脱原発は科学的な必然 (上)―Ⅰ人間と物理現象のライフサイクル、Ⅱ電力化がエネルギーを無駄にする、Ⅲ太陽光発電は石油消費を加速する
- 2011年 5月 20日
- スタディルーム
- 『環境問題』を考える近藤邦明
Ⅰ 人間と物理現象のライフサイクル
1.巨大自然災害と社会の対応
土木構造物を設計する場合、対象となる設計条件とは正に自然現象そのものといってよいでしょう。構造物に求められる寿命とその間に考えうる最も過酷な自然条件を想定して設計条件を設定して構造物を設計することになります。この場合、考えうる最も過酷な自然条件とは、過去の自然現象の観測データから構造物に求められる寿命を再現期間の上限とする最大の現象ということになります。
例えば、ある構造物の耐用年数を50年間とすれば過去の観測データの統計から、平均的に見て50年に1度くらいに発生する大雨、台風、豪雪、地震・・・を対象としてそれに十分耐えうる構造物を設計することになります。現実問題として、何らかの設計条件を定めなくては設計は出来ませんから、こうした統計的な手法を用いることは妥当であろうと考えていますし、それ以外に合理的な手法はありません。
しかし、注意しなくてはならないのは、過去の観測データを平均的に取り扱う統計的な手法を用いる限り、現実の世界では必ず例外が起こりうるのです。もしかすると明日にでも千年に一度の規模の巨大地震が発生してもおかしくはないのです。しかし、それは科学技術の限界であり仕方のないことですから、甘受するしかありません。
ただ、これまで特に日本では耐用期間中は絶対安全であるという誤った説明が行われてきていることは大きな問題だと考えています。この誤った説明や認識から、大きな自然災害、例えば兵庫県南部地震(阪神大震災)や東北地方太平洋沖地震が起きるたびに設計条件を見直す動きが起こります。
設計条件を見直すこと自体は否定はしませんが、いくら基準を厳しくしたとしても、それによって自然災害よって土木構造物が絶対壊れなくなるということは保障できないことを理解しておかなければなりません。いくら15m規模の津波に耐えられたとしても、それを超える津波が来ないという保障はどこにもないのです。15mを超える津波が襲ってきた場合には甚大な被害が生じることになります。このように、ハードな対応によって自然災害を完全に回避することは現実的には不可能なのです。 人間のライフサイクルはせいぜい50~100年程度です。これに対して自然災害、それも今回の東北地方太平洋沖地震のような巨大地震などの大災害の発生するサイクルは数百年~数千年あるいはそれ以上かもしれません。更に数万年の期間で見れば今回の地震さえありふれたものかもしれません。しかも、1万年に一度の巨大自然災害が明日起こったとしても不思議ではありません。
このような、人間のライフサイクルに比較して著しく長い周期で発生するような極めて稀な巨大な自然現象に対する備えを人間の社会システムに内部化して対応することはどのように資源と金をつぎ込んだとしても技術的に不可能なことを理解しなければなりません。
2.原子力利用技術のタイムスパン
原子力発電は、発電施設の耐用期間として40年程度を想定しています。ところが、原子力発電の操業中に生み出される高レベル放射性廃棄物の保管期間ははるかに長い年月になります。
図からわかるように、高レベル放射性廃棄物の放射能の減衰には非常に長い期間が必要になります。発電停止後に取り出した使用済み核燃料は高い放射能レベルを持っている=盛んに発熱するため、冷却プールで水冷で冷やし続けられます。その後、現在の国や電力会社の計画では使用済み核燃料を再処理して、取り除いた核分裂生成物をガラス固化体にして、数十年間冷却しながら保管し、その後にNUMOが盛んに宣伝しているように地下埋設処分で1000年程度管理するという筋書きになっています。
しかし、図からわかるように、1000年程度では高レベル放射性廃棄物の残留放射能レベルはウラン燃料の100倍のオーダー程度にまでしか減衰しません。ウラン燃料と同程度にまで減衰するには1万年オーダーの時間が必要になることがわかります。
このように、わずか40年程度の運用期間に私たちの世代が少しの電力を得ることによって、数千年~数万年もの期間にわたって人体に悪影響を及ぼす放射性廃棄物の管理を続けなくてはならなくなるのです。
しかしながら、数千年~数万年の期間において環境から放射性廃棄物を隔離し続けるような構造物を作ることは現実的には不可能です。NUMOは地下数100mのところにガラス固化体を埋設処分しているとしていますが、日本のようないたるところに活断層の走るような場所では必ず埋設施設は破綻し、地下水を汚染することになると考えるべきでしょう。
また、人間の社会的な記憶もあいまいなものです。1000年先の私たちの子孫が忘れ去ったころに地下水を放射能で汚染して影響が広がることになるのかもしれません。 私たち人間に利用が許される技術とは、基本的に人間のライフサイクルで完結できる程度のタイムスパンに収まるものでなければならないでしょう。
3.人間のライフサイクルを超える現象にどう対処すべきか?
