北京天安門8964とワルシャワ8964――明治大学における亡命中国知識人と矢吹晋の議論を論ず――
- 2019年 7月 6日
- スタディルーム
- ポーランド天安門事件岩田昌征
天安門事件30周年
令和元年・2019年6月4日は、北京天安門事件30周年である。
その悲劇の歴史的意味を考える研究会が、駿河台の明治大学で二つ催された。明治大学現代中国研究所主催の「六四・天安門事件を考える」がその第一で、6月1日(土)に行われた。アジア記者クラブ6月定例会「天安門事件30周年、究明はどこまで進んだのか」がその第二で、6月26日(水)に開かれた。
前者の主講演者、コロンビア大学教授アンドリューJ.ネイサンは、「すべての権力を自らに集中し、党と社会に厳しい規律を課しつつ、習近平は中国共産党指導者が天安門事件の危機から学んだ教訓のもとで行動している。」と語る。教訓①は、国外の敵と共謀する国内の敵に対する包囲攻撃。教訓②は、社会的統制とイデオロギー的規律の下における経済改革実行。教訓③は、党の内部分裂を活用する敵による党解体。
後者の唯一講演者、横浜市立大学名誉教授矢吹晋は、天安門広場自体に流血殺戮はなかった、軍との衝突における学生・市民の死者数は公式発表の319人を大幅に超えないと思われる、最初の一発は学生・市民の方からであったとオーストラリアの諜報専門家は分析している、と熱弁する。そして、天安門事件以来の中国経済の高成長を強調し、電脳社会主義がアメリカ資本主義を超える見通しで、話を締めくくる。
ワルシャワ・カメニツァの野蛮な再私有化
北京の悲劇的8964のほかに、もう一つ楽劇的8964が在った。それは、ポーランドにおける全国的準自由選挙の実現であった。ポーランド議会の上院は100議席で、全て自由選挙である。下院は460議席のうち、35パーセントに当たる161議席が自由選挙である。ポーランド統一労働者党(共産党)と10年間地下活動を続けて来た独立自主管理労組「連帯」を母体とする市民委員会との選挙戦が展開され、その投票日が1989年(平成元年)6月4日、すなわちポーランドの8964であった。
ポーランド社会主義体制下の準自由選挙・制限付き自由選挙において、その完全自由な部分の選挙において、統一労働者党とその協力諸党の側は完敗。「連帯」の市民委員会側は、全候補者のポスターに候補者の顔写真と並んで必ず「連帯」指導者レフ・ワレサの写真を付けて闘い、完勝した。市民委員会側は、上院100議席のうち99議席を獲得、下院の自由選挙枠161議席のすべてで勝利した。
1989年9月には、非共産党政権のマゾヴィエツキ首相が施政方針演説を行った。その年の末にかけて、バルツェロヴィチ改革と呼ばれる急進的資本主義志向の諸法律が国会に提出され、人民共和国から「人民」が消された。
1990年7月、7600社の国有企業を私有化・民営化する法律が採択され、1990年12月、ワレサは「連帯」労組の議長を辞め、自由選挙で選ばれた――完勝ではなく、決戦投票にもつれこんだにせよ――初代大統領となった。
国有企業、より広く国有財産の私有化が断行される事になるが、ここで私有化と再私有化の問題を区別しなければならない。国有財産の起源に二種類ある。第一種は、社会主義体制以前に存在した私有財産の公有化の結果である国有財産。第二種は、社会主義経済が自身で蓄積し創造した国有財産。概念的にこのように分類されるとは言え、実体財産を観察すれば、第二種は第一種の基礎上に増設されたものも多い。第一種は第二種の活動によって維持・再生産されたものも多く、それがなければ、風雪の作用で無価値な残存物となっていたはずである。
ポーランド以外の中東欧諸国は、体制転換後の資本主義化政府が国家立法で再私有化、すなわち第一種の国有財産を旧所有者、旧所有者の相続権者、そして前者から財産返還請求権を買い取った者に現物で、あるいは代替的現物で、あるいは金銭や有価証券の形で返還する仕事を組織的に実行した。
ポーランドの場合、カトリック教会をはじめとする宗教団体が戦前に所有していた土地、建物については、国家の行政機関が直接関与して、整然と返還された。それに対して、戦前の有産市民や貴族階層の財産の返還は、再私有化法の立法を通してではなく、旧私的所有権の今日的相続権者達が個別に裁判所に訴えて、自己の所有権を確認してもらう方法をとる事になる。その時にモノを言うのが、戦前からの古い証文類である。
