「戦後との訣別」を意味する「脱原発」の方向を、「自主・民主・公開」の国民的討論で!
- 2011年 5月 17日
- 時代をみる
- 3.11加藤哲郎日米同盟脱原発
2011.5.15 本サイトの特設ページ「イマジン」が立ち上がったのは、2001年9月のことでした。アメリカにおける9・11同時多発テロ、それへの「報復」としてのアフガニスタン・イラク戦争に反対してのものでした。その「報復戦争」の最大の標的であったオサマ・ビンラディン容疑者が、パキスタン首都近郊の邸宅に潜伏していたのを米国中央情報局(CIA)が発見し、綿密に計算した軍事作戦を展開して、殺害したと発表されました。アメリカに協力してきたパキスタン政府も事前に何も知らされず、逮捕するわけではなく一方的に銃殺し、その死骸もすでに水葬にしてしまったと世界に発表しました。アメリカにとっては「大勝利」で、「敵」を殺害して歓声をあげるニューヨーク市民の姿が、映像で流されました。パキスタンにとっては明確な主権侵害で、アメリカ非難の議会決議もあがりましたが、「世界の警察官」を自認するアメリカは、意に介しません。これで機動戦・陣地戦が終わり情報戦に移るわけでもなく、早速80人が死亡する「報復テロ」が始まりました。米パ関係の緊張のなかで、「パキスタンが保有する核兵器が米軍やテロリストに掌握されるのではないか」という不安が、パキスタン国民に広がっています。パキスタンは、核弾頭約100個を保有しているとのこと、「報復が報復をよぶ連鎖」は、まだ続きそうです。
アメリカは、パキスタンに対するのと同じ調子で、目下の「同盟国」日本に接します。普天間基地移転問題の遅れに業を煮やし、アメリカ議会の大物議員たちが、普天間と嘉手納基地の統合を言い出しました。3・11大震災・原発事故で頭も手もまわらない日本政府は、米軍基地への「思いやり予算」はそっくりそのまま継続し、沖縄県民のとうてい納得しない普天間基地の名護移転という「日米合意」の再検討もできず、対外関係は、全く無為無策です。そうこうしているうちに、先月末に出した中国研究の専門家矢吹晋さんとの対談(矢吹晋・加藤哲郎・及川淳子『劉暁波と中国民主化の行方』花伝社)で危惧した 「ジャパメリカからチャイメリカ」への新しい動き、米中戦略・経済対話が始まり、世界中が注目しています。東アジアでも、日本は、もはやカヤの外です。3・11で本土の大手マスコミが総崩れの中で、沖縄の地域メディアは奮闘しています。社説でいち早く「再生エネルギー:脱原発の国家戦略急げ」と主張したのは、「琉球新報」でした。それは、沖縄に原発がないからではありません。「本土」の日米同盟から基地を押しつけられ、「核の脅威」をずっと背負ってきたからです。日本の反核運動は世界的に見ればユニークです。核兵器廃絶運動が、反原発運動と切り離されて展開されてきました。ヨーロッパ語ならどちらもanti-nuclear、核廃絶と原発廃絶は一体です。
3・11以来の日本政府の原発対応は、国際社会から強い不信と大きな不安をもって、見られています。何よりも、政府が事態を正確に把握できておらず、データが出されても信頼できません。事態をコントロールできず、対策も後手後手です。地震大国なのに、根拠のない「絶対安全」を繰り返してきたツケです。世界からみれば途方もない放射線被ばくを、子どもたちにまで許容し、汚染水対策は海へのたれ流し、原子炉冷却の見通しはいっこうにあきらかにならないまま、国境のない空と海をも、放射能で汚染させ続けているからです。多くの内外の心ある専門家が、3・11直後から指摘し危惧してきたにもかかわらず、日本政府・東電がもっともダメージが少ないと言い続けてきた福島第一原発1号炉の「メルトダウン」が、ようやく公認されました。水量計が調整されたら水がないことがわかったという、深く悲しい「専門家」の現実です。科学技術的意味でも、危機管理・情報公開という意味でも、かつての経済大国・技術大国の今日の無惨を、印象づけるものとなりました。こうした事態の動きについては、もともと9・11のために作った特設サイト「イマジン」を、連休中に東日本大震災・福島原発震災を知る情報サイトに組み替えました。本トップの月2回の更新とは別に、随時更新していきます。英語版の「Global IMAGINE」も更新しましたので、そちらもご参照ください。
か細い希望は、巨大地震・大津波の生き残り被災者の中から、少しづつ再建への歩みが始まっていること、そして、政局がらみの思惑はともあれ、菅内閣が浜岡原発の停止を要請して中部電力がそれを認め、原発依存の現行「エネルギー基本計画」も「白紙」から議論すると、最高責任者である首相が言明したことです。日本が国際社会に復帰できる道は、現在の原発の危機的状況を一刻も早く安定させ、地震・津波大国でどのようなエネルギー転換を進めるかを国民と世界に宣言し、「脱原発」に生まれ変わった日本の将来の方向づけを明確にすることでしょう。菅首相は、ソフトバンクの孫正義社長と会い、再生可能エネルギー開発に意欲を示したそうですが、今月末のG8サミットに「脱原発」エネルギー戦略を出せるとは思われません。現政権にできるかどうかは、不確定要素が多すぎます。何よりも、チェルノブイリと並び、「Hiroshima, Nagasaki,Fukushima」の表記が当たり前になった福島での世界的危機が現在進行形ですから。福島の「原発労働者」からついに死者が出ました。強制避難を余儀なくされた「原発難民」は、本当にお気の毒です。政府と電力会社、それに「原子力村」に無批判に従ってきた財界や政治家、学者やマスコミにも、大きな責任があります。
いや、この間調べてきた1945年以後の日本の核政策・エネルギー政策の歴史からすれば、原発導入を直接に担った正力松太郎や中曽根康弘ばかりではなく、日本の国家と社会の総体が、大きな反省を迫られています。占領期新聞雑誌資料データベース(プランゲ文庫)を調べて、暗澹たる想いに駆られました。占領期日本の言説空間では、広島・長崎の原爆被害は検閲され隠されていましたが、敗戦を導いた巨大な「原子エネルギー」についての畏怖と希望は、日本国憲法制定と並行して、広く語られていました。「原子力時代」「原子力の平和利用」の言説が、大新聞から論壇・共産党機関紙誌にまで、溢れていました。右派よりも左派が、それを主導していました。占領期新聞・雑誌の見出しでの「原子力の平和利用」の最初の提唱者は、著名なマルクス主義者である平野義太郎でした。「社会主義の原子力」を、資本主義を凌駕する「輝かしい希望」の源泉と信じていました。原子力に未来を託す「アトム」の漫画も、手塚治虫より前から出ていました。いわゆる「戦後民主主義」「戦後復興」は、「原子力の夢」にあこがれ、同居していました。こうした資料は今後、逐次「イマジン」で公表していきます。日本の「脱原発」は、歴史的に重い課題です。国家と社会のあり方の全般的転換、「戦後との訣別」を要します。かつて日本の原子力研究が始まる時に、その「軍事的利用」を危惧する研究者たちが課した開発の条件は、「自主・民主・公開」でした。さしあたり、これを採用しましょう。核兵器・核エネルギーの葬送の過程も、「原子力村」の談合によってではなく、「自主・民主・公開」の広い国民的討論であるべきです。
「加藤哲郎のネチズンカレッジ」から許可を得て転載 http://www.ff.iij4u.or.jp/~katote/Home.shtml
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
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