以上、人間のライフサイクルを超えるような現象の二つの例を考えてきました。いずれの場合もその解決の方策を人間社会の中に内部化して完全に克服することは不可能です。しかし、この二つの問題に対処する方法は根本的に異なります。 まず、巨大地震をはじめとする天変地異に対する対処方法を考えます。この種の自然現象はその発生を予測することも発生を止めることもできません。今回の東北地方太平洋沖地震については、この時期にこれほどの規模の巨大地震が起こることは正に想定外であったのかもしれません。しかし、東北地方太平洋沖地震よりも更に巨大な地震が来る可能性も当然存在します。
構造物の設計条件として想定外であるか想定内であるかという問題はそれほど本質的ではありません。私たちの技術は全能ではないのですから、構造物は必ず崩れることがあるのです。それを理解した上で再現期間が50年程度という「ほどほど」の条件に対して、つまり人間の一生に一度くらい経験するであろう自然条件を設計条件として採用するのが妥当であろうと考えます。運悪く想定を超える自然災害が発生すればこれは甘受するしかないのです。
ただし、そのリスクを出来るだけ小さくする国土利用や社会構造を構築すべきです。具体的には人口と社会システムを出来るだけ広範囲に分散すること、出来るだけ狭い範囲で社会システムが完結することが最も現実的な対処方法です。現在のように能率を優先するあまり、限られた臨海部に人・物・情報・社会機能を高度に集積した巨大都市を作るなど最も愚かなことです。
次に、原子力発電システムの問題です。
まず地震によって誘発された原発事故の問題について考えます。自然現象で触れたように、想定を超える天変地異は不可避的に起こりうるのです。今回の原発事故で東北地方太平洋沖地震は想定を超えていたであるとか、いや当然この規模の地震は想定しておくべきであったなどという議論が盛んですが、私には不毛な論争としか思えません。
土木屋としては、いくら適切な設計条件を想定したとしても、構造物は基本的に必ず壊れるものなのです。それはまったく予想も出来ない巨大な天変地異が起こる可能性が否定できないこと、あるいは想定内の自然現象であったとしても設計段階で想定した以外のモードで崩壊が起こる可能性を排除できないからです。
今回の原発事故の本質的な問題は巨大地震によって破損したという問題ではなく、原子力発電というシステムが事故を起こしてはならない、あるいは事故を起こした場合における危険性があまりにも大きく、そして事故の収拾が極めて難しいシステムであったということなのです。
次に高レベル放射性廃棄物の処理・保管の問題です。これはまだ未経験の分野ですし、数千年先の状況など知るすべもない事柄です。おそらくまったく高レベル放射性物質の漏洩が起こらないということはあり得ないでしょう。
原子力発電システムの全ライフサイクルも人間のライフサイクルに比較してあまりにも長いため、人間の社会システムに内部化して利用することなど到底出来ません。ただし、自然現象は人間によって防ぐことが出来ない現象ですが、原子力発電はそうではありません。原子力発電所がなければ事故は起こらないのです。事故を完全に防ぐことが不可避であれば、一度事故が起こったときに致命的な影響を与えるような危険なシステムは利用しないことが最善の策なのです。
今回の事故の本質的な問題は、一度事故が起これば致命的な災害になることを予測できた原子力発電という極めて危険なシステムを敢えて利用してきたこと、原子力政策そのものが誤りだったのです。 原子力に対する今後の対応はもはや明白です。可及的速やかに原子力発電を停止することです。ただ残念ながら既に膨大な高レベル放射性廃棄物を作り出してしまった私たちの責任として、これを出来るだけ後世に負担をかけない形で保管する技術を国家の総力を上げて研究開発することが必要です。
