7・27水道橋韓国YMCAの渕上さんと正清さんの合同偲ぶ会に寄せて
- 2019年 7月 31日
- 評論・紹介・意見
- 長船青治
2011年3月11日にどうしょうもない武者震いを覚えたことを武術家の甲野善紀氏と共有したと一人かってに思っていたのだけれど、2015年か16年の3月に新橋の経産省前テント共同事務所でやった第一回かぼちゃ円卓会議で彼を招いてそのことを確認したかったのだけれど、何だか成り行きで彼のチャンバラ論と実技指導会になってしまった。多分、甲野氏はほんの少しはぼくのその時の気持ちが分かったのか、(事前に何通かメールでぼくが彼を招聘した理由を伝えていたので、)10名くらいいたのだけれど、ほとんどぼくにしか分からないような回答だったのだけれども、それでもぼくも武道家の端くれだったので一瞬の彼のある言動に反応したという記憶だけは残っています。 2011年の3月末に9条改憲阻止の会という名前を伏せた方がいいだろうという議長の渕上さんの提案通り、「東日本大震災緊急支援市民会議」と命名された1500キロ積みのパルシステム払い下げのコンテナトラックの確か2台目だったと思うが、それまでは国会前というか参議院議員会館前の歩道での座り込み抗議行動の大道具係りとして、読売ランド駅前の駐車場にあった小型トラックを、その後支援物資搬送行動の最終回の後に汚染されたコックピットをガイガーカウンターで測って廃車するまで、福生の現・非営利法人母と子のセンターの駐車場から、当時は四谷4丁目にあった第一次9条改憲阻止の会事務所まで全26回の支援物資搬送行動の前日までの物資調達の準備行動も入れるとおそらく2年間で50回以上出動したのではないかと思われます。
さて、一昨日の偲ぶ会で第20回頃の経産省前テントから群馬の伊香保の農作物の収穫行動に参加された城田氏がぼくを見つけて「もう誰も知らないと思うから、ぜひ登壇して当時のトラック行動隊長として何か話して、」と言われたのだけれど、その時、第2部の終了予定時限の午後8時を30分は過ぎていて、まだ登壇予定者が8人もいるので、ぼくは翌日の仕事が午前3時半には起きないといけないので遠慮して退席したのでした。さてくだんの行動隊長としては、お二人の思い出を1つずつこのサイトから書いて置きたいと思います。
まず渕上太郎氏が43才の頃に山梨県日中友好協会から雲南省とチベットまで全27回も由井格氏らと行っていたことを85才の由井氏から200名以上の宴会の最中に33年前の43才の渕上さんの写真が載ったリーフレットを見せて頂きながら立ち話で知ったのですが、誰から聞いたのか定かではないのですが、昔、シルクロードで自動車耐久レースをやっていたというのはまんざら外れてはいなかったようです。
小型トラックは3人乗りだったので、3月の第一回支援物資搬送行動は、交代運転要員で正清太一氏が手を挙げられ、そこに三上治氏が同行する意志表明をされました。
それで何処へこの25万円分の支援物資を持っていくかということでしばらく議論した結果、ぼくは最初から3・11の衝動的で抑えがたい武者震いからぜひ第一次避難所に届けたいという意見だったのですが、この2人の60年安保全学連の大先輩の意見を尊重して彼らの幾分冷静な判断から、いわき市市議で昔から反原発運動をやっている佐藤和良氏の紹介先の社会福祉施設と小名浜漁協の自由労組事務所に届けたのでした。はっきり言ってこの二回の大行動はぼくにとっては物凄い不完全燃焼となって、絶対にこのまま終わらせたくなかったので、どうしても緊急に第一次避難所に届けなければならないという気持ちと、福島県内の知る限りの自治体の災害対策本部にいくら問い合わせをしても、何故か彼らの守るべき自治体毎の市民と町民や村民の「一次避難所」の場所を教えてくれなかったのかぼくにとっては今思い出しても悔しくてなりません。
そのことよりも本当にぼくが求めていたのは、3・11の夜の東日本東北太平洋沿岸部の引き潮に呑みこまれていった多くの家屋の屋上から海岸線のどんどん小さくなっていく家々の小さな明かりに向かって声が枯れるまで「おーい、おーい。」と呼び続けただろう人々に対して、本当は小型トラックではなく、ぼくが小学生の時に瀬戸内海の島々の海水浴場で乗った伝馬船を操ってその夜の海岸線を目指すべきだったのだ。
米海軍空母の友達作戦はその夜如何していたのだろう。
海上自衛隊はその夜の海岸線に出動したのだろうか。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://chikyuza.net/
〔opinion8861:190731〕
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