『渦 妹背山女庭訓魂結び』(大島真寿美)を読む
- 2019年 9月 29日
- 評論・紹介・意見
- 三上 治
(1)
芥川賞や直木賞の候補者が全員女性だと聞いた時は驚いたが、すぐに納得もできた。瀬戸内寂聴や佐藤愛子を上げるまでもなく、女性の老大家は元気だが、それに比せば男性の老大家たちの元気な姿は見かけないからだ。政治の世界は未だではあるが、文学の世界はもう女の世界になっている。この趨勢はしばらく続くのだろうと思う。直木賞の『渦 妹背山女庭訓魂結び』と芥川賞の『むらさきのスカートの女』を読み比べるというわけではなかったが、続けて読んでみた。
この双方を比較しながら感想をと思ったが、今回は『渦』の方にした。
『渦』は近松門左衛門のなきあと浄瑠璃の世界を支え、「妹背山婦女庭訓魂結び」などを遺した近松半二の生涯を描いた作品である。半二は浄瑠璃の元祖というべき近松門左衛門と親交のあった儒学者で私塾を開いていた穂積以貫の次男としてうまれる。穂積成章がその名前だが、幼少は賢い子であり、父母に期待された子だった。父の以貫は成章の小さいころから大坂の道頓堀の竹本座に連れて行った。以貫はいわゆる浄瑠璃狂いの類で、京の伏見から大坂へ引っ越して以来、頻繁に出掛けた。近松の国性爺合戦がきっかけだったが、心中天の網島、女殺油坂地獄と浄瑠璃にのめり込み、気がつけば近松の近くにいた。彼は近松から遺品として硯をもらうことにもなるような関係だった。近松の死は以貫を消沈させたが、近松なきあとに「この赤子が門左衛門殿の生まれ変わりだったよかったのに」と思い込んだのでは作者に想像させるほどのめり込んだのだった。彼はその成章が物心つくかつかぬうちから竹本座の周辺に連れ出し、浄瑠璃に浸っていたのだった。
賢かったはずの成章はと言えば、家業の学問から遠ざかり、「兄の安章が真面目に勉学にいそしむ傍らごろりと寝転んで鼻をほじくりながら空を眺めている。熱心に読みふけるのは以貫の集めた浄瑠璃本やら伝奇ものばかり。かと思えば、聞き憶えのある義太夫節なんぞを、うなっている」(『渦』)始末である。父の以貫はこんな阿呆になるなら道頓堀をなぞつれて歩かなければよかったと臍を嚙む思いになり、母の絹とは嫌悪な仲になる。もっとも以貫はこの成章をその後も見守り支援を続けていくが。絹は嘆き悲しみ、寝込んでしまうほどだった。
が、成章は家を抜け出し、道頓掘りをふらついていた。そんな息子の行状を母親の絹からあんな子にしたのは誰だと詰問されるが、以貫は困惑する。「あれは病と同じでどうにもできないものなのだと以貫はよく知っている。あそこはなにしろ面白い。この世のようでこの世でない。不思議な世界が広がっているのである。するりと引き摺りこまれる。知れば知るほど、その幻に包みこまれ、正気を失って行くのである」(『渦』)。以貫は浄瑠璃の世界が人を魅了し、抗しがたい力を持っていることをよく知っていた。成章は阿呆ぼんと呼ばれながら、成長していくが、母親とは険悪な関係になる一方だった。
見かねた以貫は息子を京の有隣軒のところにやる。お前はそこで伝奇やら浄瑠璃やらを習うがいいというわけだ。そこで、渡された小さな包みには近松門左衛門が愛用していた硯だった。そして、以貫は、お前はいつか浄瑠璃が書きたくなる、というのだった。「これは近松の名を継ぐ印の硯や」というのは以貫の言葉だが、息子は「わかった、では、いざ、その時がきたら、近松を名乗らせてもらう」と応えた。そんな、問答のうちに近松半二という名前も生まれた。後に、半二は父の以貫が亡くなった後にこの父のことを回想している。
「以貫が亡くなってしばらくして、半二は、自分が知らず識らず、以貫の目を気にしながら浄瑠璃をそえていたのではないかと、と気づいた。そう、あの目がある限り、恥ずかしいものはやれないと心のどこかに覚悟して文机に向かっていたのではなかったか。その目がなくなってはじめて、半二はその大きさに思い至り、愕然としたのだ。以貫のために浄瑠璃を書いてきたわけではないものの、以貫が逝って張り合いを一つ亡くしたのはたしかだった」(『渦』)。父や母を失ったときに誰しもが持つ感慨のようなものだろうが、穂積家を勘当同然になっても以貫は半二を陰に陽に見守り続けてきたのだから当たり前のことと言える。が、半二という浄瑠璃作家が父との二代の合作だったといえるのではないか、と思える。そんな気がしないでもない。