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Ⅱ 電力化がエネルギーを無駄にする
さて、これまでの議論から、原子力発電という技術がまったく科学的な合理性のないものであることを理解いただけたのではないかと考えます。つまり、原子力発電の表向きの導入理由 ―― 安くて安定、しかもクリーンな発電方式というのは建前にすぎず、本当の目的=核武装準備を国民に隠蔽して原子炉の導入を正当化してきたのです。
今回の震災による福島第一原発事故によって図らずも原子力発電の隠蔽されてきた実態の一部が垣間見えてきたことによって、やっとこの事実に気づき始めた国民世論は少し脱原発というものに現実性を感じ始めたのではないでしょうか。 しかし、脱原発を目指すためには代替エネルギーが必要であるという、今度は原子力利権に代わる新たな利権に群がる勢力が早くも蠢きはじめています。
例えば、かつて脱原発運動であった市民運動がいつしかNPO法人格の取得と引き換えに体制に取り込まれ、風力発電や太陽光発電の導入促進運動に変質してきた実態をいくらでも見つけることが出来ます。
これは、残念ながら反原発運動が感情的・情緒的な非科学的な市民運動であったことと大きく関係しています。これまで見てきたように、原子力発電を自然科学的に冷静に検討すればとても発電装置として利用できるような代物ではありません。同様に太陽光発電や風力発電という自然エネルギー利用による発電装置は極めて不安定でとても使い物にならないことは明白です。
福島第一原発事故後、無能なカッコつきの『進歩的知識人』の多くが原発憎しで自然エネルギー発電を導入すべきだという愚かな主張をし始めています。
ここでは原発の停止に対する代替エネルギーとして注目され始めている自然エネルギー発電導入に科学的な合理性がないことを示すことにします。
日本のエネルギー消費は第二次世界大戦後に急激に増加し始めました。特に1960年代から1970年代のオイルショックまでの期間に急激に増加しました。その大部分が石油消費の拡大によることがわかります。
現在の一次エネルギーの構成はやはり40%以上が石油であり、次いで石炭、天然ガスが続いています。原子力は増えたといっても一次エネルギーに占める割合はわずかに10%を少し超える程度にすぎないのです。蛇足ですが、この程度のエネルギーなら、その気になればいつでも削減することは可能です。
さて、これに対して近年鳴り物入りで導入が進められてきた風力発電や太陽光発電などの自然エネルギーですが、これは図の「その他」の中の一部にすぎず、おそらく1%にも満たないのです。
次に、日本の最終エネルギー消費の動向を次に示します。
図からわかるように、最終エネルギーに占める電力の割合は20%程度にすぎません。たとえ現状の電力をすべて炭化水素燃料による火力発電以外で代替したとしても、最終エネルギーの60%程度は相変わらず石油に支えられているのです(次回に詳細に説明しますが、実際には自然エネルギー発電を増やせば増やすほど炭化水素燃料の消費は増大します。)。
本当の意味で社会システム全体の脱石油(炭化水素燃料)エネルギーを目指すのであるのならば、基本的に次の二つの必要条件を満足しなければなりません。
①社会を構成するシステムすべてを電気で駆動できるものにすること。
②すべての鉱工業生産システムを駆動するために一切石油燃料を使用しないこと。
現在言われている石油代替など、単に発電システムの非炭化水素燃料化にすぎず、脱石油ということの意味をまったく理解していない近視眼的なものです。
さて、はじめに示した一次エネルギー供給とここに示した最終エネルギー消費の総量を比較してみます。例えば2004年度では一次エネルギー供給は23.057PJ(ペタ・ジュール=1015J)、最終エネルギー消費は16.024PJです。この差はいったい何に起因するのでしょうか?
