高校では遅すぎる――低学力問題解決のために
- 2019年 8月 23日
- 評論・紹介・意見
- 学力教育阿部治平
――八ヶ岳山麓から(289)――
近刊の朝比奈なを著『ルポ・教育困難校』(朝日選書2019・7)は、高校の低学力問題に焦点を当てた著作である。氏はいわゆる研究者ではなく、高校・大学で低学力問題にずっと取り組んできた現場教師である。すでに8年前『見捨てられた高校生たち――『教育困難校』の実態-—』(学事出版 2011)によって、高校生の低学力問題を論じた。近著では『置き去りにされた高校生――加速する高校改革の中での「教育困難校」』(学事出版2019・3)がある。
本書には、低学力生徒の集まる高校の授業風景、低学力の実態、家庭の経済力と低学力の関係、ここで仕事をする教員の実態、進路指導の困難さ、低学力からの教員の脱出努力が語られている。
いままで教育行政から軽視されてきた低学力問題を、忍耐強く世に問うてきた氏の努力は敬服に値する。
以下、朝比奈氏の著作に寄りかかりつつ低学力問題について、私見を述べたい。
まず低学力のなかみについて。氏は、どの地域(都道府県)でも偏差値40台前半の合格安全ラインは、(受験業界でも)5教科(国・理・数・社・英)各100点の500点満点で220~230点程度だという。
だとすれば、こうした高校生は、小中学校で学んだ内容の5割以上がわからないことを意味する。いや問題はもっと深刻である。中学生減少の今日、公立高校では志願者数が定員に満たなければ、どれかの教科が0点でも合格してしまう場合がある。
氏は文部科学省が実施した2018年度の「全国学力・学習状況調査」の結果の上位県、中位県、下位県を各2校選び、このような高校生が全高校生のどれくらいの割合になるか試算している。氏が概ね「教育困難校」と位置づける偏差値44以下の高校に通う生徒の割合は、(地域により差異はあり、同じ数値でも同じ学力を示すとは限らないものの)最小の県で14%、多い県で40%超と、決して少なくないことがわかる。
それが全国にならしてみた場合どのくらいの割合になるか。本書にはそのものずばりで割合が示されていないが、かりに30%前後としたとき、高校入学者の3分の1は、きわめて低学力、小中学校段階で履修したはずの知識を半分も持たないこと、いいかえると高校進学率が100%近い今日、無視できない数の日本人が低学力であることを意味する。これは教育問題というよりは、社会問題であり政治問題である。
朝比奈氏は低学力問題への高校での取り組みと、行政の対処不足を論じているが、私の経験では、いくら学力をつけようとしても、高校生ではトウが立ちすぎていて、手の打ちようがないことが多い。授業がわからなくなった原因を突き止め、救い上げたと思ったことは数えるほどしかない。これは定時制と底辺校25年の経験による実感である。
彼らのかなりの部分は小学校低学年ですでに授業が分からず、学校が面白くないところになっている。つまり学習意欲を失っているのである。もちろん、高校で特定分野を学ぼうとする意欲があるものもいるが、それは少数である。
そのうえ低学力は問題行動(非行)と密接に関連している。子供はやることなすこと手加減というものを知らないが、底辺校ではその幼児性を引きずっているのがかなりいる。彼らの非行は刑法適用のレベルに到達している。
私が現役時代の生徒たちの話では、数学を例にとると、低学年で繰下がりの引算がわからない子が出る。ついで割算である。割り切れるものから始まり、余りのある計算に進む。子供によってはこれが難しい。そして分数に入る。割算と分数の関係を理解できないものがかなりでる。高学年で学ぶ分数の四則はまさに正念場、難関である。小学校教師ならば、私などよりもどの段階でつまずくか、もっと明確に回答できると思う。
もちろん小学校でも中学でも、わかりの遅い子にたいする指導はおこなわれている。これについて、ある経験者は私に「それは個別指導によってのみ、成果をあげられる。一斉授業の中で全員を救うことはほとんど不可能だ。低学力児童も適切な指導法を見出す力のある教員に恵まれれば力を伸ばせる。私はかつて学習障害児予備群の子どもに接する機会があったので、そのことは確信を持って言うことができる」と語った。
だから補習のための個別教育を受け持つ有能な補助教員を置くことがもっとも有効な解決策になる。そして今日、補助教員制度はあるけれども、その実態は自治体によってまちまちである。国の義務教育への負担が削減されているから、自治体のスタンスにより補助教員の配置は地域間格差が大きくなっている。
これに対して一般的に提唱されてきたのは、学級定員の削減、教師の雑務を引受ける学校事務員の増員である。しかし、もっと重要なことは、教養と技術の高い有能な小学校教員を確保することである。そのためには義務教育段階の教員の賃金増額と同時に、大学の教職養成課程を改善し専門性を高める必要がある。
したがってここで発言すべきは、小学校教員の専門性のレベルであるが、私には「まず子供好きでなければならない」というほかは、教養と技術がどの程度であるべきかわからない。これを教育研究者と現場教師に教えていただきたい。
高校改革に取組み、あるいはこれを地域に密着した高校に変革した実例は、以前から様々な形で紹介されてきた。朝比奈氏も当事者に面接して、その姿を紹介している。だが底辺校を魅力ある高校へ改革したのは、数少ない突出した例である。
というのは、学校というところは現場からの改革が困難なところだからである。かりに教員個人が低学力の克服を目指したとしても、徒労に終わることが多い。さいわいにも集団で動き出したとしても、成果が上がるまでには数年かかる。その間に一般教員と管理職の転勤が絶えずあって、主要メンバーが転出し無気力な教員が入込んで、それまでの努力が消えてしまうことはいくらでもある。
また一般に学校の管理職は自治体の教育行政の意向をうかがい、自治体の教育官僚は文科省の方針に忠実である。だから有意義な改革でも、それが文科省の方向と一致しなければ、現場だけでは継続的な指導ができる体制はなかなかつくれない。
学校は平等とか公平を重んじるところである。ところが人の能力は平等ではない。生きる環境もそれぞれだ。「バブル経済」が吹っ飛んで以後、貧富の格差は拡大した。貧困が次の世代に相続されることが明らかになり、その貧困が子供の学習能力に直接影響することも世間に知られるようになった。
このためか、高校教育無償化、高等教育無償化という政策が立て続けに打ち出されているが、これらは低学力の解消にはそれほど役立たない。朝比奈氏によれば文部科学省も高校のエリート教育に傾いていた関心を、ようやく低学力問題にも向けるようになったという。
ならば、義務教育段階への国のサービスをもっと手厚くし、費用と人材を投じて、基礎学力の充実を図ってほしい。「考える力」や「アクティブ・ラーニング(生徒参加型授業)」の基礎には、基礎学力と学びへの興味・関心が不可欠だからである。
だが、たとえ予算が十分で、教員に心身のゆとりがあり、どんなに熱心に補完教育を進めたとしても、落ちこぼれゼロにすることはできない。それでも「救えるものは最大限救う」これこそが教員の良心である。
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