「〈近代の超克〉新論」の地平
- 2019年 11月 2日
- 評論・紹介・意見
- 小林敏明川端秀夫廣松渉近代の超克論
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2019年10月5日午後1時から明治大学駿河台校舎:研究棟第9会議室で始まった「廣松渉没後25年」記念研究会は、おおよそ70余名の参加者を得て活況の内に幕を閉じた。講演と討議の4時間に渡るイベントが終了した後も懇親会には35名ほどが参加。さらに3次会にも20名ほどが参加し議論はなかなかに尽きなかった。終電迫る23時をかなり過ぎた頃になってようやく集いは散会となった。おそらく今回のイベントは廣松渉研究の重要性と近代の超克というテーマの意義を再発見させる鮮明な記憶となって参加者の脳裏に焼きついたのではないか。そう思念される。それにしてもこのまる1日延べ10時間を越える時間帯すべてに漂っていた熱気はいったい何だったのか。その正体を突き止めてみたい気を私に起こさせるのである。
しかし今回の研究会に関しては名著『廣松渉の思想 ―内在のダイナミズム』の著者である渡辺恭彦氏が小林敏明氏の講演とその後の討議の内容をも含め丁寧に要約した上でさらに鋭い問題提起を突き付けておられる(註1)。数度読み返してみたが怜悧な文体の底に熱い情熱がたぎりたつ様子が伝わってくるのを覚えた。随所に考えてみるべき貴重なヒントが埋め込まれたこの報告文の後に私が何を述べても蛇足となるであろうことを恐れるのだが、研究会開催の前にイベントの意義について宣伝文めいたことを書いた手前もあり(註2)、私なりに若干の感想を付け加えることとする。
※註1;渡辺恭彦:小林敏明氏「近代の超克」新論を拝聴して;http://chikyuza.net/archives/97945
※注2;川端秀夫:「〈近代の超克〉新論」に期待する:http://chikyuza.net/archives/97262
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10月5日は一つの事件であった。もはや伝説となった事件と云って良い。それは遠く離れて住む人同士を一堂に集結させた稀な機会という意味に於いて事件であったし、年齢・境遇・思想・人生経験がかけ離れた人同士が一日その思いを交錯させた稀な機会であったという意味においても事件であった。
歴史が転換するのは個人の場合でも組織や共同体の場合でも変わらない。その転換の前段階に必ずひとつの出会いが用意されている。歴史にその具体例を尋ねるならば、たとえば薩長同盟の成立などは典型的である。昨日まで殺しあっていた敵同士がどうして同盟などできようか。友を殺した怨敵と結ぶなどたとえいかなる大義名分を示されようと心情の部分において不可能ではないか。死んだ友にいかなる釈明ができようか? しかし歴史的事実として現に薩長同盟は成立した。そこに歴史の進展の契機があったのである。この同盟の締結に果たした坂本龍馬の活躍は良く知られているので詳説は省く。出会いによって進展が図られるというのは物的な過程においても見られる現象である。燃えやすい気体である水素と酸素が合体すると燃えにくい液体である水に変貌する。水素原子2個と酸素原子1個の結合によって新たな水が生まれる現象と、薩長同盟の成立によって徳川幕藩体制を打倒する武力中枢が成立した歴史的事件とは、出会いが新しい世界を創るという意味あいに於いてパラレルである。
話が飛び過ぎた。もう一回話を引き戻して10月5日が私にとっていかなる事件であったか、個人的な経験を語ろう。私にとって古賀暹(こが・のぼる)氏と面識を得たのが今回の最大の収穫であった。古賀さんは懇親会の席上、隣に移ってきた私にいきなりこうおっしゃったのである―「あなたと会うためにぼくは上京してきました」と。これは実話である。ここに至るまでに経緯があるのだが長くなるので省略する。では古賀暹氏とは何者か? 現在という時点で言うならば古賀氏は何者でもない。瀬戸内海の離れ小島弓削島に暮らす無名の人、世の中と関わりを持たぬ匿名の仙人といった存在である。古賀氏の人生は曲折に満ちていて簡単には語りえない。説明できない。ただ廣松渉との出会いが古賀氏の一生を左右する事件であったことは紛れもない事実であろう。ふつう古賀氏の名は雑誌『情況』の初代編集長として知られている。この『情況』の創刊が廣松氏との出会いによって準備されたのである。これは有名なエピソードなのだが、ご存知ない方も多いと思うので、本人の証言を引用しておく。
