ドイツ通信第143号 7月20日、カッセルの反ネオ・ナチ抗議デモ――市内からネオ・ナチが排除された日
- 2019年 8月 1日
- 時代をみる
- T・K生
7月20日(土)は、ヒットラー暗殺未遂からちょうど75年周年目に当たり、直前から、メディア、マスコミで歴史を顧みる記事が書かれていました。私個人は反ナチ抵抗運動といえばショル兄妹を中心とした「白ばら」抵抗運動が記憶に焼き付いていますから、あまり気にかからなかったのですが、「つまずきの石」を共にしたユダヤ文化センターから、同日に行われる反ネオ・ナチデモへの呼びかけメッセージが届けられ、それによってこの日のデモの意味を理解することになりました。
ネオ・ナチグループが、ヒットラー暗殺未遂の日に合わせて、挑発するかのように集会とデモを申請したというのです。カッセル市からはデモ禁止の緊急訴訟が起こされますが、直前まで裁判所の判断が出ません。それに対応した市民側のネオ・ナチに対抗する集会とデモが呼びかけられた次第です。
そこまでの経緯は、以下のようなカッセルでの政治家射殺事件が発端になっています。
7月2日深夜の0時30分に、カッセルから約10㎞ほどいった町に住んでいる知事(注)(CDU Walter Lübcke)の死体が自宅テラスで発見されます。ドイツの政治状況が状況ですから、「何が!?」とすぐにその意味するところを理解しようと、真相解明まで連日緊張して、ニュースに耳を傾けていました。時間がたち、日が経ってもしかし一向に事件の全貌が公表されません。市民の中に不安感が広がるのが伝わってきます。また警察側では、捜査経過が漏れないように情報の管理統制を布いている節が見えてきます。
ネオ・ナチのメンバーによる犯行と判明したのは、事件から1週間位経ってからでした。頭部を銃弾で撃ち抜かれたのが、死因と発表されました。1945年以来、初めてのネオ・ナチによる政治家暗殺事件になりました。市民の背筋が凍るほど冷たくなった一瞬でした。
2015年10月14日、難民問題の政治議論で意見が賛否両論に分かれ、相互が激しく対立していく時期に、知事は難民受け入れに向けた市民の合意を取りつけるべき説明会を開きました。800名近くの住民が結集してきます。他方、極右派、ナショナリスト、ネオ・ナチの十数人が最前列に席を取り、知事の説明にヤジを飛ばし、怒声を上げます。それに対応して彼が、「価値」の重要性について訴えます。人間の生きる・生存への価値、自由への価値、それはまた民主主義への価値、そういう意味を含めた用語だろうと私は理解していますが、
最後に、
「この価値を体現できず、同意できない者は、いつでもこの国を去ることができる」
と結びます。これほど明快に、難民救済の意味と、反対派への批判を明言した発言を、私は聞いたことがありません。それゆえにネオ・ナチ等難民受け入れ反対派には、顔面への強烈な一撃になったことは間違いありません。
実行者が当日、この場にいたのかどうかは、未だ調査中でわかりません。しかし、知事の発言を入手していることは事実です。
ネオ・ナチへの批判と怒りが全ドイツで噴出していきます。反ナチ包囲網にいたたまれなくなったナチ・グループが、「メディアによる(反ナチ?筆者注)扇動、中傷、言論抑圧反対!」のデモを申請し、市内にある県庁所在地を目指すことになります。それも、ナチ暗殺未遂の7月20日に合わせて。これほどの歴史への侮辱と挑発はないでしょう。
(注)日本と制度が異なりますが、政治構造を分かりやすくするために〈県知事〉の用語を使用しておきます。
7月20日、アルバイトをしていた部屋から下に見える通りを眺めました。10時半過ぎになっていたでしょうか。通りを自転車で走る人たちの流れが途切れなく続きます。当初は、「今日は土曜日だからか?」と意味が分かりませんでした。しかし、ある目的に向かって、一定の方向に流れていくのがわかります。進行方向にはカッセル中央駅があります。11時からそこで、反ネオ・ナチの集会とデモが行われます。
私は早めにアルバイトを切り上げ、自転車でその人たちの後を追います。女性、年配者、家族連れ、すべての人が自転車で目的に向かいます。この日はカッセルの市電、バス等の公共の交通機関が朝から完全に運行停止されました。
30年前に150マルクで手に入れた競技用タイプで、見かけはいいのですが、ペダルをこいでもこいでも一向に前に進まない我が自転車に苛立ち、汗をかきながら中央駅にやっと到着しました。
2500人近くが既に結集しています。第一陣は、10時に町の中心部に向け出発し、ナチの結集と集会を阻止する行動に移っているということです。200以上の呼びかけ人・グループから、抗議集会が実現されているという説明に、拍手と歓声。
知り合いと顔を合わせ挨拶をしているうちに、デモが出発します。駅から下っていく7‐8m位の幅の道路がデモの参加者で埋め尽くされました。
十字路に到着した時、進行方向の川の上に架かる橋の上には警察官が阻止線を張っています。ここにナチ・グループのデモ行進が予定され、対抗デモとの衝突を避けるためです。デモはその警察の阻止線まで進み、橋を占拠しました。十字路もデモ隊で埋め尽くされました。
野球クラブの友人が連れ合いと一緒に来ていて、二人は、「あんな連中(ナチ)の顔を見たくもない!」というので、私たちは市内に向かう別のコースに参加していきました。
デモの途中、二人と久しぶりに会ったことから、いろいろ話をしながら、先生の連れ合いは、「ドイツはもっと、もっとこうした運動を起こし、続けなければならない」と語気を強めて話してくれました。
市内に向かったデモは、別の吊り橋に向かい、市内への進入口を塞ぎます。
ここで私は、デモ・コースの意図が読めました。
