丸山衆議院議員の不当な発言は何を意味するものであろうか
- 2019年 6月 18日
- 評論・紹介・意見
- 岡本磐男知性
丸山衆議院議員(日本維新の会)は、この度北方領土のクナシリ島において日本人関係者に対して驚くべき異常な発言を行った。「北方領土は日本が戦争をひき起しても取返すべきものと考えられるのではないか」というのがそれである。これには今日まで、ロシアとの平和的な外交交渉を通じて北方四島の返還交渉に苦慮してきた日本の政治家・官僚のみならずこれに関係してきた人達は皆驚いたにちがいない。私自身も唖然としてあいた口がふさがらなかった。しかも丸山議員は東大法学部出身でエリート・コースを辿ってきたというではないか。一体東大法学部で日本の戦後の平和憲法について、どんな勉強をしてきた人なのだろうか。第2次大戦後の平和憲法においては、いくつかの理念の中でも戦争放棄の理念が高々と掲げられ、陸、海、空の軍事力の全てが廃棄されるべきことがうたわれているではないか。こうしたことは、日本の中学生でも知っている最も単純な平和憲法の知識なのではないのか。もっとも現在の自民党政権の政治家はこの平和憲法の理念に異議を唱え、憲法改正を目論んでいるとはいえ、現行憲法下にある国会議員達は、現行憲法を遵守せねばならぬ立場にあることはいうまでもない。
さらに現在は大国は核兵器を大量に所有しているから、そうした核兵器大国に対して、領土の返還を戦争によって求めるなどということは時代錯誤も甚だしいといわざるをえない。そんなことは子供でも分かる理屈である。丸山議員がなぜこうした発想をしたのかはどう考えても分からないが、よほど世界情勢にうとく、不勉強だという外はない。決して知識人であるとはいえないだろう。だがこうした非知識人を国会議員に選んだのは、外ならぬ日本の国民大衆なのである。
私はここで1941年の、第2次世界大戦が開始された当時の日本の社会情勢を回顧せざるをえない。同年12月8日未明に日本海軍はハワイ沖で真珠湾攻撃を行ったことがラジオで報道された。それは確かに日本の軍部が満州事変(1931年)以来、財閥と結託して着々と政界を抑圧して独裁的な軍国主義・全体主義国家を築きあげ支配層となってきたことの帰結であった。だがこの大戦争の開始にあたって日本の大衆の大部分は拍手喝采し戦争に協力することを誓ったのである。私の家族では父はサラリーマンであったが母と共に、また近所の人達と共に大喜びであった。まさに3年後には、米国空軍が日本本土の各地に対してB29の空襲を敢行し本土の大部分を焼け野原にする等とは夢にも思わなかったであろう。このように国民大衆を悲惨な境遇に追いやったにも拘わらず、戦争指導者達が常に云っていたことは、「戦争に勝利するか否かは、軍事力や科学技術力などではない。精神力だ。大和魂だ。これがしっかりしていれば、いつかは日本に神風が吹く。」といったようなものであった(もっとも日本精神を強調していたのは陸軍の方で、海軍は長期戦となれば敗北するとみていたようである)。私達中学生は、こうした弁舌を学校の校長先生を通じて、また軍事教練を教える配属将校を通じてよく聞かされており、信じこまされていた。
だが実際はどうだったのだろうか。日本は1945年の春以降、6月の沖縄戦、8月のヒロシマ・ナガサキへの原爆投下を通じて数10万人の民間人の死者を出しついに8月15日の無条件降伏にいたるのであるが、敗戦後に至って強く感じたことは、やはり戦争指導者達の見識のなさ、無責任性がひどかったという一言につきる。戦後かなりの年月をへて、私は米国のオレゴン大学の宿舎に1か月滞在したことがあるが、日本では教育研究設備が1位といわれる東京大学よりも大きな教育研究設備をもつ大学が、同大学を含めて多数存在することを知り、こんな国と闘った日本の戦争指導者の認識不足、知見の甘さをいやという程感じさせられたのである。世界情勢に通じていれば日本は米英の国々と闘うなどということは無謀きわまりないということが、容易に理解できたはずである。それ故戦後連合国側の立場から裁かれるようになったA級戦犯の人達を輩出したのも止むをえざることだったと考えている。
大戦後は、軍国主義、国家主義は廃止され日本は民主主義国家となった。だが民主主義とはいっても、それは日本の政治的側面に導入されたにすぎず、経済的側面としては日本は資本主義の社会である。それは、資本家と労働者の対立を生産関係とした階級社会に外ならない。にも拘わらず日本の労働者の大部分はこの点を十分に理解していない。その点の証拠としては、今日の日本人の8割から9割の人達は労働者階級に属すると考えられるが(中小企業者もサラリーマンも労働者とみなす)真に労働者のためを思って活動する政党はきわめて弱小なそれとしか捉ええないことである。私が本稿で批判したいと思うのは、知性なき労働者大衆である。戦争中も戦争指導者に抵抗もせず、そのいい分に唯々諾々として従った日和見主義的な労働者大衆である。