≪明大闘争のあとやることがなくなってしまった。でも、このまま戦線から消えるわけにもいかない。何とかブントを支えつつも僕にしか出来ない別な道をいかないと格好が付かない。それでブントをはじめとする大衆闘争の援護が出来るような雑誌、また理論誌でもあるような雑誌を出そうと思った。それが『情況』のはじまりです。でも雑誌作るのは大変なんすよ。当時は僕もまだ二十六、七歳だった。雑誌を作るのには金がいるけど、金なんかありゃーせん。廣松さんにもそんな夢を話したな。
そしたらある日、突然、廣松さんから電話がかかってきて 「神保町の喫茶店に来い」 という。出かけていったら、「雑誌の話はどうなった」と聞いてくる。「お金も集まらないし、雑誌なんて出せるわけがありません。冗談ですよ」と言うと、真夏だったんだけれど、いきなり廣松さんがワイシャツを脱ぎだした。冷房がきいている喫茶店の中で裸になるわけです。ワイシャツを脱ぐとサラシが巻いてあって、そこからポンと一〇〇万円。サラシから湿った一〇〇万円(笑)を出して 「これ少ないかもしれないが、新雑誌発刊の一部にしろ」と言う。僕は、「あれは夢を語ったに過ぎません。それに、具体的な計画や準備があるわけではありませんから、このお金はいずれ改めて拝借します」と、そのお金を辞退しました。しかし、廣松さんは「男がーたん出した金を引っ込めるわけにはいかない。このお金は僕の志だ。雑誌が出来ないのなら好きなように遣ってくれ」と格好よくいうので。それで僕は無理をしても『情況』をスタートさせようと努力しなければならなくなったのです。廣松さんは、本当、革命家だよね。その一〇〇万円は当時入った原稿の印税をみんな持っていったのではないかと、廣松さんの奥さんの邦子さんは言っていますが、それはびっくりしました。
(荒岱介編『破天荒な人々-叛乱世代の証言』130頁、彩流社2005年)≫
「廣松さんは、本当、革命家だよね」という古賀氏の発言には実感がこもっている。この革命家である廣松渉の精神を継承する一番弟子であろう人が、私の見るところ古賀暹さんなのである。「私にとって古賀暹氏と面識を得たのが今回の最大の収穫であった」と上に述べた気持ちが少しは伝わっただろうか。
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研究会当日の講演や討議の話題に戻ろう。それに関しては研究会が終わった後に私が講演者小林敏明氏・司会者石井知章氏・研究会主催の合澤清氏の三者に送ったメールをそのまま引用するのが手っ取り早いかもしれない。この三者とのメールによる応答が始まった経緯だけを簡単に述べておく。有意義な研究会だと思うので動画に撮りユーチューブで公開したらどうかと合澤氏に提案したのが発端である。諸事情を勘案して最終的には動画公開は見送りになったが、これにより私を含む4人でのメールでの応答が可能になった。研究会終了後、私の提案に真摯に応答して頂いた三者へのお礼の意味合いも兼ねて、すぐに研究会の感想をメールで送ったのだ。前置きとしてはこれで充分であろう。以下、そのメール本文を引用する。
≪ 2019/10/07 8:59 川端秀夫より合澤清・小林繁明・石井智章三氏宛のメール本文
合澤様、小林様、石井様。一昨日はお疲れさまでした。そしてありがとうございました。
私も誘導ビラを貼ったりして、個人的に少しはお手伝いしましたので、今回の研究会の大成功は、正直嬉しいです。超満員の聴衆が結集した4時間の研究会の熱波の余韻が私にはまだ身体の中に余熱として残っています。今回のイベントは廣松渉研究の画期をなすものではないかという気がいたします。イベントの後の二次会、三次会での多くの方との対話も、個人的に収穫大の貴重なものでした。
少しだけ特に個人的な収穫として私が得たものを報告させて下さい。それはちきゅう座に掲載させて頂いた拙文にも関わるのですが、そのエッセーでは橋川文三のことばかりと言っていいほど、橋川の『日本浪曼派序説』という作品のことを述べています。これでは廣松渉研究会の宣伝のためのエッセーにならないのではないかという疑念が、橋川文三のことをほとんどないしはあまりご存じない方には、湧くかもしれないと思われます。
