リハビリ日記Ⅳ ⑨⑩
- 2019年 9月 23日
- カルチャー
- 日記阿部浪子
⑨半藤末利子の『漱石夫人は占い好き』
雑草に混じって、1つ黄色い花が咲いている。名前不詳。身のたけ10センチもない。けなげだ。今夏は猛暑のせいか、わが庭には雑草が一面にはびこっている。むさくるしい。昨夏には見られなかった、身のたけのびた、いろんな雑草たち。
シルバー人材センターの会員が、草刈りをしている。5月の連休明けにきた男性だ。〈ほかの人も連れてきたかったけど、なんせ人手不足でね〉。
あの日、サクランボの実が、こつぜんと消えた。拙文にすでに書いている。7月に入ると、同級生のあつこさんが、産地のサクランボを持ってたずねてくれた。わが無念は、いささか晴れたよう。あつこさんは結婚後も地元に住んでいる。拙文のあのくだりを覚えていたのだ。にぎり鮨にも感激する。日ごろ買い物難民でいるから、ごちそうだった。あつこさんの心くばりが、わたしはうれしかった。
携帯電話のベルが鳴った。〈ご主人から?〉〈はい、そうです〉といって、民生委員は拙宅からそそくさと帰っていった。いましがた訪ねてきたばかりなのに。いまどき夫を最優先させる女性もいるのだ。名誉のための民生委員であってはならない。通信費、交通費、研修費の名目で、金銭を市役所から受けとっているのだから。
高齢者へ親身に手を差しのべてほしい。今後ますます、子どももきょうだいもいない単身者が増えていくと思うのだ。1度手に入れた役職は、よほどのヘマをしないかぎり解任されない。彼女は、すそのひろがったワンピースをひらひらさせながら訪れる。わたしは気後れしている。
公的な民生委員がわたしたちの身近にいることを、多くの人に知っていてほしい。
人が人を恃むことはむなしい。最近つくづく思う。この地域にすみのという、60代の女性がいる。わたしの亡母と交流があったという。〈L判のTシャツが出てきたわよ〉。すみのは日をおかず、すっ飛んでくる。〈買い物は姪ごさんにたのみなよ〉と、じつに素っ気ない。困った人、弱った人に手を差しのべるのは、そんなに嫌なことなのだろうか。
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エッセイスト、半藤末利子の初の著書『夏目家の糠みそ』(PHP研究所)を、わたしは「信濃毎日新聞」で書評した。2冊目の『漱石夫人は占い好き』(PHP研究所)は、半藤さんからプレゼントされたのだった。
半藤さんは1935年の生まれ。文豪、夏目漱石の孫にあたる。祖母、鏡子とは、鏡子が70代後半から80代のころ交流があったという。鏡子は88歳で他界している。母は漱石の長女、筆子で、父は漱石門下生の小説家、松岡譲である。
エッセイ群に登場する人物はみな、輪郭があざやかだ。とりわけ、祖母の像、父の像、母の像が感銘ふかい。彼らのこまやかな息づかいまで聴こえてくるようだ。半藤さんの筆力を感じる。1人1人への愛情も感じるのである。
半藤さんは、祖母、鏡子と10年以上の交流をしてきた。その間の観察眼はするどい。鏡子は、夫、漱石の神経衰弱(うつ病)にほとほと困りぬいて、神仏にすがった。以来、「物事全般を運命的に観ずるようになった」と、半藤さんは書く。
さらに、半藤さんは鏡子の「偉い」ところを指摘する。「親戚縁者や困っている人や一人暮しの年寄などの面倒を実によく」みたと。わたしは、この指摘にとくべつ注目したのである。鏡子の自分の損得をこえた、今どきの人にはない寛大さに感動したのだった。鏡子の偉さをみぬいて、心にとどめてきた半藤さんの精神も、たしかにすばらしい。
⑩三島利徳の『安曇野を去った男―ある農民文学者の人生』
8月下旬、わたしは4度目の要介護・要支援認定の調査をうけた。市役所から女性調査員がやってきた。立ち合いはケアマネージャーだ。朝から落ちつかない。「要支援1」がどうなるのか。
いつぞや、作家の辺見庸が「辺見庸ブログ」のなかに書いていた。介護2と3とはどうちがうのか。たずねると、調査員は尻尾をまいて逃げていったと。
脳内出血の後遺症は、月日とともにマヒが高じていく。マヒの右手に物をつかんでもパタッと落ちてしまう。ぎゃくに、つかんだ物がなかなか右手から離れていかない。歩き方にしても、よそ目にはきれいに見えてきても、右足がつっぱり指3本もねじれて足底が不安定なのである。外見と実質のちがいを、調査員は、的確にとらえただろうか。わが説明を丁寧に聴いただろうか。