差は上図に示すエネルギー転換に伴う転換損失によって失われているのです。エネルギー転換部門の転換損失で注目すべきは一次エネルギーからの電力への転換損失の大きさが際立っていることです。
No.589「その⑥ 原子力発電は最も低効率な汽力発電」で触れたように、発電という操作は莫大なエネルギー損失を生むプロセスです。効率の高い炭化水素燃料による火力発電でも、平均的な発電効率は40%程度であり、低効率な原子力発電の平均的な発電効率は30%程度なのです。
資源エネルギー庁の2004年の統計値から総合的な一般電気事業の発電効率を算定することにします。図から、発電過程に投入された一次エネルギー量は8.312PJであり、これによって生み出された電力量は3.363PJです。発電効率は次の通りです。
3.363PJ/8.312PJ=40%
この発電過程で(8.312PJ-3.363PJ)= 4.982PJ が廃熱として消え去ってしまったのです。エネルギー転換部門における損失の合計は6.871PJですから、発電過程で全損失の 4.982PJ/6.871PJ = 73% を占めているのです。
以上の検討からわかるように、電力は最終エネルギー消費量として高々20%程度を占めるのにすぎないのですが、エネルギー転換部門での損失の73%を占めるのです。つまり、電力を使えば使うほど最終エネルギー消費で同じ効果を得るためにそれだけ一次エネルギー供給量は増大することになるのです。
これは当然のことです。例えば家庭でお湯を沸かす場合、ガス湯沸かし器を用いる場合、その熱効率は90%を超えています。つまり、1単位の熱をガス湯沸かし器に投入すれば、0.9単位の熱が湯を沸かすために有効に使われることになります。
これに対して、オール電化の電気熱温水器であれば、火力発電所で1単位の熱を投入することで、0.4単位の電力を得ます。これを家庭まで電線で送り、電熱器で熱に変換する場合、湯を沸かすために有効に使われる熱量は0.3単位程度になります。つまり、電気熱温水器はガス湯沸かし器の3倍の一次エネルギーを消費することになるのです。
以上の簡単な検討からもわかるように、電気エネルギー以外で実現できる機能を敢えて電気エネルギーで実現することによって、社会全体の総合的なエネルギー効率は著しく低下するのです。
次に、一次エネルギーの中で発電過程に投入されるエネルギー量=電力化率の変化を示します。
2000年以降、日本の一次エネルギー消費はほとんど横ばいになっています。現在の電力化率は概ね40%程度です。これまで検討してきたように、最終エネルギー消費における1単位の電気エネルギーを減らすことによって、一次エネルギー供給量は2.5(≒8.312PJ/3.363PJ)単位減らすことが出来るのです。
社会全体の総合的なエネルギー効率を高めるためには、出来る限り電力に頼らない社会システムを作り上げることなのです。
(2011.05.21追記)
ここで簡単なモデル計算をしてみます。
現在の一次エネルギーの内訳を一番上のグラフであらわせるものとします。最終エネルギーの比率は、電力用以外の一次エネルギーの転換損失は小さいので無視しています。
最終エネルギーとして電力によって賄われている2単位の半分を電気以外のエネルギーで置き換えることが出来るとします(例えば、オール電化によって導入された電気温水器など、電気の低温熱源としての利用です。)。この置き換えによる一次エネルギー量の変化を一番下の図に示します。
電力用以外の一次エネルギー量は8単位から9単位に増加します。その代わり最終エネルギーの電力が1単位減少するので電力用の一次エネルギーは2.5単位減少します。その結果、合計で一次エネルギー量は1.5単位減少することになります。
具体的に2004年度の数値を当てはめてみましょう。電力消費は3,363PJでしたから、これを2単位とすると1単位=1,682PJです。したがって、最終エネルギーの電力量を半分にすることによって、
1,682×1.5=2,523PJ
だけ一次エネルギー量を減らせるのです。これは一次エネルギー全体の
2,523PJ÷23,027PJ≒11%
に当たり、これによって原子力発電(2,688PJ)をほぼ全廃することが出来るのです。
このように、暴利を貪ってきた電力会社による『オール電化』キャンペーンによって、日本の社会的なエネルギー効率が著しく悪化しているのです。また、温暖化対策として注目されている電気自動車の普及促進も最終エネルギー形態の電力化の促進ですから、本質的に日本社会のエネルギー効率を更に著しく悪化させることになることは説明の余地はありません。
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Ⅲ 太陽光発電は石油消費を加速する
1.太陽光発電の効率
太陽光発電パネルの太陽放射から電気への変換効率は標準条件(放射強度1000W/㎡、太陽光発電パネル温度25℃、エア・マス1.5)の下で現在20%程度を実現しています。
物体は、温度によって電磁波を放射しています。表面温度25℃=298Kの物体は赤外線を放射し、そのエネルギー密度は黒体に対するステファン・ボルツマンの法則によって、次のように推定できます。
σT4=5.67×10-8×2984=447W/㎡
今、1000W/㎡の太陽放射を受ける25℃の太陽光発電パネルの理想的な発電効率ηはエネルギー保存則から次のように算定されます。
η=(1000W/㎡-447W/㎡)/1000W/㎡=55.3%
現在の実効発電効率は20%程度ですから、さらに改良の余地があるように見えます。