戦後は自民党政権の時代が大部分を占める。とくに約40年程以前の中曽根政権の時代には英国のサッチャー政権、米国のレーガン政権のような新自由主義の立場が強調され労働運動が弾圧され、労働者の立場は弱められるようになったが、それにも拘わらず保守党としての自民党は、一時的には勢力を弱体化させることがあったとはいえ、力強くたち直ってきた。現在の安倍政権もかなり右寄りで国家主義的だとの批判を受けながらも50%近い高い国民の支持を受けている。これは何故なのだろうか。それは労働者達の階級意識が稀薄だからに外ならない。自民党政権は表面上は勤労者大衆のための政策を施行しているかにみせつけながら、本質的には支配層としての財界人=資本家層の人々の意向を第一としていることの真相を大衆は見抜けないのである。
今日の安倍政権の真の意図の輪郭をえがくことは容易であるように思われる。それは第1には日米同盟の強化である。日本の安全保障において最も重要なことは、米国の軍事力に追従していくことである。米国の核の傘に依存していくことである。日本の自衛隊は米軍のもとにおかれ、米軍と共に行動するようにせねばならぬ、と考えている。それ故安倍首相の就任以来の発言は、日本という国家の主体性は全く感じられぬものとなった。日本国憲法の平和主義は明らかに捨てさられている。軍事力をもつ方が安全なのか、軍事力をもたない方が安全なのかについてもっと緻密な議論が必要となろう。私は世界の諸情勢についてもっと緻密な議論をしていかなければ、日本は戦争に巻きこまれる恐れがあると思うが、安倍政権は常に単純な議論ですましている。私はこれを知性主義の放棄であるとみている。そして労働者大衆も安倍政権に追従して知性主義を放棄している。
次に安倍政権下において各種の格差拡大が報じられている。最も基本的な要素は、労働者層における正規社員と非正規社員との割合において、前者よりも後者の方が拡大傾向にある半面、後者の賃金水準の方が低下傾向にある点が指摘されている。また首都圏のような大都市圏の住民が地方自治体に住む住民に較べて増大傾向にあり、後者は減少傾向にある点が指摘されている。さらに学問研究・教育に携さわる学者、教育者の分野の問題についていえば、相対的に研究費、教育費は削られる傾向にあり、海外の学者、教育者に較べて、日本の学者、教育者の地位、待遇は低下させられる傾向にあることが論ぜられている。
第3に私が最も懸念するのは、安倍政権が政治的に批判的な論調を展開するような知識人の知性主義を排斥するかの如き姿勢をとっていることである。それは、例えばマスコミに対する言論統制にみられることである。
私も最近は年金生活者であるので、新聞、テレビをみることが多くなったが、記事の質が低下しているなとか、下らない番組が多いなと思わされることが少なくない。戦時中の軍国主義時代には、ラジオでは軍人や兵士を賞賛するような番組が多かったが、これに丁度対応するように最近のテレビ番組では、芸能人が活躍する番組と、野球、相撲、ゴルフ等のスポーツマンが活躍する番組とが圧倒的に多くなった。芸能人やスポーツマンの番組が悪いわけではないが、国民の関心をこうした方面に向けるということは、支配層の人達、政治家にとっては、安心して身勝手な政治的追求を行いうる、ということを意味するものではなかろうか。芸能活動やスポーツ活動は、労働者大衆の知性の向上にさ程役立つものではないからである。
現在の日本社会は決してよい方向に向かって動いているとはいえない。否むしろ反対に最近生じている社会的な不祥事をみると、懸念さるべき病理現象もあり、悪い方向に向かっていると考えざるをえない。ここではそれら全てが労働者達の知性の欠如にあると糾弾するわけではない。そうではなくてむしろ労働者大衆に対してもっと誇りをもち知性主義を保持してほしいと鼓舞、激励したいのである。労働者こそが一方では搾取もされているとはいえ、他方では真の意味で社会の生産活動を支える中枢的存在なのである。今立ち上がらなければ、日本は永久に腑抜けの社会になってしまうであろう。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
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