題は文体問題の外部に存在し、なにをどのように書くかの文体問題を規定する。どのように平易に書いても、「むずかしい」と門前払いする政治が待機している。こうして、文体は政治に連結する。
ヒロヒトの「そのような文学方面のこと(ヒロシマ・ナガサキの被爆のこと)は研究していないので、分かりません」こそ、「むずかしい」といって問題を回避するポリティックスの典型例である。
[表現問題の背後を観よ] 分かったら、とんでもない世界に入りこむことになる。その恐怖を直観し、《知りたくない、分かりたくない》と拒む。そのような問題を回避する表現が、「わたしには難しいわ」というエレガントな拒絶表現である。知りたくない世界から眼を背け、「むずかしい」と拒絶するから分からない問題、隠蔽する問題、そうするから、不存在になる問題が存在するのである。
[否定的な自己関連でこそ、真理にたどりつける] これは、文体をやさしく工夫することで解決する問題ではない。文体の技術的修正の問題のすぐあとに、それを超えた熾烈な利害関係、イデオロギー問題が控えている。
所与の世界は虚偽の世界である。自分も生きるその世界には、否定的に関連して(negative Beziehung auf sich)、真理にたどりつかなければならない。これが1839年の20歳前後のマルクスが作成した「エピクロスの哲学」と題する7冊のノートに記録された問題意識であった。
その問題は、数学的には「原始的再帰関数」の形態をとる。したがって、本稿読者にとって意外かもしれないが、「寅さん映画」と『資本論』は、内容で同質であるだけでなく、論理的に同型なのである。
[内田義彦と長洲一二] 最後に、「表現の問題」に関連するエピソードを二つ記す。内田義彦(1913-1989)および長洲一二(1919-1999)の表現論である。
「牙をもたないと、人間、生きていけないね」と内田義彦は、専修大学生田校舎(川崎市多摩区)からの坂道を下りながら、本稿筆者に語ったことがある。内田義彦が本稿筆者に真剣に迫った一瞬である。二人は講義のある日が同じだったので、通勤バスで多摩区生田の丘を同じバスで下ることも多かった。
[Eve knew Adam.] あるとき帰宅バスの中で、内田義彦は「《知る》にも色々な意味がありますね。たとえば、妻が夫に《わたし、あなたのことは全部、分かっているわ》といいますね」と本稿筆者に語りかけた。
筆者は「そうですね。その《分かっている》の、そもそもの始めは、『旧約聖書』創世記にある、《イヴはアダムを知った》でしょうか」と答えたら、なぜか、内田義彦は沈黙した。
[内田義彦の反権威主義・反序列主義] 内田義彦は、叙勲などで祭壇に飾られることを何よりも嫌った思想家であった。好んで対話を求めた。内田義彦は「社会を成すために、人間のおこなう表現という行為」を集中して考えつづけた。
落語の話術を研究している、と語ったことがある。これは決して意外なことではない。おそらく、中目黒の自宅から新宿の末廣亭に通って、落語の話法も研究したことであろう。
[森有正は哲学者でないのか] 内田義彦は、木下順二『夕鶴』の「つう」役の山本安英たちと一緒に、日本語による表現について研究した。内田義彦はその研究会で、出席している哲学者・中村雄二郎に向かって、「君たち日本の哲学者は、森有正の仕事を哲学として認めないのだろう」と直截に問うた。中村は沈黙したままであった。会場は緊張で張り詰めた。
哲学とは、いうまでもなく、ソフィア(叡智)を愛する行為(philo+sophia)である。森有正はパリの風景にフランスの叡智を直観し、感動のあまり身震いし、打ち震え、その感激を惑溺するかのように愛し記録した。文字通りの哲学行為である。これは本稿の主題・文章表現の典型例である。
といえると同時に、《パリに殉じた》とさえいえる森有正の生涯は、日本に住む家族にとってどのようなものであっただろうかという感慨も浮かぶ。
[『資本論の世界』執筆に数年かける] 内田義彦は、岩波新書『資本論の世界』を数年掛けて執筆した。内田義彦の軽井沢の別荘の近くに自分の別荘がある、或る研究者は、内田義彦がつぎの年の夏も別荘で、その原稿を改稿し続けているので、「まだ書き終わっていないのですか」と驚き伝えたと本稿筆者に語った。
同じ岩波新書の類書とは、この点で異次元の差異がある。内田義彦は、『資本論』とその読者が成す関係(世界)を架橋するとは、どのようなことかを数年かけて考え抜いたのである。
[社会を成して生きるとは] 権威にもたれ掛からず、群れをなさず、孤立でなく自立して考え、対話などで意見を交流する中に、社会が存在する。その社会形成の基盤なくして、社会主義など存在しようがない。その社会形成の基盤が、いま危うくなっているのだ。
[的確に・簡潔に] 本稿筆者は、恩師・長洲一二に「ものごとは言い過ぎてはいけない。表現はほどほどに。一回丁寧に言って分からないひとは、二回言っても分からないのです」と注意されたことがある。
恩師は「直截(ちょくせつ)な表現」を好んだ。《表現は鋭く、しかし1回で》ということであろう。
英語での表現もそうであったと聞く。よく、イグザクト(exact)という言葉を使って、ゼミ学生に語った。本稿にもつけた小見出し[***]は、恩師の超ベストセラー『日本経済入門』(1961年)のアイディアを継承するものである。
その『日本経済入門』を始めとして、平易な書籍を多く書いて、蓄えた資金で、雑誌『現代の理論』刊行を維持した。マス・メディアの重要性も熟知していた。
このリアルな実践を基礎に、神奈川県知事に立候補し当選し、県職員の同感・協力を獲得し、5期20年の県政(1975-1995年)を実践した。その内在的総括は、元副知事・久保孝雄編『知事と補佐官』(敬文堂、2006年)で行われている。
[社会改革に不可欠な堅実な実務能力] 恩師は知事になってから、笑顔で筆者に、「ぼくの行政は、《パンフレット社会主義》じゃないよ」と数回語った。
恩師は、実務に非常に長けていた。物事の勘所を素早く適確につかんだ。歴史の遠方まで透視する眼をもっていた。東欧・ソ連崩壊の直後、それを予見してきたように、「人類史は、とにかく、この方向に進むでしょう」と明言した。
筆者はそのとき恩師に、その数年前(1986年秋)の東独滞在経験を語ればよかった、といま悔やむ。文革最中の中国訪問のとき(1970年夏)、「人間を観てきなさい」と励まされた。
執拗にねばる内田義彦と、適確に素早く動く長洲一二。好対照のこのふたりを筆者は思い浮かべ、励まされる。(以上)
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://chikyuza.net/
〔opinion8685:190531〕
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