2019.ドイツ便り(10)
- 2019年 8月 10日
- カルチャー
- ちきゅう座会員合澤 清
ハーデクセンはこのところ雨続きだ。正確に表現すれば、天候不安定である。stabil(安定的)の反対語としてlabilというのがあるが、ドイツ人は日常的には使わないのか、我が家のP女史もそんな言葉は知らないという。インテリのWさんに尋ねたら、Pさんは知らないかもしれないがそういう言い方もあるという。
早朝の日課である散歩は、一日だけ雨にたたられて休んだ以外は欠かさずやっている。実に爽快である。大抵は半そでのTシャツの上に、長袖の厚手のシャツを着こんでいる。それでも歩き始めてしばらくは寒い。
毎朝、途中ですれ違う二人の小母さん(60代か?)がいて、いつも立ち止まって挨拶をし合うのだが、この方たちがすごく元気だ。一人は大抵は半そで一枚、もう一人も長袖の上から薄手のカーディガン姿で、いつでも暑いといって汗をかいている。「寒いですね」という度に、「ナイン」と言って笑われる。
散歩するだけでも、何人もの人と顔見知りになれる。スーパーに行けば、また店員さんたちとも顔見知りになる。気軽に「ハロ」とか「モーゲン」とかと挨拶すればよい。ドイツ人は挨拶好きであるから、すれ違っても挨拶される。
人と知り合うきっかけは、いつでもまず挨拶からということはドイツでも同じだ。何度か挨拶して顔見知りになれば、「どこから来たの」とか「どこに住んでるの」「どことかはいいところだけど、もう行ってみたか」などと話しかけてくれるようになる。
サツマイモの様な赤大根 ゲッティンゲンの薔薇園にて
<水曜懇談会―Jさん>
Jさんと知り合ってから、もう10年以上になる。性格は穏やかで、優しくて気まじめだ。この日は、生憎もう一人のWさんが郷里のハンブルクに帰ったため、彼が一人でやってきた。先ほど郷里への休暇(Urlaub)旅行に出掛けた彼女(Nさん)を駅まで送ってから来たとかで、少し遅れた。9月の頭に、今度は二人で再度Urlaubをとる予定とのこと。
さっき電話入れたんだけれど、と言い訳していたが、こちらはそんなことは一向に構わない。むしろ、わざわざ私達に合わせて毎週付き合ってくれることに心からの感謝と申し訳ない気持ちをもっている。そしてさっき、確かに私の携帯が鳴っていたようだが、気付くのが遅くてスイッチを入れた時には切れていたのである。
Burg Schenke(こういう雰囲気の大衆居酒屋)
この一週間の間に、どこかへ旅行したかどうか尋ねられた。いや、先日みんなで行った居酒屋・城(Brug Schenke)へ一度行ったぐらいで、ほとんど家の中で本を読んでいた。/Burg Schenkeはいいところだったね、なかなか雰囲気がよかった。ところで、どんな本を読んでるの?/先日話したマチエの「フランス革命」の本だ。何とか最後まで読み切ったよ。/何冊あるの?/全部で3冊だ。/それはすごい。もう旅行はしないのか?/いや、先ほど駅で「ニーダーザクセンチケット」を買ったので、今週の土曜日にヒルデスハイムかゴスラーにでも出かけようと思っている。ヒルデスハイムは、市庁舎(Rathaus)前の広場が素晴らしくて、僕は大好きだ。ゴスラーは彼女(連れ合い)が行きたがっている。・・・
この後、彼が推薦したいという場所をどこだかあげていたが、生憎ニーダーザクセン州以外のところだったようで忘れてしまった。
もう一つの話題は、先日彼の故郷のKarl Stadt(カールシュタット)を訪ねたという話から、僕らのちきゅう座の仲間がすぐ近くのLohr am Mainに以前勤めていたという話をしたことがあった。彼自身、この町のことも良く知っていて、どこの会社にいたのか、何年ごろの話か、と尋ねられていた。
ちきゅう座のFさんにメールで聞いたことをメモして彼に見せたら、嬉しそうに「ここはこの周辺では大きな会社だ。Lohrは綺麗な街だから、君も一度行ってみたらよいだろう」という。
この日、彼は車で彼女を駅まで送って来ているため、帰りも当然車のはずだ。われわれはいつものように「わんこビール」(私は2リットル、彼女は1リットル)とシュナップス(ウオッカなどの強い酒)を一杯ずつやったのだが、彼はどうするだろうと見ていた。彼も平気でビール1リットルとシュナップスを飲みほした。車なんだろ、と尋ねたら平気で「そうだよ」という。
ドイツ人は確かにアルコールには強い。Wさんになると、平気でわれわれと同じ程度に呑んで、車で帰る。その話をしたら、「でも彼は先日飲酒運転で捕まったよ」といって皆で大笑いした。
<再びマチエとミシュレのフランス革命論>
「ドイツ便り」という報告とは全く無縁な話題で恐縮なのだが、前回書きかけたことをもう少し続けさせていただきたい。