10時の先発デモがカッセル市内を占拠し、駅前の集会でナチのカッセルへの電車での乗り入れを阻止し、川に架かる二つの橋を同じく占拠することによって、市内は完全にナチからの「解放区」となっています。
ナチ・グループの集会は、町の傍を流れる川(フルダ川といいますが)の反対側で開かれる予定でしたから、それによってナチは市内から完全に締め出されたことになります。他には市内乗り入れのルートがありません。
デモ移動中はナチの動向がわからなかったのですが、夜のTVニュースと翌日の新聞報道で、全部で120名のナチが結集しただけで、それも2時間遅れて集会とデモが行われたといいます。
ナチ反対デモの参加者は、TV,新聞報道では全部で一万人だったと報じられていました。
7月20日、ナチをカッセル市内から締め出したデモは、今後も各地で続けられるだろうと思います。
友人たちとは、「また、デモで会おう」といって別れてきました。
私がデモから離れて市内に行くと、二人のネオ・ナチがさ迷い歩いています。市内に阻止線を張られ、どこに向かえばいいのかわからず〈迷子になったナチ〉です。その二人をデモ参加者が追及、弾劾します。ナチは、抵抗できずにコソコソと逃げていきますが、川の反対側に行くためには橋を渡らなければなりません。
どういう顛末になったのか知りたいところです。
ネオ・ナチの最近の動向(補論)
この日、集会とデモを行ったのは、「右翼党」(Die Rechte)という、ゴリゴリの、しかも軍事派のネオ・ナチ組織です。120名の参加者数ですが、軽視、過小評価することができないのは、以下のような理由によります。
90代半ばころから、ネオ・ナチが背広とネクタイに着替えて社会の中に潜伏していった後に、新しい右翼運動が始まりました。右派イディオロギーのシンクタンク(Thinktank)を中軸にイメージをモダン化して、様々なグループがそこに結集します。トップ・ダウンの厳格な組織構造から離れて、幅広く横に広がる、彼らの言葉でいえば「モザイク・ネットワーク」が形成されました。この言葉を「パッチワーク」に置き換えて理解すれば、彼らのネットワークがより明確に理解されるでしょう。それによって、インテリ、理論家がイディオロギー面を担当し、極右派、右派ポピュリスト、ナショナリスト等のグループが連携して政治活動をすることが可能になってきました。結果は、社会中間層に足場を固めることに成功します。それを党派として代表しているのがAfDです。
しかし、カッセルに登場した「右翼党」のように従来のネオ・ナチが、同じく数十、数百名規模の動員力を温存しながら、今なお各地、各町に組織を維持しています。彼らのシンボルである剃り上げ頭で、黒のジャンパー、そして編み上げ長靴を身にまとったネオ・ナチが、こうして公然と登場してくることになります。危険なことは、彼らが武力・軍事派を代表していることです。
メディアの報道(注)では、彼らは、「国家社会主義を今こそ!」のシュプレッヒコールを上げながら、横断幕には、〈Gegenofenssive〉の文字が読み取れるといいます。正確には、〈Gegenoffensive〉(反撃)と書かれるべきところ、〈Ofen〉(開く)+〈SS〉の語呂合わせで、巧妙にナチ宣伝をしています。「言論の自由」を論拠に許可されたネオ・ナチのデモですが、こうした語用操作に、果たしで妥当な判決であっただろうか、と記事は疑問を呈しています。
法律で禁止されなければ、直接の市民の行動と反撃が唯一の可能性です。7月20日のデモの意味が、ここにあるだろうと思われます。
(注)「FR」紙2019年7月21日付
政治家への暗殺未遂は、これまで何回も起きています。一番近いところでは、2015年10月、ケルンの女性市長(Henriette Reker)が、極右派のメンバーにナイフで喉を割き切られた事件があります。幸い彼女の命は救われましたが、市長、村長、地方の政治家への暗殺脅迫は、年々増えるばかりで、当事者のみならず家族、子供にもおよび、それがために辞職した市長さんも出てきているのが現状です。
これまでの衝撃的な事件は、NSU(「NS地下軍事組織」)と称するナチ・グループの外国人を対象にした連続殺害事件です。2011年に二人の実行犯が自殺したことから、この事件が明るみになりました。2000年から続く9名の外国人と一人の女性警察官の命が奪われた、実に不明な殺害シリーズでしたが、ここでその一部が判明することになりました。カッセルでも一人のトルコ人が、秘密情報局の協力者が同伴した現場で殺害されています。
生き延びたグループの一人の女性メンバーの裁判が続いていましたが、事件の全貌が明らかになったとはいえず、NSU及び内務省秘密情報活動の暗部を残したままです。
私個人の経験ですが、連れ合いが病院(クリニック)を始めた当初、90年代の初めでネオ・ナチの外国人、および住居への襲撃が連続して続いていた当時、患者に極右派のメンバーがいたのでしょう。私の存在を嗅ぎつけてか、翌日には郵便受けに「NPD」のビラが投げ込まれていました。それ以降、「原発通信」へは「T.K」のイニシアルで皆さんに報告を書くことにしました。二人の身を守るためです。それは、後にアラブ、中東等、戦争危険地域からの報告を書くときの、自分にできる最低限の安全保障になるだろうと考えるからです。
そうは言っても、今年はトルコ入りを諦めるしかなくなりました。現状では、リスクが大きすぎます。別のルートでトルコの友人に会ってきます。また、報告を書きます。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://chikyuza.net/
〔eye4625:190801〕
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