ポピュリズムとメキシコ政治の現在・覚書
- 2019年 8月 21日
- 評論・紹介・意見
幾分、寝ぼけた感想をいくつかメモしておきたい。
異常な汚職国家として君臨してきたメキシコにも人間に平衡感覚を取り戻させようとする運動は常にあった、と、言える。現在の日本における山本太郎の政治的攻勢と現在のメキシコ大統領ロペス・オブラドールの足跡を振り返ると大きな相違を見ざるを得ない。
経済的には昨年7月1日の選挙結果による政権与党路線PRI&PANの敗北はデラマドリ政権以降のネオ・リベラリズム路線からの脱却、12月1日に発足した新政権の緊縮財政というスタイルをとっている。メキシコの左派といわれる政権はロペス・ポルティジョに象徴されるように表向きだけ派手で権威主義的なラテンアメリカ・ポピュリズムを形成してきたのだがデラマドリ政権もまたその『伝統』を生きていた。現在の政権がネオ・リベラリズムを批判しながら、それを前提としていかざるを得ないのは『合法』的な改革を目指しているからで、しかし、『法制』そのものは旧体制からのもので議会側での改訂作業は順調とは言えない。『司法』陣営はいまだに旧体制の汚職最高裁が陣取っており、検察の摘発に法制裁保留の裁定を連発している。
また、政権与党から出発した大統領自身の『民主主義』理解にも限界が見られ、国際空港の選択に『国民投票』を利用したプロセスには確実なポピュリズムの動きがあった。大統領と財界をつなげる補佐官アルフォンゾ・ラモ氏は15年かけて建設を行なってきたテスココ空港を白紙に戻すことに『メキシコのために』涙を飲んで首肯した。しかし、全国的に行なわれた国民投票には「テスココ」と「サンタ・ルシア」の選択しかなく、サンタ・ルシアがどのような地域かという認識は地元民以外、誰も持っていなかったといえる。
サンタ・ルシアには軍事空港が既にあり、近くには小型核廃棄物の集積所「CADER」が存在し何度もコバルト60などの盗難が繰り返されヨーロッパの新聞で騒ぎを起こしている。地元民は水不足に悩み日中や深夜の断水は日常化している。またテスココよりもメキシコ市からの交通の便がいまのところ悪い。大統領は依然として任期中に完成させるといっているが、財界総力をかけたテスココが15年たっても完成しなかった経緯を再び繰り返す可能性は強い。
『国民投票』を地域的な問題に利用する際、現地で利害をこうむる地域住民の声は消されてしまい、それを『民主主義的手続き』を踏んだと胸を張る大統領が存在するが、国政次元での浄化などが進展を始めたばかりであり、空港建設の『国民投票』というポピュリズムの利用は、大統領を逆に縛り始めている。
緊縮財政についてはいくつかの旧与党の作り出した機関に対する見直しが進んでおり、納税行政に当たるSATなどで大幅な人員削減が行なわれたり、機関の廃棄などが進んでいる。しかし、メキシコ市の地下鉄網METROや教員組合、連邦電気供給機構CFEなどは発足以降、異常なネポティズム《縁故主義、家族主義、仲間主義》が日本の左翼並みに機構にこびり付き、そういった旧体制からの利権階級が政治的逡巡忖度の温床となっている。
構造的な石油汚職については『ワチコレオ』システムとして犯罪組織と政府機構の結託を大衆の圧倒的支持を持って政権発足から3ヶ月もたたずして瓦解させたが、末端のガソリン販売網の結束に押し返されている現状がある。
わたくしは、前政権までに積み重なった異常な負債を打開するための緊縮経済の成り行きに注目してはいるが、第三世界のポピュリズムの変貌そのものに対して、より一層、注目をおいている。
基本的に近代主義的に整理された結論が出てくることは今後ますます難しくなっており、ポピュリズム一般をひとつの理路で整理すること自身がアナクロニスムであると考える。それは実は今後のヨーロッパやアメリカ合衆国についてさえ言える現象なのではなかろうか。
以上は、逡巡するポピュリズムという理性の動きを、昨日の深酒の中から皮膚で感じている地球の裏側からのちょっとしたメモに過ぎないが、『ちきゅう座』のいくつかの記事を瞥見しながら、ちょいと書きとめる気になった。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://chikyuza.net/
〔opinion8921:190821〕
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