「表現の不自由展・その後」の中止と補助金不交付問題についての声明
- 2019年 11月 9日
- 評論・紹介・意見
- 日民協澤藤統一郎表現の自由
日民協は、「あいちトリエンナーレ」の企画展「表現の不自由展・その後」をめぐる一連の問題について、一度は権力を持つ者などからの圧力によって中止に追い込まれたこと、そしていったんは決まったはずの補助金交付が事後的に不交付とされたことについて、看過できないとして下記の声明を出した。ことは、憲法の定める表現の自由に関わる。やや長文であるが、ぜひお読みいただきたい。できれば、拡散もしていただくようにお願いしたい。
なお、「法と民主主義」11月号は、この「表現の不自由展・その後」の問題を特集として取りあげる。タイムリーというだけでなく、興味深く読んでいただける内容になるはず。楽しみにしていただきたい。
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2019年11月7日
日本民主法律家協会
8月1日から愛知芸術文化センターで開催された国際芸術祭「あいちトリエンナーレ2019」の一部を成す企画展「表現の不自由展・その後」について、翌2日に会場を視察した河村たかし名古屋市長は、展示物のなかに〈平和の少女像〉などが含まれていたことを理由に、「日本国民の心を踏みにじるもの」などと発言して展示の中止を求め、それを受けて同日、菅義偉官房長官も、「あいちトリエンナーレ」が文化庁の助成事業であることに言及し、「審査の時点では具体的な展示内容の記載はなかったことから、補助金交付の決定にあたっては事実関係を確認、精査して適切に対応したい」と述べ、補助金交付の是非など対応を検討する考えを示しました。
これと前後して、インターネット上で企画展に対する批判や攻撃が数多くなされ、主催者側に対しては抗議の電話やメールが多数寄せられるとともにテロ予告や脅迫が相次ぎ、わずか3日間で企画展が中止されるに至りましたが、その後、企画展は、再開を望む多くの声を受けて、入場制限を課し、観覧方法を変更したうえで、10月8日、再開されました。
ところが、文化庁は、企画展の再開の方向性が決まった翌日の9月26日、円滑な運営に対する懸念があったにもかかわらずそれを申告していなかったという「手続上の不備」を理由として「あいちトリエンナーレ」への補助金、約7800万円の全額の不交付を決定しました。
私たちは、これら一連の出来事は憲法21条が保障する「表現の自由」を侵害する重大な問題を含むものであると考え、以下のとおり意見を表明いたします。
第一に、私たちは、河村名古屋市長や菅官房長官などの自治体や政府の主要ボストにある政治家による展示会中止に向けての圧力は、憲法21条の保障する「表現の自由」を侵害する重大な問題であると考えます。
憲法による「表現の自由」の保障の中心的意味は、政府に対する自由な批判を保障することにあります。政府や政治家が抽象的な理由で制限を加えることが看過されるならば、表現の自由の中心的な意味が失われ、民主主義が形骸化してしまうおそれがあります。
表現の自由が広く国民に認められ、国民が自由に表現を行うためには、その機会を提供することも重要です。政府や自治体が文化的な催しを後援することは、国民が表現する機会を豊かにし、多様な表現を確保するのに役立ちます。そのために公的な助成が行われる場合、表現の内容に介入しないことが前提になります。そのような態度を貫くことで、国民の表現の自由が実質的に確保されることになるからです。
また、「表現の自由」には「知る権利」の保障も含まれています。他者が表現したことを「受け取る」ことも「表現の自由」の一部です。多数者の表現だけが許され、少数者の表現が締め出されるならば、国民は多数意見にしか接することができなくなります。政府や自治体は多様な表現の機会を保障し、多様な少数意見にも接することができるようにすることが求められます。
このような観点からみると、河村名古屋市長や菅官房長官の企画展への介入は、憲法21条1項によって保障されている「表現の自由」を踏みにじる行為にほかならず、多くの観客が作品を目にすることを阻止しようとしたものとして、憲法21条2項によって禁止されている「検閲」に相当する効果を持つものです。