S病院で病室がおなじだったよしえさんから手紙がとどく。拙文「リハビリ日記」を読んで、わたしが個別のリハビリテーションをうけているのがうらやましいという。他市に住むよしえさんは、リハビリを高齢者自立支援事業所で週2日うけている。毎回メンバーは30人から40人くらいだそうだ。たしかに、個人授業・個別授業は有効だ。
S病院での6か月のリハビリは、毎日マンツーマン方式の授業だった。担当の理学療法士、T先生は、わたしの症状、回復状況に応じて体操の種目を変えていった。T先生の引き出しはいっぱいだった。あのとき、いまにして思えば、T先生はかなり難しい体操も指導してくれたのだ。代行のY先生が〈あの体操は高度ですよ〉といったことがある。わたしは必死だった。歩けるようになると、他の先生がT先生に〈どうやったんだ〉と訊いてきたそうな。同僚の指導は気になるもののよう。見ていないようで、ひそかに観察しているのかもしれない。
きょうは、デイサービスYAMADAに行く。この施設は、オープン7年余り。わたしの通所も半年になる。
施術後、わたしは柔道整復師の菅沼先生にたずねた。〈宅配のお弁当はおいしい?〉〈うーん、7年も食べてるとおんなじようなメニューでね〉。そうか。さらに、菅沼先生が専門学校時代からここで働いていることもわかった。
菅沼先生にも安形先生にも増田先生にも、わたしたち生徒・通所者に応えようとする熱 意が感じられる。もちろん、施設長の山田先生にも。
山田先生は、9月7日、今年は浜松で行なわれた理学療法学会で講演をした。内容は、みずから開発した歩行補助具、イー・フットのことなど。山田先生は勉強家である。スタ
ッフの面倒見もよい。部下の働く意欲も充実も、トップの姿勢と人間性しだいだと思う。
ボール投げは、毎週、たのしい種目だ。吹き矢もおもしろい。頭・手・指・足の体操、発声練習のあと。細長い筒を口にくわえ、息を吐いて、矢を掲示板の数字10めがけて放つのだ。1人にあたえられる5本の矢がすべて、的の10に突きささる、命中するのは、意外や、難しいものだ。わたしは外れが多い。腹式呼吸がうまくできていないのかもしれない。吹き矢の練習には、集中力強化や脳の活性化などの効能があるそうだ。
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三島利徳の『安曇野を去った男―ある農民文学者の人生』(人文書館)は、ぶ厚い著書だ。開くと、文章のほかに文献、人物、農民文学者、山田多賀市ゆかりの建物などの写真が掲載される。三島さんの本書刊行までの情熱と苦労がわかるのである。
三島さんは2012年、信濃毎日新聞社を退職した。論説委員になっていた。
わたしは三島さんが文化部デスクのとき、長野市にある本社に訪ねている。その夜は、 静大人文学部出身の三島さんと、北大出身で科学専門の飯島さんと、3人で雑談にふけった。三島さんがこんな話をした。〈大学3年になると、浜松キャンパスから教育学部のメッチェンが本校の静岡キャンパスに移ってくる。浜松市立高校をでた彼女らは、才色兼備でね、ぼくら、胸をときめかせましたよ〉。
三島さんは1947年、長野県下伊那郡に生まれ、農業、林業を営む両親のもとに生育する。同県安曇野出身の農民文学者、山田多賀市に惹かれた理由も、まず、生い立ちによる共通点があったのではないか。1907年から82年を「雑草のように生きぬいた」山田の出世作は、長編小説「耕土」だ。
そして、三島さんの山田の生き方への強い共感。山梨を拠点に小説、評論を執筆し、出版業を営んだ山田の足跡を追った評伝をとおして、三島さん自身がわたしたちに問いかけたかった、それは、山田を徴兵忌避の行動にかりたてた反戦の精神にほかならない。戦後74年。戦争のない社会をどう維持するか。そのためには何が求められているか。著者、三島利徳さんは、そのことを、今だから真摯に切実に問うてくるのである。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔culture0864:190923〕
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