(2)
京で有隣軒との日々は半二にとって、彼はこのころは穂積半二と名乗っていたが、極楽のようであった。ただ、有隣軒が亡くなると食い詰め大坂にもどる。この有隣軒なきあとの食い詰めた生活の中から、実家に戻ると彼は道頓堀に行き、家にはいつかなかった。それから五年ほど、義太夫節を習って暮らした。義太夫節の稽古屋を営む染太爺さんのところに転がり込んでいたのだ。彼はこの気ままな生活をしながら、浄瑠璃の竹本座にも出入りしていた。このころは竹本座では傑作が次から次にと掛かり、活況にあった。ある時、人形遣いの親玉、吉田文三郎に書いてみろといわれる。それから彼は書きはじめることになるが、半二の書いたものは反故にされつづけるが、彼はめげずに書き続ける。半二の書いたものが一座にかけられるのはずっと後だった。
彼が京に行く前からの顔なじみで久太がいた。彼は道頓堀の芝居茶屋の、和泉屋の倅であったが、そのころは菓子屋に奉公をしていた。半二を久太は慕っていて、よく遊び歩いたのだが、この久太はやがて歌舞伎作者として名をなす。並木正三である。彼は半二よりと年下だったが、彼が先に書き始めたことは半二には大変の刺激だった。このころから浄瑠璃と歌舞伎は競い合いながらあったが、やがては歌舞伎が優位になって行く趨勢にあった。彼の書いたものは吉田文三郎に反故にされ陽の目をみていないが、浄瑠璃だけは正三にまけたくないという思いが強かった。もちろん彼との深い交流はずぅーと続いていく。
彼の書いたものがはじめて竹本座にかかったの「役行者大峯桜」だった。これは大入りというまで行かなくても、まずまずの客入りもあり、半二の面目も立った。彼は竹本座から豊竹坐に移っていた並木川柳(近松なきあとの代表的な浄瑠璃作家)の遺作の「一谷嫩軍記」に圧倒されたていた。この作品をうめきながら見ていた彼は自分の作品を比べながら恐れ入り、決意をしていた。これに劣らぬ作品を書こうというわけだ。「そんな思いはやがて、二十年の時をかけて結実する。妹背山婦女庭訓」(『渦』)
吉田文三郎は彼に書くことを進めたいわば恩人であるが、彼とは浄瑠璃作者と人形遣いという関係を超えた関係だった。文三郎にとって半二は手放せない作者になっていた。この文三郎が竹本座を出て旗揚げするかの騒動があった。これは竹本座の竹田近江の力で潰され、文三郎は亡くなってしまい騒動の幕は閉じる。この騒動も冷めやらぬうちに、今度は竹田近江が奢侈の科で逮捕された。竹本座をめぐる厳しい動きの中で竹本座は道頓堀をはなれることを余儀なくされ、京の舞台を移した。
半二も京に移り、やがて妻となるお佐久と出会う事にもなる。半二はこのころ竹本座の立作者になっていたが、客入りの状態が悪いのに悩まされていた。浄瑠璃は歌舞伎にも押されかつての勢いを欠いてきていた。そんなおり、「ああもう、わからんやっちゃな、半二。満を満たしてお前の新作をかけたる、いうてんおや。わしはいっさい口出しせえへんで。誰にも口出しさせへんで。なにをかいてもええ。これぞ近松半二、いうもんを書いて、しっかり世に出してみい」(『渦』)。
やらしてもらいますとこたえた半二が取り組んだのが、この作品の題名にもなっている『妹背山婦女庭訓』である。これがこの作品の中心をなすところである結論から言えば、この作品は竹本座というよりは浄瑠璃の第ヒット作になり、何カ月にわたる大入りの作品となった。近松半二の名を世に残した作品になったのである。
作者はこの中で彼の弟子筋にあたる歌舞伎作者で、酒におぼれて死んだ竹田治蔵のことを取り上げながら、浄瑠璃や歌舞伎の作者であること、作品を書くことについて語る。治蔵は何故に酒に手をだしたか。「書きたかったからや」というのが半二の答えであるが、引手あまた歌舞伎作者であった治蔵は書くという欲望にとらわれたのである。この欲望に付き合うには酒が必要だった。この欲望は一般的な書きたいという事でも、書かねばならぬという事いう事でもない。そんなことはたいしことではない。それはこの執着はなぜというように現れてくるものだが、己を書くことに向かわざるを得なくする衝動である。これは深淵に生きる獰猛な生き物がくらいつかれ、おのれの魂が取られているようものとしてあると作者はいう。物語を書くという衝動に取りつかれることそれを作者は「書きたかったからや」というが、これはとても恐ろしいことであり、酒はそれに耐える手立てだったのだ。