しかし私にはある内的な確信というか直観のようなものがございました。橋川文三と廣松渉は深層で繋がっている。もしくはその両者を踏まえて見渡し得る地平があるはずだ、という思想史的な視座の存在への問題意識でした。この直観は小林先生の研究会での講義内容と懇親会でご教示頂いたお話で完全に客観的に確かめられたと思っています。
まず先生の講演でのご発言の要旨はこういうものではなかったかと記憶します。廣松の仕事の第一義はマルクス研究にあり、マルクスが切り開いた近代の超克の地平を展開することにあった。京都学派の近代の超克の理論の批判的解明の作業、つまり『<近代の超克>論』の仕事は、したがって廣松に取っては第二義の仕事である。なぜ廣松がこの著を書いたのか。それは編集者の熱心な
依頼があったからではないか。私はこの著作の成立事情をそのように推測している、というお話をされました。
そのお話を受けて、最後に廣松夫人邦子様が研究会開催のお礼を述べられた後、この著の成立事情をお話しされました。その要旨はこういうことだったと記憶します。
「廣松は、戦後に京都学派の評価が不当に貶められたことを憤っていました。京都学派はもっと評価しなければいけないと申しておりました。そういう事情があったので、編集者から依頼を受けたのであの著作を書いたのです。廣松は弱い者の味方をしたのです」とおっしゃいました。
正確な表現ではないと思いますが、要旨はそういうことだったと思います。なぜこの廣松夫人のお言葉が印象深く記憶されたかと言いますと、橋川文三が『日本浪曼派序説』という書を書いたのも、まったくその動機は廣松渉と同じではなかったか思われるからです。廣松夫人の発言をそのまま橋川夫人の言葉に書き換えてみます。するとこうなります。
「橋川は、戦後に日本浪曼派の評価が不当に貶められたことを憤っていました。日本浪曼派はもっと評価しなければいけないと申しておりました。そういう事情があったので、編集者から依頼を受けたので、あの著作を書いたのです。橋川は弱い者の味方をしたのです」。
橋川文三の奥様がこういう発言をなさることはありえません。橋川文三氏の結婚は先生が『批判序説』を書かれたあとだったからです。ちなみに結婚式の席上に出版社から初版成ったその著が届けられたというエピソードが残っています。
話が反れました。懇親会の席上で小林先生からご教示頂いたお話が耳に残っています。廣松渉の著作では日本浪曼派に対する評価が低いのです。評価が低いというよりは関心が薄いという言い方の方が正確かもしれません。その評価が私にはどうも十分に納得できないという気持ちがありました。先生に、講演の中で日本浪曼派の評価ないしは批判についての話題が出なかったことに対して疑問を口にしたところ、先生のお答えはこういう内容だったと思います。
「私は、丸山眞男、この人はじつは私はあまり好きではないが、その仕事は評価しなければならないと思っている。丸山眞男の著作『○○』(註:著作名、聴き取れず)と、廣松渉の『〈近代の超克〉論』、それに橋川文三の『日本浪曼派批判序説』、この三作が戦後思想史の三大名著と思っています」という、これまた表現は精確ではないですがそういう要旨の発言を頂きました。
今回のイベントで得た私の収穫というのは要はこういうことでした。橋川文三の仕事と廣松渉の仕事を架橋し、その総体を見渡すような視座があるはずだ、ということ。その視座ははるか高峰にあって、容易にそこにたどり着くことはできないけれども、紛れもなくそこにあることは視界にはっきり見えている。その姿を現している以上、登頂の決意さえあれば、そして努力さえ加われば、その視座を客観的に誰にも分かるかたちで提供できるのではないか。そういう妄想(よく言えば仮説)を私は抱きました。
ながながと盲説を申し述べました。長文失礼しました。改めて今回の研究会を企画されました合澤様、司会と会場の設定とに尽力されました石井様、ご講義頂きました小林様に、お礼申し上げます。ありがとうございました。 川端拝 ≫
この感想報告に対してすぐに小林氏よりコメントを頂戴した。本人の了承を得てそのメールを引用する。
