真正の人道は地勢と共に存在すべき ――田中正造・第1部(2)
- 2019年 11月 5日
- スタディルーム
- 田中正造野沢敏治
1 田中正造が田中正造になる準備
正造が鉱毒問題にかかわるのは1891年(明治24年)の第2回議会での演説からである。その2年前に大日本帝国憲法が発布され、1年前には第1回総選挙が行われていた。正造は衆議院議員に当選し、第1回議会が開かれていた。何事にも前史がある。芝居で幕が開くと役者が演技を始めるが、その前にすでにその始まりを準備していた時間と場所、できごとがある。正造の場合も同じであった。そのことを鉱毒問題に取り組む以前の『田中正造昔話』(『読売新聞』1895年・明治28年9月1日~11月24日)によりながら、鉱毒問題に集中する後半生の正造につながるものを確かめておきたい。この『昔話』での記憶は読んでわかるが、「一方に専らなるを心掛て他方は総て之を忘る」ことによって得られたものであるが、その精密なことに驚いてしまう。材料は整えられ、筋がよく通っている。「手が掛っている」(木下尚江)のである。
剛情な性格
正造は1841年(幕末の天保12年)11月3日に下野国阿蘇郡小中村(現在の栃木県佐野市小中町)に生まれ、1913年(大正2年)9月4日に運動中に亡くなっている。享年73歳。彼は『昔話』の冒頭で「予は下野の百姓なり」と称しているが、家は祖父の代から名主であった。江戸時代の名主は富農であり、近傍農家の世話役をしたり幕藩体制の末端の行政を担っていたから、その社会的地位は普通の百姓とは違う。彼はそういう家に生まれ、育ったのである。その性格は自他ともに認めるように、また後に歌「ありがたや 正造さん」にまで伝えられているように、「剛情」であった。その一端――正造が5歳の時、絵を描いて下僕(ここでも名主の階級的地位が分かる)にどうだと示すと、上手でないと言う。正造はではお前が俺よりうまく描いてみろと怒る。下僕は何度か謝るが、彼は聞き入れない。そばで聞いていた母はついに怒り、正造を雨夜の戸外に出す。正造はそれが身に染みて反省したという。この剛情はその後も中身は違っても生涯変わることはなかった。では剛情はどこに向かっていったか。
公共に献身し、経済と自治を大切にする
正造は19歳で名主職を受け継ぎ、その職務を行うが、やがてそれ以上の「政治」に目ざめ、公共の「正義」を実現することに献身していく。小さな箱庭の整理からはみ出て他と折衝し、大義名分の行動に出ていく。彼は封建的な事大主義を嫌い、野心家だったのである。父はその正造に自分の地位をわきまえて政治に口を出すなと戒めたが、正造はそれを破り、なんと領主の六角家の改革に走る。幕末ではどこも同じであったようだが、領主の役人が公金を使って館の普請や土木事業をするのに出入りの商人から賄賂をとっていた。彼はそれを批判するが、早くもこの時から公金の「経済」を論ずる。彼は細かなそろばん勘定は苦手であったが、大まかな計算をして利益の有無を問題にする。また、名主は村内の百姓の公選で決まる慣習であったのに、それをこっそりと破る役人がいた。彼はそれら奸臣=「腐敗派」の行動を「お家」のためにならないと領主に訴える。木下も述べたように、彼はここですでに佐倉宗五郎のようなことをやっていたと言える。彼は自分を支援する者を「正義派」とみなし、腐敗派と二分する。この二分論は公共の正義を実現させる運動の側の論理であり、その後もずっと一貫させられる。だが正義派からは家や田畑を売り、家族離散する者犠牲者が出る。彼はそのことで胸を痛めることになる。社会的正義を貫くことには犠牲がつきまとう。
その後、正造は岩手で役人となるが、殺人の嫌疑を受け、取り調べの拷問に頑強に耐えていく。彼は自分では無学と言っているが、牢屋にいる間に自分の視野が狭かったことに気づき、政治経済についての福沢諭吉のものや西洋紹介もの、中村敬宇の西国立志編を読んで学んでいる。天下の大勢は一新したのである。
正造は殺人の嫌疑が晴れたので村に帰り、隣村の酒屋の番頭となる。でも彼は商売に向く気性ではなかった。馬喰が店に来て酒を飲みたいと言うのに、彼はその馬の世話がずさんなことに怒って酒を出さないのだから! 当然主人は彼を解雇する。彼はこの種の経済には暗いのである。次回に正造が対立する銅山主の古河市兵衛を取り上げるが、市兵衛は反対に商売上手であった。
さて、正造はもう村の中にいるだけですまなくなる。明治維新後、彼は土地を転がしてお金を儲け(――この事実には研究者から疑問を出されている)、それを資金にして今度はもっと広く天下に目を向け、「一身以て公共に尽す」と決める。私利や家族を顧みず(――彼はけっして妻のよき夫ではなかった)、「政治改良」に専念するのである。地域の新聞で評論の筆を揮い、栃木県県会議員となり、立憲改進党に入党して、明治10年代の自由民権運動に加わる。
公共土木事業の不経済を責め、権利を主張する
そしてぶつかったのが栃木県の県令・三島通庸。三島は公共の名で土木事業を強引に進め、「土木の神」と称されていた。正造はここでも論経済計算に置いて三島の「経済の偏頗」を暴露し、公共を欺くものだと責める。三島は栃木の旧県庁の普請にあたって町に大金を出費させ、ついで宇都宮に県庁を移転させる際には大金を支出する。施設や道路の建築に民有地を献納させたり、町から資金を徴収する。でもそれに応じたほとんどの者は補償の「権利」を知らなかった。補償の権利は法律で保障されていたのに。正造は以上のことを「不経済」と批判する。
その経済計算の例――正造は三島がある郡の施設の建築に強要した寄付金を1万円余と見積り、それと用材費・人夫費を比較した。後者はわずか1千4,5百円。人夫費は無代であった!また、三島は有用性が疑問視される新道(――すぐに廃道となる)を開鑿し、奥羽街道のすでに決められていた改修路線を変更させた(――汽車鉄道の敷設で無用となる)が、それらは一部地域の利益になっても全体の利益はあがらなかった。正造はこんな具合にして三島が栃木県で着手した土木事業の明細をかかげ、「損害」の概算をおこなう。それも有形直接の損害と無形間接の損害(――教育停滞、風俗紊乱等)とに分類して。私はその経済計算に上からの経済開発・無法な土木事業に対抗して内からの地域づくりの考えが潜んでいる思いがする。
後の回で示すが、正造は以上の経済計算と権利主張の延長上で、足尾鉱毒問題に取りかかっていくのである。彼が鉱毒問題に取りかかったのは突然のことでなく、その前史から見てごく自然であったのだ。それも単なる延長ではない。経済計算はずっと細かくなり、その意味づけも深まる。住民への説得が権利はエゴでなく正義であると進む。そして公共精神が政治社会だけのことでなく、人間と自然との交渉のありかたにまで発展し、深化するのである。
私は以下に正造の鉱毒問題への関わりを追うが、2つに分けたい。最初に足尾銅山の鉱業停止運動(第1部)を、次に谷中村の遊水地化反対運動(第2部)を取りあげる。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://chikyuza.net/
〔study1075:191105〕
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