真正の人道は地勢と共に存在すべき――田中正造・第1部(4)
- 2019年 11月 19日
- スタディルーム
- 田中正造野沢敏治
3 「日本資本主義」が生んだ公害
市兵衛の革新的な経営は見事であった。だがそれが銅山に接する渡良瀬川の流域に大変な被害をもたらす(ここでは労働問題は別にしておく)。足尾町近辺から北の松木村にかけて、そして渡良瀬川の中流から利根川に合流するまでの川沿いの町村が鉱毒の被害に会う。正造が直訴状で加筆したように、「近年鉱業上の器械洋式の発達するに従いて其流毒益々多く」なったのである。先端的な技術の導入と大量生産が公害を引き起こす、これは戦後の大公害でも同じ構造であった。
グランドキャニオンの出現
『予は下野の百姓なり』(下野新聞社)が銅の産額の変動と鉱毒との関係を図示しており、読者に分かりやすい。前に述べたが、1884年(明治17年)の大直利の発見で産額は1年前の4倍強に増えるとともに、近辺の山林樹木が枯れ、翌年にはアユ(――香魚とも書く。いい名でないか!渡良瀬川はそれで有名であった)が皆無となり、他の魚類も大量死する。重金属の鉱毒が川に流れこんだのである。また、山がはげ山になると雨水は地下に蓄えられずに一遍に流れ下り、洪水を誘発する。1890年(明治23年)には渡瀬川の洪水で農地の被害が表面化する。稲や麦が枯死する。そして人の健康や命にも害がでる。この間銅山では技術革新がどんどん進んでいたのである。付近の山が亜硫酸ガスで荒廃するが、そのさまはまるで月世界であった。後に日本のグランドキャニオンと称され、戦後にはその異様な風景がテレビや映画「人間の条件」の舞台となる。私も映画を見た覚えはあるが、そのバックの光景は記憶にない。
銅の生産工程図から消えるもの
鉱毒被害の原因を少し検討しておこう。私は1980年代にゼミ生を連れて足尾精錬所を工場見学したことがある。その時に製造工程の図が配られて説明を受けたが、その工程図からは資材の源が消え、排出物の行き先が消えていた。それは明治にさかのぼっても同じであった。
銅の生産は大きく3つの工程に分かれる。
1)坑内で黄銅鉱を掘り出すのだが、坑道を支える坑木は上流の山林から乱伐
される。輪伐と言って年々順番を決めて1部ずつ切ることをしない。また伐採後の植樹もきちんとしないのである。――工程図から上流が消える
2)掘り出した鉱石は選別されて含銅率の高い精鉱と低い粗鉱に分けられ、粗鉱は捨てられる。その際に水が使われるが、それは鉱粉を含んだままで捨てられる――工程図から下流が消える
3)最後に精錬所で品位の高い銅がえれれる。化学式で示すと、Cu₂S+O₂=2Cu+SO₂となる。精鉱を燃やすのに薪と炭が使われるが、それは付近の森林からこれまた乱伐される。この精錬過程で屑が出るが、それは付近の堆積場に積み放しとなり、転炉から出る亜硫酸ガス(黄色い)も出っ放しとなる――工程図から上流と近辺と下流が消える
春夏秋冬の「沈黙」
以上でどうなるか。現在の常識では重金属の銅や亜硫酸ガスが人間にも他の生物に害があることは分かり切ったことである。
庭田源八は『鉱毒地鳥獣虫魚被害実記』(1898年・明治31年)の中で立春正月から大寒12月までの24の節季ごとに自然との交感を書き綴った。その例――小鳥を見ることが少なくなり、正月に麦ぶるいを雪の上において取らえることはできなくなった。春の八十八夜の頃には田んぼでタニシがたくさんとれていたのに、激減してしまった。初夏には子供が蛍狩りを楽しんでいたが、それもできなくなった。お彼岸の中日の3日前といえば菜種をまくころだが、そのころはトンボが空一面に群舞していたのに、それも見ることはできなくなった。稲が実るころ、あぜ道を歩くとイナゴがばらばらと飛び交ったのに、それも見られなくなった……。以上、庭田の文章は私の散文でなく、「渡良瀬川の詩」とも称されるその文章に実際に当たって味読されたい。木下は春分2月の節季を全文引用していたが、私もそこを引用したかった。
今でこそ人はこれをたかが虫のごときとか、昔を懐かしむ者の繰り言と片づけないだろう。それにしても、われわれはレイチェル・カーソンの『春の沈黙』(1961年)には関心を示すが、庭田の『実記』をその後の環境問題に生かすことをしてこなかったのでないか。
要するに足尾銅山は自社が環境汚染の被害を出さないように予防しなかったのである。後でも取りあげるが、会社は予防のためのコストを内部で引き受けることはなかった。公害を出さない技術に費用をかけることを自社の「損失」とか「不生産的費用」(「足尾銅山予防工事一班」より)とみなしたのである。その点で銅山は非社会的な企業であった。
それに対して、他の銅山は違っていた。特に愛媛県新居浜にある別子銅山がそうであった。それは1900年・明33年に政府の命令によって排出する亜硫酸ガスを大煙突を作って遠方に希釈しようとした。だが効果は薄いので精錬所を海を隔てた無人島の四阪島に移す。費用は同銅山の1年分の売上高に相当したようだ。それでも陸側で煙害が再発する。そこで煙害そのものを無くそうとして硫化鉱から硫酸を製造し、それを過リン酸石灰にして農業肥料とする。これでガス公害はなくなる。正造はその事例を知って評価していた。このことは戦後の後代に公害の告発者によって語り継がれていく。
市兵衛は鉱毒被害に対してどう考えていたか。その時から世間では足尾と言えば鉱毒問題というように評していた。彼は『太陽』での談話では言いたいことはあるがとするのみで、反論していない。私的利益の追求者とか銅山党という非難に対して銅山が果たした社会的・国家的利益について弁明したかったのでないか。彼が語ったことは政府の命令で大変な費用をかけて予防工事をしたことのみであり、大企業であるからこそ雇用する労働者や地域住民に対して社会的企業であるはずなのに非社会的な私企業となってしまったこと、そのことに対する言葉はない。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://chikyuza.net/
〔study1077:191119〕
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