しかし、これはあくまでも実験室的な環境下における値であって、実際の屋外の大気にさらされた自然環境下で太陽光発電パネルを運用する場合はまったく条件が異なります。
太陽放射強度1000W/㎡とは夏場の真昼の太陽光に相当します。このような炎天下に物を放置すれば非常に高温になることは当然です。太陽光発電パネルの表面温度は60~65℃にも達します。T=65℃=338Kの場合の太陽光発電パネル表面からの赤外線放射強度は次のように算定されます。
5.67×10-8×3384=740W/㎡
更に、大気にさらされた太陽光発電パネルの表面には細かい塵などに覆われるため、太陽放射は10%程度低減します。これらを考慮すると、屋外における最大発電能力は次のように算定されます。
1000W/㎡×(1.0-0.1)-740W/㎡=160W/㎡
つまり屋外環境における発電効率の上限は16%程度ということになります。現在の太陽光発電パネルの屋外の実績では概ね10%程度の変換効率を達成していますので、技術改良による変換効率の改善幅はほとんどないと考えられます。
2.太陽光発電パネルの発電能力の実績
日本で運用されている太陽光発電パネルの運用実績では、発電能力は100kWh/(㎡年)程度と言われています。現在最も普及している戸建て住宅用3kW太陽光発電システムの有効受光面積を30㎡程度、その価格を260万円としておきます。
この太陽光発電パネルの耐用年数を標準的な17年だとすると、運用期間中の総発電電力量は次の通りです。
100kWh/(㎡年)×30㎡×17年=51000kWh
この戸建て住宅用3kW太陽光発電システムによる電力の単価は次の通りです。
2600000円÷51000kWh=50.98円/kWh
参考に資源エネルギー庁による推定値を次の表に示します。ここでの推定値はほぼ妥当なものだと考えられます。
太陽光発電のエネルギー・コストはかなり前から推定されています。少し古いデータですが、室田武の研究によると「・・・ただし、太陽電池による太陽光発電のような技術について、設備の製造・維持に要する貨幣コストの概略は知られているから、そのデータを頼りにしてエネルギー・コストを推定してみると、いちおう妥当と思われる耐用年数の仮定のもとで、電力産出一単位あたりの石炭・石油エネルギー投入量は、太陽光発電のほうが火力発電より、少なくとも三倍程度高い。」(室田武著「新版原子力の経済学」日本評論社、1986年)と述べています。
ここでも、前節で導いた経済コストを頼りに太陽光発電のエネルギー・コストの算定を試みることにします。算定の前提条件を以下に示します。
太陽光発電について
●太陽光発電の発電効率 10%
●電力原価 50円/kWh
石油火力発電について
●石油火力発電の発電効率 40%
●石油火力発電の発電原価に占める燃料費の割合 60%
●電力原価 10円/kWh
共通の仮定
●燃料石油価格 25円/リットル
●燃料石油エネルギー量 9Mcal/リットル=37.8MJ/リットル=10.5kWh/リットル
●発電施設建設・運用コストの内のエネルギー費の割合 20%
以上の条件で計算した電力生産図を次に示します。
電力生産図の左から右への流れが電力の原料から製品である電力への流れを示します。石油火力発電では発電の効率は40%ですから、1kWhの電力を生産するために投入される石油は2.5kWhになります。つまり電力1kWh当たりの燃料石油価格は次の通りです。
25円/リットル×2.5kWh÷10.5kWh/リットル=6円
電力生産図の縦方向の流れは、燃料費以外のコスト、つまり発電施設の建設・運用に投入されるエネルギーや資源の量を示し、これを耐用期間で均等に償却するとした場合の発電量1kWh当たりの費用を示します。発電設備建設・運用コストは10円-6円=4円になります。この内20%が発電施設建設・運用にかかわるエネルギー・コストになり4円×20%=0.8円になります。以上を合計すると、石油火力発電の電力1kWh当たりに投入される石油換算の総エネルギー費用は6.8円/kWhになります。
太陽光発電では電力の原料は太陽光という自由財なので経済コストは0です。よって、電力の経済コストはすべて発電設備建設・運用にかかわるコストになります。太陽光発電の電力1kWh当たりに投入される石油換算の総エネルギー費用は 50円/kWh×20%=10円/kWhになります。
以上の検討から、単位発電電力量当たり、太陽光発電は火力発電の 10/6.8=1.47倍の石油を消費するのです。
更に注意すべきことは、単位発電電力量当たり太陽光発電は火力発電の4.17/1.83=2.28倍の廃熱を環境中に放出するのです。また、耐用期間経過後には経済価値で40/3.2=12.5倍の固体廃棄物が生じることになります。
このように、太陽光発電という資源・エネルギー浪費的な低効率の発電装置を利用するためには、電力の原料としての燃料は0であるにもかかわらず、石油火力発電の約1.5倍の石油を消費し、2.28倍の廃熱を放出し、12.5倍の固体廃棄物を作り出す、極めて環境破壊的な発電システムなのです。
(続く)
「『環境問題』を考える」 http://www.env01.net/index02.htm から転載。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔study391:110520〕
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