このような再私有化は、その結果、現に居住している所から、現に商売している店から強制的に退去するように新所有者から迫られる人達によって、Dzika reprywatyzacja、「野蛮な再私有化」と呼ばれる。正当な所有権者の許可なく、国有化された自分達の建物で仕事をしたり、生活している人々は、所有権者によってDziki lokator、「野蛮な借家人」と呼ばれる。
まさしく、生活の場における階級闘争である。この問題に関しては、ちきゅう座「評論・紹介・意見」欄の以下の拙稿を再読して欲しい。「工場労働者大統領ワレサの初仕事――総評事務局長のネクタイを切り落としてみせたのは誰か」(2019年1月20日)、「所有権者の人権こそ人権か――ワルシャワの住宅問題」(2018年3月30日)、「住居(すまゐ」をめぐる階級闘争――ブルガーコフ『犬の心臓』解説者に問ふ」(2018年2月18日)、
「ポーランドにおける再私有化の嵐――旧社会の復讐、一方的階級闘争」(2018年2月17日)
今年5月中旬にワルシャワの書店をまわって再私有化問題に関する書物を捜し求めた。「野蛮な借家人」の立場に立った文献に新しいものはなかった。すでに私が所有し読んでいた少数の書物しかなかった。
それに対して、「野蛮な再私有化」を文明的再私有化と観念する立場の書籍を10冊ばかり見付けた。そのうちの7冊は、法律家による専門書であり、再私有化の法的根拠と法的手続きを緻密に論じている。「野蛮な借家人」のために再私有化に対抗する法理を説く法律家は見当たらないようである。
残りの3冊は、『残存物 ワルシャワのカメニツァとその住民達』(Ostańce Kamienice warszawskie i ich mieszkańcy, Magdalena Stopa, Jan Brykczyński, DSH, Warszawa, 2013,2016)なる三巻本の写真入りエッセイ集である。「カメニツァ」とは、19世紀末から20世紀戦間期に建てられた古典的様相の石造アパートのことである。「カメ二」が石を意味するから、石造アパートと訳しておくが、実際は煉瓦造りである。集合住宅であるが、社会主義時代に多数建てられた大規模な集合住宅はブロックと呼ばれており、カメニツァと区別される。
全三巻で59棟のカメニツァに関して、戦前の所有者の子孫達がやっとのことで、再私有化=返還をかちとり、安堵して生活する様を主に描いている。なかには、旧所有者の相続権者がいなくなっていたか、あるいは相続権者から住民全体が買い取ってか、組合としてカメニツァを管理している様子を紹介しているところもある。
社会主義時代にカメニツァ内の大きな住宅を分割して住んでいた低所得者達を退去させた後にカメニツァに住む人々は当然有産者である。そんな人々の中にたった一人ポーランド統一労働者党の熱心な党員がいた。『選挙新聞』Gazeta Wyborcza(ポーランドの最有力新聞)の2007年12月22日にのったアグニェシカ・クヴィエクの死亡広告は次の如くであった。「医学博士 アグニェシカ・クヴィエク、82歳にて死す。ポーランド社会党員、次いでポーランド統一労働者党員、その成立から解散に至るまで左翼の理想に献身。ポーランド人民共和国が自分の祖国であること事を誇りとす。・・・・・・。」彼女自身が生前にこの死亡告知を手配していた(第一巻 p.64)。彼女は戦前からこのカメニツァのなかの住宅に生活していた。再私有化闘争を行う人達とは違う。
石造り賃貸アパートの再私有化問題では、その受損者は所得中下層勤労者であり、中上層知識人はむしろ受益層であったと思われる。郊外の味も素っ気もない社会主義的ブロックからワルシャワ中心地のカメニツァへ引っ越すチャンスが生まれたからである。
大貴族の宮殿再私有化闘争
ところが、大宮殿の再私有化問題となると、中上層知識人の職場に直接関係して来る。その実例を出そう。
第一の例は、大貴族ポトツキ一族によるポトツキ宮殿の返還要求である。正確に言えば、ワルシャワ大学のあるクラコフスキ・プシェドメシチェ通り15番地の土地2区画分とそこに建つ宮殿――現在、文化・国民遺産省が使用――は1940年代末の国有化によって不当・不正・不義に正当な所有者から収奪されたのであり、然るべき補償を伴って返還されるべきである、と言う要求である。
1990年12月20日にワルシャワ地方裁判所に提訴された。労働者出身ワレサがポーランド共和国大統領に就任する時期と前後する。宮殿は第二次大戦中に70から75パーセント破壊されており、文化省が国費で再建・修復した等の理由で、ポトツキ伯爵一族への返還は認められなかった。以後、ポーランド国内で最高行政裁判所に至るまで裁判闘争が展開された。