現在の日本に「表現の自由」があるのかを問い直そうという「表現の不自由展・その後」が攻撃を受けて中止されるという異常事態は、民主主義の根幹である「表現の自由」が奪われたことを意味します。表現者や表現行為に対する脅迫行為は決して許されてはなりません。政府や自治体には、表現の自由を妨害する行為を阻止し、「表現の自由」と「知る権利」を擁護することこそが求められます。一連の出来事の経過を振り返ってみると、名古屋市や政府の対応は、少数者が表現する機会を著しく狭め、多様な表現を「知る権利」を制限するものであったといわざるを得ません。
第二に、私たちは、文化庁による補助金不交付決定について、何よりもその理由が展示内容を理由としたものではないという言い分に疑問をもちます。
8月3日時点での菅官房長官の発言は、河村市長の発言に連動し、「具体的な展示内容」に言及した上で、「事実関係を精査して補助金交付の是非を検討する」としていました。一連の経過からみて、9月26日の文化庁の補助金不交付決定は、8月3日の菅官房長官の発言に呼応し、再開が決まった企画展の「表現内容」を理由として、いったん交付が事実上決まっていた補助金を不交付とすることにより企画展の再開を妨害する意図があったことが強く推測されるものであり、「検閲」と同視すべき違憲・違法な決定であった疑いがあります。
この点で、文化庁が「あいちトリエンナーレ」への補助金の不交付決定をするに際して、その意思決定に至る過程の記録を何も残していないことには重大な疑義があります。公文書管理法4条は、各行政機関に文書作成義務を課し、経緯も含めた意思決定に至る過程や行政機関の事務・事業の実績を合理的に跡付け、検証することができるよう、処理に係る事案が軽微なものである場合を除いて、文書を作成しなければならないとしています。
この規定をうけた文科省の文書管理規則では、文書作成義務に加えて、地方公共団体等を含む公私の団体に補助金等を交付する場合には、「交付の要件に関する文書」や「交付のための決裁文書その他交付に至る過程が記録された文書」については、交付に係る事業が終了する日から5年間保存しなければならないとしています。
「あいちトリエンナーレ」に対する補助金の交付は、専門家から成る審査委員会に諮って4月に補助金事業として採択する旨の通知がなされ、事実上決められていました。ところが、10月15日の参議院予算委員会における宮田亮平文化庁長官の答弁では、宮田長官自身は不交付の決裁をしておらず、文化庁側の答弁によれば、不交付については審査委員会に諮らず、審議官が9月26日に決裁したことも明らかにされています。
文科省も文化庁も、あくまで「手続上の不備」が不交付決定の理由であり、「表現の内容」に基づくものではないと主張していますが、不交付の決定に至る過程の記録が全く残されていないために、その適否を検証する手掛かりがないという不合理な事態に至っています。モリカケ疑惑の再現を思わせる文科省と文化庁の公文書管理法の趣旨を無視した対応に重大な疑問があることを指摘せざるを得ません。
すでに採択通知により補助金交付が実質的に決定され、それを前提として文化芸術事業が行われた後になって、補助金全額の不交付を決定するなどという事態が前例となれば、表現の自由に対する重大な萎縮効果をもたらすことは明白であり、絶対に許されてはなりません。補助金不交付決定は直ちに撤回されるべきです。まして、こうした異常な決定に至る意思決定過程が隠され、検証不能とされることは、看過できない暴挙というほかありません。
私たちは、「表現の不自由展・その後」の中止と補助金不交付問題が、憲法21条の保障する「表現の自由」の核心に関わるものであることを深刻に受け止め、上記のとおり意見を表明するとともに、すべての関係者に対して、一連の経過を振り返り、「あいちトリエンナーレ2019」が提起した問題を改めて検証し直すよう、求めます。
(2019年11月8日)
初出:「澤藤統一郎の憲法日記」2019.11.8より許可を得て転載
http://article9.jp/wordpress/?p=13728
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://chikyuza.net/
〔opinion9162:191109〕
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