マチエの『フランス大革命』が岩波文庫で出版されたのは、1958年(上巻)、59年(中、下巻)である。正直な感想では、所々意味不明の個所がある。あるいは前後の脈絡がうまくつながらないばかりか、逆の意味になって混乱している個所もある。
私は残念ながらフランス語は全くできないので、正誤の判断も出来ないが、出来ればこの名著をどなたかが新訳で出して頂きたいと願っている。
ミシュレの方は、中央公論社の「世界の名著」の中に入れられているので、こちらの訳の方がかなり新しい。手元のメモでは、1979年出版となっている。
しかし、二人の生年は、ミシュレの方がかなり年長である。その所為だろうが、マチエの史料はミシュレに比べてかなり豊富で精確である。新たに発見された史料を使って、従来のフランス革命史を再検討していたらしいことが判る。
ミシュレは、その「人民史観」-桑原武夫はこの本に「人民思想家ミシュレ」というまえがきを書いている-を前面に出して、史料を整理し、解釈している。それに対してマチエは、「階級闘争」という考え方の上に立ってこの革命を解読しようとしている。
ミシュレの立場に最も近かったのは、当時「寛大派」とも呼ばれていたダントンのグループである。つまり、貴族政治家もブルジョアジーも民衆も「フランス」という旗の下に一体となり、諸外国とも講和を結んで、一定の民主主義的平等の獲得(政治的平等)という地平で満足しようというものであろう。言い換えれば、「ブルジョア民主主義革命」でとどめるべきだったのだというのがミシュレの主張である。そうすればその後の「ブリュメール18日」の悲劇は起きなかったはずだ、というわけである。
この視点から、マラーもサンジュストも、クートンも、そしてロベスピエールすらも容赦なく批判される。
これに対するマチエの立場は、フランス革命が「階級闘争」としてどこまで推し進められたのかという視点にある。結論的には、「ブリュメール18日」の反動は、「階級闘争」の不徹底さに起因しているということになる。サンジュスト、クートン、ロベスピエールの「三頭」は、ある意味でこの事を意識し、革命をそこまで推し進めようとしていたのであるが、不幸にして人民大衆の意識はその地平にまで達していなかったという。
「恐怖政治(テロル)」の位置付けも、従って大いに異なる。
マチエによれば、この「三頭」は民衆の意識をそこまで高めるためには、強引なやり方ではあるが「恐怖政治(テロル)」を維持し、独裁をやるしかないと考えていたという。
一方ミシュレは、「恐怖政治(テロル)」に嫌気がさした民衆、政権内部の権力闘争、それに乗じた貴族政治家とブルジョアジーの策動による革命の崩壊、「テルミドール9日」の事件と、それに続く「ブリュメール18日」の反動という図式である。
「(テルミドール9日という)道を通って、われわれは巨大な墓場(ナポレオン体制)へと赴いたのである。この墓場にフランスは500万人の人々を葬った。」(ミシュレ)
「この共和国は、戦争と多くの苦しみから生まれ、そして無理やりに自分の原則に反した恐怖政治という鋳型の中に投げ込まれ、驚嘆すべき数々のことをしたにもかかわらず、…次第次第に狭くなってゆく基礎の上に支持されたこの共和国は、自分の命に結び付けようとした人々からさえ理解されなかった。対外戦争の勝利まで、この共和国を存続させるには、建設者の熱烈な神秘主義と超人的なエネルギーが必要であった。二千年間続いた王制と奴隷制度を数カ月で持って消すことはできない。どんなに厳しい法律でも、一撃で人間の性質や社会制度を変えることはできない。市民制度を設け、富の帝国を転覆するために、独裁を永続させようとしたロベスピエールもクートンもサンジュストも、この事をよく悟っていた。…」(マチエ)
それにしても革命運動という壮大な営為は、それまで無名だった(隠れていた)人間の能力を最大限に呼び起こすらしい。27歳で断頭台に消えた天才サンジュストは、二十歳の頃に初めて登場した。賢人クートンは障害をもっていた。軍事の天才カルノーは「工兵大尉」から抜擢された。馬丁の子として生まれ、ダンケルク戦で勇名を馳せ、ナポレオンをして「戦争の達人」といわせたオッシュ(29歳で病死)、マラーなどあまた多くの才能が花咲かせている。
自立的に、真剣に生きるということが人間の能力を開花させる条件ということだろうか。
日本の教育は、個性を伸ばすよりも生殺しにして平均化するばかりのようだ。
2019.8.10 記
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://chikyuza.net/
〔culture0842:190810〕
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