私が会った忘れ得ぬ人々(11) 前田常作さん ――絵は「行」であり「巡礼」
- 2019年 8月 3日
- カルチャー
- 前田常作横田 喬絵画
太平洋戦争敗戦の日から半月前の一九四五年八月二日未明、北陸の富山市を百数十機に上る米軍のB29爆撃機が襲った。二時間余の焼夷弾集中攻撃で市街地が全焼。約十一万人の罹災者を生み、死者が約三千人、負傷者は約八千人に上った。政令指定都市(広島など二十市)以外の地方都市では原爆被災地・長崎を別にすれば、全国で最悪の被害を被った。
炎上する富山市街から十㌔余り南の田舎にある親類宅に、二つ年上の姉と私(当時十歳)に二つ下の弟の三人が疎開していた。両親や兄二人の身を案じつつ(幸い皆無事だった)業火が燃え盛る様を只々見守るしかない。子供心に彼我の科学技術力の圧倒的な差異を嫌というほど感じさせられ、日本はなんでこんなバカな戦争を始めたんだろう、と訝しく思った。
空襲の翌々日、姉・私・弟三人で空襲で不通になった富山地方鉄道(富山市~立山山麓を結ぶ私鉄)の線路伝いに片道三時間ほどかけて富山市に到着する。市街地に入った途端、人体を焼く火葬場そっくりの何とも言えない嫌な臭いが充満していたのが今でも忘れられない。結局、両親や兄たちの避難先が判らぬまま、その日はすごすご引き返すほかなかった。
富山県北部・入善町出身の洋画家・前田常作(敬称略)は、この空襲の一か月前に富山師範に在籍のまま徴兵検査を受け、市内の歩兵第三十五連隊に入営。地理に明るいからと空襲当夜は「市民誘導斑」に回され、市内の繁華街から市民を安全な地帯へ避難させる役目を負う。『朝日新聞』記者当時の私は彼を二度にわたりインタビューし、こんな証言を得ている。
――無差別じゅうたん爆撃で市内一帯が火の海。水に浸した筵を小脇に抱えて人々の避難誘導に当たった。避難先の神通川河原では、背中に火がついて燃える病気の人や、水面を流れる数々の死体、泣き叫ぶ親子らで地獄絵さながら。おばあさん二人が地べたに座り込んで「ナンマン、ナンマン(南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏)」と必死に念仏を口ずさむ。やはり応召した師範同級生の一人は直撃弾を受けて即死し、もう一人は重傷を負っています。
富山県はよく「真宗王国」と言われるが、彼の亡父は真宗大谷派(東本願寺派)の檀家総代を務め、姉は真宗の寺に嫁いでいる。子供の頃から絵を描くのが好きで画家志望だった彼は戦後上京し、苦学しながら武蔵野美術学校を卒業。‘五五(昭和三十)年頃、広島で被爆~自殺した作家・原民喜の遺作『夏の花』を読み、富山空襲の折の記憶が蘇る。
――痛手を負った人間が光を求めるように踠くさまを前衛的に描ければ、と思った。
鎮魂への祈りを込めた抽象的なフォルムが作品『殖』シリーズに結実する。‘五七年、第一回国際青年美術家展で大賞を受け、翌年フランスへ留学が適う。パリで出会ったフランスの美術評論家から「あなたの絵には曼荼羅がある」と指摘された。曼荼羅はサンスクリット語で、曼荼は「心髄・本質」、羅は「悟る」の意である。そんな古色蒼然としたものではない、と初めは反発した。が、パリのギメー美術館へ通い、インドやネパール・中国・インドネシアなどの仏画や曼荼羅を見学するうち、考えが変わる。
「祈りが込められ、深遠なものが描かれている絵に一条の光を見出し、人々に感動を与えるものこそ美術の根源ではないか」と、思い至る。前田は「密教は深い教えで、悟らない人に悟ってもらうには図画を借りて示すほかない。空海は『請来目録』に、そう述べている。曼荼羅は宇宙の神秘な悟りへのいわば芸術的な視覚教育。いま流に言えば、テレビの考え方で悟りの境地を示したようなもの」と言う。