その結果に不服なポトツキ伯爵一族は、1996年にヨーロッパ人権裁判所に欧州人権条約第6条侵犯の廉でポーランド国を提訴した。提訴したポトツキ家の者は、スペイン国籍で4人、そのうち1人はフランス国籍をも、もう1人はポーランド国籍をも有する。2001年10月に判決が下り、ポトツキ家の主張は通らなかった。
私見によるならば、仮にポトツキ宮殿が1940年代末から1950年代に低所得勤労者用の大型集合住宅に改築されて、何百戸の常民勤労者家族が居住・使用していたとすれば、ワルシャワ市庁やポーランド国家は、彼等を伯爵家の要求から守り通したであろうか、疑問である。何百のカメニツァの場合と同じく、宮殿はポトツキ家に再私有化され、住民達はワルシャワ一等地の市場賃貸料を支払うように要求され、滞納が累積して、結局は、「自発的」に退去するか、執達吏によって強制退去させられたであろう。
ポトツキ伯爵家は、ワルシャワ市のヴィスワ河右岸プラハ地区の土地数十ヘクタールの再私有化・返還要求を1990年代末に行い開発業者に売却していた。現在2019年、建設予定の市電路線がその土地問題で難行していると言う。更に、ワルシャワだけでなく、ポーランド各地に大土地、中型宮殿、大邸宅を戦前に所有しており、夫々の場所で再私有化を進めている。
第二の例は、大貴族ブラニツキ一族によるワルシャワ郊外・ヴィラノフ宮殿の再私有化要求である。
ブラニツキ伯爵家は、ワルシャワとワルシャワ周辺に1930年代、当時のワルシャワ市よりも広いと言われる土地6623ヘクタールをヴィスワ河両岸に所有していた。ヴィラノフ宮殿やナトリン宮殿、そして7ヶ所余の大農場。
第二次大戦によって被害を受け、更に戦後の共産主義政権によるビェルト布告(ワルシャワ首都復興目的のワルシャワ地域土地収用命令)と全国的な農地改革布告によって大打撃を受けた。そして、大農場のあるものは農業大学になる。土地は「社会主義的」団地や郊外住宅街となる。また空港もそこに建てられた。宮殿は国立博物館となる。
旧所有者アダム・ブラニツキ伯爵は1947年に死亡。彼の正当な相続権者達は、ヴィラノフ博物館の収蔵品である宮殿の家具、絵画、工芸品、卓上備品、文書類、手書き文書、古印刷物、書籍等々6000点の返還を要求。これらは、ブラニツキ家の生活用品であったり、家族の想いでの品々であって、ワルシャワ復興や農地改革とは無関係であるのにもかかわらず、不当・不正・不義に国有化されたからだと言う理由のようだ。
勿論、上層知識人グループの国立博物館側は猛烈に反撥。
ヴィラノフ宮殿は大農地のど真ん中に在り、農地改革と無関係であるとは全く言えない。返還要求されている6000点の文物は収蔵品の三分の二になり、戦後の国有化以後、博物館が国費で修復維持、あるいは独自に収集したものも相当ある、と対抗している。現在、最高裁判所で審理中のようである。
2009年にブラニツキ家は、とうとう奥の手を出す、すなわちヴィラノフ宮殿自体の返還を要求するに至る。アダム・ブラニツキ伯爵の最年長子孫アダム・リビンスキは語る、「こんなことをしたくなかった。動産だけに関心があった。それについて文化相に会談の申し込みをしたのだが、法廷の解決にまかせるとの返事で・・・。」
ワルシャワのショパン空港に関しても、ブラニツキ伯爵の正統な相続権者達は、ポーランド国営空港とポーランド航空庁に対して空港が使用する30ヘクタールと航空庁が使用する1 ヘクタールの賃貸料を差し当たり10年分2億3500万ズロチ(1ズロチ≒30円)を支払えと要求した。2015年に空港側が勝訴するも、上級審は差し戻し、再審を命じ、係争中である。私=岩田は、その結果を知らない。
ワルシャワ市庁の土地再私有化問題担当室長は、「ブラニツキ家の請求諸案件数が余りに多いのでこの一族だけの不動産返還・再私有化請求案件を処理する特別室を設ける必要があるほどだ。」と語っている。
ここまで、両伯爵家を相互に無関係な貴族として描いて来た。しかしながら、1944年までヴィラノフ宮殿に暮らしており、赤軍が近付いて来たから危険であるとナチス・ドイツ軍によって宮殿からの退去を強いられたアダム・ブラニツキ伯爵の妻は、マリア・ベアテ・ポトツカである。ポトツキ家の出である。娘が3人あり、その一人アンナ・ヘレナ・ブラニツカ‐ヴォルスカだけが2017年現在生きている。1991年彼等彼女等の再私有化・返還活動がテレビ出演などの形で開始された時、労働者出身大統領レフ・ワレサは、アンナ・ブラニツカ‐ヴォルスカがこおむった不正・不当・不義に深く同情した。