≪ 2019/10/07 9:54 小林敏明氏より川端秀夫宛メール
川端さん
真摯な感想ありがとうございました。
僕があの場で挙げたのは丸山眞男『日本の思想』、橋川文三『日本浪曼派批判序説』、廣松渉『〈近代の超克〉論』の三冊です(あくまで戦後に書かれたものの範囲内でのことですが)。
これらの著作に通底する日本近代思想上の重要問題がまっとうに考えられないまま忘却されて(風化して)いくことを僕は怖れます。この知的格闘を忘却すれば、日本は相変わらずモード思想に翻弄され、その対極につねにナイーヴな右翼的心情が反復的に再生産されていくと思います。80年代以降今日に至る経緯はその証左のように思われてなりません。
小林 ≫
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10月7日に感想メールを書いてからすでに3週間以上経っている。長文はインターネットではあまりふさわしくない。その間様々なことを考えてきてはいるが、その内容は別の折にでも述べることとしたい。ここではただ次のことだけ付け加えておく。それは現代において革命家はどのような姿で現れうるであろうかという問題である。その点についても古賀氏との懇親会での対話が私には有益であった。古賀氏は廣松渉とご自分との関係を玄奘法師と孫悟空の繋がりに譬えられた。「自分は子供の頃に孫悟空という綽名だった。孫悟空の前に玄奘法師が現われたのですよ。それが廣松渉だったんです」と。このお話は私にはある連想を誘うものだった。レーニンでもなくチェ・ゲバラでもなくもちろん毛沢東などでなく新世紀の東北アジアにほんとうに必要な革命家、もしその姿を幻視せんとするならば、それは新たな玄奘法師の再臨ではなかろうかと。21世紀のアジアに資本主義を超克する共同体が出現する夢を廣松渉は生涯に渡って抱き続けた。東北アジアが世界革命の胎動の起点となることを廣松渉は祈念し夢半ばにして逝ったのである。この廣松の挫折した夢を継承する人は現われるのか。それとも資本主義の超克など永遠に不可能なのか。夢は決定的に絶たれたのか。それでいいのか?〈近代の超克〉新論の議論の地平はそのような課題を追及するに在ったのではないか。私にはそういう推論の帰結が残った。妄想と言われようとかまわない。大乗の精神性を担った革命家が現われ、玄奘法師の意向を忖度して無数の孫悟空が東北アジアの空を自在に飛び回る。21世紀の革命のヴィジョンを私はそんなふうに脳裏に描いてみた。そんな世界が到来することを廣松渉は最期に願ったのかもしれないと思うのだ。
廣松渉はその亡くなる二か月ほど前の1994年3月16日の朝日新聞に生前最後となる文章を発表した。朝日新聞記者が最悪の見出しを付けたせいもあって誤解されることの多いこの文章だが、注意深く廣松の真意を尋ねる読者にはそこに潜む遺言のトーンを聞き逃すことはないはずである。それはその一生を真に革命家として生きんと決意した男が人生最期に発した言葉。いわば白鳥の歌である。
「世紀末について語るにはまだ早過ぎるような気もする。ましてや、東北アジアが歴史の主役になるとの予想は、大胆すぎるかもしれない。しかし、二十世紀がもうすぐ終わろうとしていることを考え、また、筆者が哲学屋であることに免じて、書生談義をお許し願いたい。」(廣松渉「東北アジアが歴史の主役に」1994/3/16 朝日新聞夕刊・文化面掲載)
これが書き出しの言葉である。慎重さと大胆さの矛盾した内容の調子を「書生談義」という言い方で見事にかわしている。次に時代の変遷を縷々述べた後、状況の最終的な帰結を、廣松は次のようにまとめる。
「コロンブスから五百年間つづいたヨーロッパ中心の産業主義の時代がもはや終焉しつつあるのではないか? もちろん一体化した世界の分断はありえない。しかし、欧米中心の時代は永久に去りつつある。」(同上)
そして廣松の結論=主張は、このように述べられるのである。
「新しい世界観、新しい価値観が求められている。この動きも、欧米とりわけヨーロッパの知識人たちによって先駆的に準備されてきた。だが、所詮彼らはヨーロッパ的な限界を免れていない。混乱はもう暫く続くことであろうが、新しい世界観は結局のところアジアから生まれ、それが世界を席巻することになろう。日本の哲学屋としてこのことは断言してもよいと思う。」(同上)
