明るい反戦小説に私は泣いた ― 書評 飯島敏宏著『ギブミー・チョコレート』(角川書店) ―
- 2019年 10月 8日
- カルチャー
- 半澤健市書評飯島敏宏
《ウルトラマンの監督が書いた昭和の本郷》
本書のオビにいくつかの惹句が書いてある。
■「少国民」と呼ばれた、ごく普通の子どもたちの物語。
■僕たちは、歌い、笑い、未来を見ていた。
■『ウルトラマンQ』、『ウルトラマン』監督の自伝的小説
■東京本郷で生まれ育った「弘」(ひろし・本書の主人公で洋服仕立屋の息子)は、悪ガキ仲間たちとともに、伸び伸びと子ども時代を謳歌していた。だが戦況の悪化は日常を変えていく。巧妙につきまとう特高警察、姿を消した外国人の友人、代用品になったお菓子――。芸術を愛し、自由の尊さを説く先生は学校から去り、替わりにやってきたのは軍国主義の先生たちだった。軍国主義的なしごきに耐え、疎開先ですきっ腹を抱えても「弘」たちは未来を見ていた。だが1945年3月、中学受験のために東京に戻った彼らを待ち受けていたのは想像を絶する大規模な空襲だった。
著者紹介によれば飯島敏宏(いいじま・としひろ)氏は、1932年生まれ。慶大文学部卒。東京放送入社、円谷特技プロダクションへ移り「ウルトラマン」シリーズを製作、出向した木下恵介プロでは「金曜日の妻たちへ」などを演出した。
《私は泣いた。なぜ泣いたのか》
この「自伝的小説」を読み始めた私(半澤)は、作者の描く世界に、自分の「体験と記憶」「幻想と現実」を交錯させながら、次第に引き込まれていった。そして徐々に私の胸に熱いものがこみ上げてきた。私の目は潤んで来、ついに小さな嗚咽となった。主人公「弘」の世界も、「そうだったのか」「そうなんだよな」「この通りなんだよな」「しかし自分はちがう」とその涙声は叫んだ。
私はなぜ泣いたのか。
一つは、下町と山の手の交錯する本郷という地域共同体を見事に表現していること。その生活に作者がコミットしていることにである。本郷生まれの私も、小説の生活圏と時間とが、約10年間重なる。ここに描かれた共同体が自分が生きたそれと同じだと思った。登場人物に、私は実在した友達、隣人の名前を容易に重ねることができる。だが私は、主人公「弘」のようには、周囲にコミットできなかった。一人っ子の私の性格だったという以外に、自分ではその理由を考えられない。同時に、それが当時の自分の生きかたへの悔いと認識され、涙となったのである。
二つは、本書の最後が米進駐軍の黒人兵士との「ゴー・ストレート・オン」という会話で結ばれることである。小説「ギブミー・チョコレート」を読んできた読者は、この鮮烈な終幕に救われる。少なくとも私は衝撃を受けた。この作品は、通俗作品の装いをまとった教養小説であると思った。それで私は泣いたのである。
《歴史は断絶するのか連続するのか》
私は、泣いてばかりいたわけではない。
日本の戦後は、戦中・戦前と連続しているのか。断続しているのか。
理屈っぽくいえば、歴史認識の基本に関わる問題を、この作品は提示し一つの回答を示している。私の世代は「断続」のセリフを丸山眞男によって理解し、「連続」のセリフを小林秀雄によって認識している。
丸山の言説は、敗戦直後の論文「超国家主義の論理と心理」の結語に現れた。
■日本帝国主義に終止符が打たれた八・一五の日はまた同時に、超国家主義の全体系の基盤たる国体がその絶対性を喪失し今や始めて自由なる主体となった日本国民にその運命を委ねた日でもあったのである。(『世界』、1946年5月号)
同様に、1946年1月雑誌『近代文学』の座談会「コメディ・リテレール 小林秀雄を囲んで」で小林は、出席者の本多秋五による小林の戦時中の姿勢への言及を受けて次のように発言した。
■大事変が終った時には、必ず若しかくかくだったら事変は起らなかったろう、事変はこんな風にはならなかったろうという議論が起る。 必然というものに対する人間の復讐だ。はかない復讐だ。この大戦争は一部の人達の無智と野心とから起ったか、それさえなければ、起こらなかったか。どうも僕にはそんなお目出度い歴史観は持てないよ。僕は歴史の必然性というものをもっと恐しいものと考えている。 僕は無智だから反省なぞしない。利巧な奴はたんと反省してみるがいいじゃないか。(出所:ウィキペディア)
《昭和が、あの戦争が消えてゆく》
『ギブミー・チョコレート』に登場する庶民は、元気ではあるが「構造的な世間」には受け身で対面する傾きがある。敗戦に至る15年間を描いたこの作品で、主役の弘ら本郷に集う人々の生活は、終幕へと疾走する。戦況悪化に伴う生活の困難、中小企業の統合による混乱、兵士出征の増加・学徒動員・学童疎開による家族離散、東京大空襲による決定的な破綻。歴史の非情のなかで、小声で文句を言いながら、彼らは結局は大勢に従っていった。自分で状況を根っこから変えていくという思考がないのである。戦後の描写はないが、彼らは保守党が支配するレジームに依存した。歴史は彼らの外側から訪れふたたび外側へ去って行くのである。それは歴史は外部にあって連続しているという意識である。
著者飯島敏宏は、庶民の逞しさと明るさを描きつつも「あとがき」にこう書いている。
■あれから、74年が経ったいま、時間の消しゴムが消し去るように、僕たちの痕跡が、少国民が、昭和が、あの戦争が消えてゆく・・・再び、国民が「オタケサン」としか鳴けない時代が来ないようにと願って、本書を書きました。
この言い方は、歴史が庶民の外にる不条理な存在であるという見方への、自戒の弁であると私は読んだ。映像作家を主業とした飯島は、87歳にして初めて小説を書いた。軍事知識などに大きな誤認があり私には不満もある。しかし庶民の群像劇を描いたこの明るい反戦小説が、多くの読者を獲得することを、私は、泣いた「戦友」として、心から願うものである。(2019/09/28)
■飯島敏宏著『ギブミー・チョコレート』(角川書店、2019年8月刊)、1800円+税
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