が、彼は日本に帰国後、自分なりの「曼荼羅」をいざどう描けばいいかの方法論を巡り、悶々とする。一年余りして、啓示を受ける。かつての日本人は『観音経』を読み、そこに生命の神秘を感じた。『般若心経』を読み、煩悩を離れる声明の知恵を見た。なぜ『観無量寿経』を、なぜ『法華経』や『観音経』などの仏典を自分は読もうとしないのか、と自問する。
中でも『観無量寿経』の観想の方法に惹かれた。西欧流の超現実主義的発想に近い、と感じたからだ。<恐ろしい地獄にも似た牢獄で、マガダ国王の后・韋提希夫人は釈尊の勧めに従って瞑想に耽り、光明燦然と輝く極楽世界を目の当たりにする。> 前田は毎朝、お経(『般若心経』ないし『理趣経』『観音経』の中の一つ)を上げてから仕事に入るのを日課と決め、絵日記を毎日描くことを「行」として己に課す。
――お題目や念仏・光明真言を唱えると、胸の中がすっきりし、集中力が湧いてくる。
経典や仏典が死後のことを説くのは、あくまで方便。根本は一瞬の生命をどう見つめるか。仏教は優れて現実的で、極めて現代的な教えです。東アジア唯一の仏教国に生きる我々は、もっと経典や仏典の教えを見つめ直す必要がある。
前田は四十代後半の頃、「絵を描こうという心は祈りの心につながっている」と西国巡礼の旅を発心する。熊野・那智の滝の傍らの那智山・青岸渡寺を手始めに、豊山・長谷寺、深雪山・上醍醐寺、新那智山・観音寺、補陀洛山・六波羅密寺、青葉山・松尾寺など西国三十三カ所の観音巡礼の旅をほぼ十年がかりで達成する。‘八九(昭和六十四)年、富山市で開いた回顧展で「西国巡礼シリーズ」の作品三十九点を初公開。ふだん美術館ではあまり見かけない素朴な感じのお婆さんたちも来場し、これらの作品に涙ぐんだり、手を合わせたりする姿が目立った。前田はこう言う。
――参拝で隣合わせたお爺ちゃんが、扉の向こうの観音様に「お参りさせてもらって有難うございます」と、お礼を言っている。目から鱗が落ちた。僕は感謝していないもんね。
――巡礼の原点は、見えない世界が見えるようになること。芸術も同じ。見えないものを見えるように表すわけだから。
彼は密教の観法にある「入我我入」という言葉を大切にした。己が本尊に入り、本尊が己に入る。自分と本尊とが感応道交し、一体になる素晴らしい瞑想の法である。「両界曼荼羅を見ていると、入我我入が的確になされて描かれた感じがする。筆が生きているとは、描く対象と描き手が一体になっていること。真に素晴らしいものと出合った一瞬には無我夢中になって描く。何かが乗り移ったように対象との境目がなくなり、溶け込んでいく。そうした瞬間に出合うことが制作の至上の喜びなのだ」と説く。
代表作の一つ「観想マンダラズ・シリーズ」では、画面下方に何百もの小さな仏像が遠近を付けて千体仏のように整然と描き込まれ、上方に大きな如来像が浮かぶ地平線に向かって、眩い光の波のように連なる。青っぽい色調の、どこか瞑想的な雰囲気を湛えた大画面は、壮麗な宇宙空間とその生命・霊気を感じさせる。
――北陸の暗い風土に育ったから、光に惹かれ、人間の内にある光明を描き出したい気持ちが人一倍強いのでしょう。私にとって、絵を描くことは「行」であり、「巡礼」なんです。
こうして「曼荼羅の画家」と呼ばれるに至った前田は‘七九年に日本芸術大賞、’八九年に仏教伝道文化賞を受賞。京都市立大教授~武蔵野美大教授~同学長~同理事長を務め、二〇〇七年に八十一歳で亡くなった。
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