上記の両伯爵家による再私有化努力に関する紹介は、(REPRYWATYZACJA NA PRYKŁADZIE GRUNTÓW WARSZAWSKICH, Łukasz Bernatowicz, LEX, Warszawa 2015, pp.100-104), (Spadkobiercy rodziny Branickich zagłosil ogromną liczbę roszczeń, Finału spraw nie widać, Małgorzata Zubik, Tomasz Urzykowski, Gazeta Wyborcza, 6.X.2017, 電子検索),(Braniccy kontra naród, Wprost, 19/2017, 7.V.2017, 電子検索)に基づく。
亡命中国知識人に問う
明治大学現代中国研究所主催の研究集会で亡命中国人知識人の発表に東ヨーロッパにおける国有企業・国有財産の私有化に関して肯定的評価がなされていたように思われる。研究集会では報告要旨が聴講者に配布されなかった。会場で聴いていた私=岩田の記憶によれば、それに対して、中国における私有化は私物化にすぎない、1990年代末に行われた国有企業改革では3000万人の大量失業者を出した、と極めて否定的な評価が示されていたように思われる。東ヨーロッパでは国民から奪ったものを「国民に返した」のに、中国では共産党が私物化している、と
私=岩田は、中国の経済社会の現実に関心があるが、調査研究している訳ではないので、中国については何とも言えないが、東ヨーロッパについては、亡命中国人の評価は、相当現実離れしていると感じた。
「国民に返した」の意味に、再私有化と私有化・民営化の二つある。中国人報告者はこの区別をしていなかったと思われるが、ここでは区別して考える。
国有財産の再私有化とは東ヨーロッパの場合、第二次大戦前の資本・土地・建物の所有関係の再現がその理想型となる。但し、ロシアは再私有化を行っていない。
このような再私有化が中国社会で実行されるべきと亡命中国人報告者は考えているのだろうか。1989年6月4日に中国の民主化運動が平和革命に転化して勝利した場合において、このような再私有化=旧私有財産の返還を実現すべきと考えているのだろうか。
東ヨーロッパの再私有化には、国家の法律で旧所有者への返還・補償を一挙一斉に短期間で実現する方式とポーランドのように個別的に裁判に訴える方式がある。中国の場合、どちらが中国の歴史的・地理的・社会的条件にかなった「国民に返す」やり方なのか。それとも、ロシアのように再私有化を行わない方が良いのか。
国有企業改革に伴う3000万人の大量失業者の放出の話を聞きながら思った。
ポーランドにおいても1990年に始まった経済改革=資本主義への移行が国有企業の解体と民営化を通して大量解雇を生み、1993年に280万から300万人の大量失業者が出現した。ポーランドの人口は4000万人であり、中国の約30分の1であるから、中国経済が3年間で一挙に9000万人の失業者をかかえる事に相当する。
ポーランド国内で吸収できない失業者は、2004年EU加盟をチャンスに西欧諸国に流入した。2018年英国に98万人のポーランド人移住労働者が住んでいる。ブレグジットの大きな原因である。その8割が18歳から35歳である。人口比に従って、中国人ならば3000万人に当たる。
東亜経済圏において英国に相当する国は日本であるから、中国がポーランド流の経済改革=資本主義化を8964民主革命の成功の結果断行したとすれば、日本に3000万人の移住中国人労働者が住むことになろう。日本国民が耐えられるであろうか。
亡命中国人報告者は、中国における私物化的私有化を非難していた。その非難に倫理的に正当な面が多々あると思われる。それでは、ポーランドにおける私物化ではない本物の私有化・民営化――再私有化ではない。念のため――を見てみよう。
例えば、1993年に国有企業の私有化・民営化のために国民投資フォンドNIF法が成立した。ポーランドの優良国有企業500余社を選出して、15の投資フォンドに分類して所属させる。15投資フォンドは、主に先進資本主義の諸企業38社が運営・管理する。アメリカ、イギリス、フランス、ドイツ、日本、韓国等である。例えば、第7投資フォンドは韓国のLG Fund Managementが、第13投資フォンドは日本の山一、Yamaichi Regent Special Projects Limited が。