廣松の予測の先駆性は明らかである。いまこそ新しい世界観が求められているのではないか。廣松のなした予言=「新しい世界観は結局のところアジアから生まれ、それが世界を席巻することになろう」はまだ果たされていない。その点では見事に外れた。しかしそれが果たされるべきであるという意味ではそれは我々が聞き取るべき切実な予言であったのではないか。私の言っていることはまちがっているだろうか。そうは思えない。廣松渉の言葉は肉声としていま現にしっかり我々の耳に届いているではなか。それこそまさにその厳密な証明であろう。1933年8月11日にこの世に生を享けた廣松渉は1994年5月22日に没している。享年60歳。有り余る才能を蔵した人間にとっては短かすぎる一生であった。
長くなり過ぎた。この問題に関わりがある内容の古賀氏より私宛のメールを一通だけ引用してこの稿を終ることにする。
≪ 2019/10/19 12:20 古賀暹氏より川端秀夫宛のメール本文
昔、あなたが使った言葉にヴォワイアンというのがありましたね。この言葉のことがずっと頭から離れなかったのですが、私流に考えれば andesres Sain bei sich ということになるのではないかということになるような気がします。自己が自己でありながら他者になるという二重化(Verzweiung)です。ヘーゲルが用いた言葉、だと思いますが―神の自己外化であるのが人間であり、神は神として人間の傍らにいる、という神学思想を受けついた言葉―ですが、これが、物書きにとっても、市井の人間にも、政治家にとっても、持たざるをえない、もっとも、大事なものではないかと思っているのです。
そこで、問題になるのは、bei sich のsich 、つまり、自己ですが、これが神ではなく、「空」だということが仏教思想だと思えるのです。しかも、その自己は恒に自己を空化しなければいけない自己であらねばならない。そのためには菩薩行を積まなければならない、自己を他者に尽くすことによって生きなければならない。いや、そうしなければ、生きられない。これが菩薩です。
ヘーゲルと菩薩がごちゃ混ぜになり、論理的には、筋が通っていないかもしれませんが、筋を通すのは哲学者の役目で、僕はあまり関心はありません。関心があるのは、こうした感情の上に立った、大衆と党ということです。長崎浩は叛乱と政治をわけて、大衆にはアジテーターを配置し、同時に党を私党として考えました。アジテーターは大衆の一歩先に立って、叛乱を極限まで押し詰める存在です。つまり、どこまで、行っても尽きるところはありません。(ネグリの『構成的権力』の近代の叛乱論は、長崎の「反乱論」と同一)
したがって、敗北が行きつく先です。そして、党の役割は、その叛乱を政治に変えることだと言います。うまく、この党が叛乱が政治に転化できるかは疑問ですが、此の分け方にしたがえば、「党」は『空』でなければならないということになりますね。
しかし、言うまでもなく、党は理念を持たねばなりません。しかし、空が理念を持つということは、ある意味では、不可能です。つまり、自己の判断を実体化(物象化)しつつも、それが無自生であること、空であることを知ってなければいけないということですから。≫ 2019/11/1記
※参考文献一覧(ネットで参照できる記事に限定)
1 合澤清:前口上/廣松『〈近代の超克〉論』研究会(10月5日)によせて
http://chikyuza.net/archives/97576
2 川端秀夫:【霊告月記】第四十七回 「〈近代の超克〉新論」に期待する
https://blog.goo.ne.jp/dan5dan5/e/d309aae55303a55dc77b23b26aa0a044
3 岩田昌征:「<近代の超克>新論」への素人的感想二つ
http://chikyuza.net/archives/97947
4 石井智章:(近日中に研究会の感想記事をちきゅう座に掲載予定)
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔opinion9136:191102〕
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