作者はそれを虚が実を食い散らしていくことだというが、虚とは幻想と言っていい。幻想は現実ではないが、人間の中の生きてある存在である。現実ならざる現実とでもいうべき存在である。虚妄、夢どのようによぼうが幻想(虚)は人間の存在であり、書くという事はそれを紡ぐことである。虚に人間の本当のことがあるのか、どうかではそれ人は命を懸けるのである。そういう衝動に人を引き寄せる。文学、宗教、政治、あるいは文化の本質ということはそこにあるといえるのだろうが、物語に取りつかれるとはそういうことである。
作者は浄瑠璃や歌舞伎の世界をこの虚と実が混然一体となったものだという。その渦であるという。これは浄瑠璃や歌舞伎の世界をつくりだすことであるが、
道頓堀はそれを生み出す場だった。上品にいえば文化の場だった。江戸と並ぶ近世の文化の場だった。幻想を紡ぐことの恐ろしさと、それが人をして抗しがたくたく魅了するものであることを半二はよく知っていたといえる。これは半二について書く作者の心の底にあるものともいえる。
半二は「妹背山婦女庭訓」に取り込み組む。この作品は大化改新を素材にした王代物である。盲目の天智天皇と天皇の位置を狙う蘇我入鹿、それを拒んだ藤原鎌足・淡海親子の物語だが、そこに藤原淡海に橘姫とお三輪とよばれる女性の三角関係が絡む。この作品を生みだして行く過程が描かれており、そこが、とてもいいのだが、何と言ってもお三輪という存在を創出できたとがこの作品の力となった。それは作者のいう通りである。
ここにはかつて半二の兄の許嫁で、その後、奈良の三輪山の近くで酒屋を営んでいたお末さんのことがイメージとしてあったのだと思うが、このお三輪という酒屋の娘が大化改新にからむというのは唐突の感もするが、この娘の存在が浄瑠璃らしい情念を生む。このお三輪はあらかじめ頭の中にあったのではなく、この作品を書き続けているうちに向こうからやってきた存在だいうのがおもしろい。物語は作者が頭の中で描いたシナリオや構想としてできて行くのではない。作者は航海図のようなものとして大きなイメージを持って臨むのかもしれないが、物語は書かれて行く過程で発見しももの、見えてきたものによって出来上がっていく。当初、考えていたものや、構想していたものと全く違ったものなって行く、そういうことは多いのである。意志しているものに、意識しているものを超えたものにつかまり、書くというよりは書かされてしまったことは多々ある。先の見えない苦しみと不安の中で書き続けていることで発見し、見えてくるものはあるのだ。政治においては行動をすることがこれに匹敵するのだろうが。政治的ビジョウンや構想、あるいは理念は内からあるものではなく、行動のなかで見えてくるものであるようにだ。
この作品はお三輪を思いついたところが、成功の秘密であるが、それは向からやってきて、彼をつかまえたというようなものだったのだと思う。「おい、お三輪、お前はたいしたやっちゃなあ。半二はお三輪にはなしかける。お前は、きっと、この浄瑠璃の向こうにまで行って、いつか,駆けて行ってしまうんやろなあ。わしはわかるで、お三輪。おまえはたいした乗り物や。それゆえ、わしの浄瑠璃の中になんぞ、いつまでも留まってはお前はおられんはずや。いずれ、おまえはもっと先までいくんやろう」(『渦』)。この半二の述懐はこの本の作者のものでもあったのだと思う。
初出:『出版人・広告人』9月号より著者の許可を得て転載
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〔opinion9038:190929〕
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