このような資本主義企業への国有企業改造方式を中国にも適用するとすれば、中国経済の何千社の優良企業の相当多くが日本や韓国の有力企業の主導下で私有化・民有化されることになる。日本や韓国の諸資本にとっては獲物が自分から罠にとび込んでくれるようなもので、笑いが止まらないであろう。
外国企業に民有化・私有化過程を丸投げするようなやり方がポーランドで何故疑問もなく実行されたかと言うと、ポーランドの民主化政府の大部分が欧米の政治や経済の実態にうとく、またポーランド経済の現場に無縁な、かつ欧米の政治理念・人権理念に没頭する知識人・イデオローグに占められていたからである。
中国で天安門8964民主化が成功していたならば、同じような形の正直な資本主義化がただちに始まったのではなかろうか。鄧小平のように韜光養晦を演ずることは全くできなかったに違いない。
ポーランドは、1989年の体制転換以後、3年間経済水準の大幅な落ち込みを経験した。しかし、1992年以来、今日に至るまで、マイナス成長を記録する事なく、ロシア・中東欧諸国の優等生である。そのプラスの面についてはかなり知られている反面、上述したようなマイナス(と私=岩田には思われる)面については全く知られていない。
かつて1980年代、ポーランドの「連帯」運動がポーランド労働者大衆に支えられて、労働者が暮らしやすい社会を求めて発言力をつけていた時代、日本に「ポーランド資料センター」があって、運動の現実をほぼリアルタイムで伝達してくれた。ところが、「連帯」政権が成立し、上記のように「連帯」政権がただちに反労働者的・嫌労働者的政策をとり出すと同時に、1991年7月21日に解散してしまった。不思議だ。
矢吹氏に問う
最後になったが、矢吹講演に関して一言。「天安門の流血・虐殺」と西側メディアで叫ばれるが、それは事実ではなかったと言う。だからと言って、天安門近くの数か所で流血・虐殺があったのは事実である。公式発表でも北京以外の犠牲者を含めて319人である。
関連する歴史的事例を二、三考えてみよう。
1968年、チェコスロヴァキアの「人間の顔をした社会主義」を目指す民主化運動をワルシャワ機構軍(ソ連軍、ポーランド軍、東ドイツ軍、ブルガリア軍)60万がプラハに侵攻し、弾圧した。小さな衝突はあったが、軍が発砲して、市民が殺されることはなかった。
日本においても、1952年5月1日の血のメーデー事件では警察はピストルを水平使用したが、死者は1名(あるいは多くて4名?)であった。1960年6月15日では国会南通用門で私=岩田を含む学生デモ隊は機動隊と衝突し、死者1名を出した。
こうみると、1989年6月4日天安門事件の319人は大衆運動制圧行動としては余りに犠牲者が多すぎる。その後の30年間の経済高度成長のプラスによってそのマイナスが打ち消され得ない、一つの個性的歴史的事件である。その原因と結果が具体的に解明される社会状況の到来が望まれる。
その責任に関して言えば、政権側、すなわち実力行使側の責任がより厳しく追及されるのは当然であるとしても、学生・市民の理論的・イデオロギー的リーダーや現場指導者の責任もまた問われるべきであろう。死者319名は、両サイドの判断と誤判断の合成的結果であろうから。
矢吹講演では、その後30年間の高度成長を実現した事実がいわゆる「天安門の流血・虐殺」の歴史的意味であるかのように響く。私見によれば、そのような一面がたしかにある。だが、それだけでは不十分であろう。憲政社会主義・法治社会主義の模索追求がどれほど真面目に共産党によってなされているかが問われる。矢吹講演においてこのテーマは表面に出ず、電脳社会主義の高評価が会場に響いていた。日本経済もまた中国電脳社会(or資本)主義に従属するだろうと予言する。
たしかに、1989年、日本資本主義の絶頂期、金あまりのバブル経済の最中、天安門8964民主化革命が勝利して、ポーランド流の、東ヨーロッパ方式の経済改革・資本主義化の方向をとってくれたならば、ドイツ経済が東欧経済に君臨するように、当時の金満日本資本主義はこの天与の好機をのがさなかったであろう。そして今日、中国市場を席捲していることであろう。
令和元年・2019年7月2日
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://chikyuza.net/
〔study1051:190706〕
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