改元、一連の行事はいつ終わるのか=その根源たる差別も続く
- 2019年 12月 2日
- 評論・紹介・意見
- 内野光子
昨年の5月、改元前後からの皇室行事は、いつ果てるともなく続いているかのような光景である。大嘗祭後に行われた4回の饗宴の儀、そして、続く伊勢神宮参拝・報告、奈良や京都の天皇陵参拝、そして京都では御所でのお茶会まで開いていた。ご先祖への墓参というならば、もう少しひそかにしてもよろしいのではと思う。関西に暮らす友人は、「大嘗祭ごっこ」は、もううんざりとも嘆いていた。宗教的な色彩が強いので私費でという秋篠宮の意見もあったが、こんな状況になった。私費という内廷費とて国費には違いないのだが。
天皇家にとって大嘗祭という儀式に伝統があるというのであれば、せめて内々に済ませるべきだったろう。歴史上の宮廷行事とて、技術的には、もっと素朴なものであったに違いない。一夜限りのあの施設には20億近い費用が掛かったという。国民の日常から離れたあのような儀式を、少なくとも国民の統合の象徴である天皇がなすべきではなかった。「天皇」こそ利用されるべき存在であることを、国民も自覚しなければならないと思う。「国民に寄り添う」というならば、まだ仮設住宅にも入れない被災者、仮設住宅を追われる人々、三交代の過酷な職場で働き続ける人々、住いもなく行きどころのない高齢者、三食満足に食べていない子供たち、いわれのない差別を受け続けてきた人たちに思いをいたせば、饗宴や茶会で乾杯をしている場合ではないだろう。招く方も、招かれる方も、一番大事なもの、国民の暮らしの在り様を忘れてはいないか。
勲章や園遊会、そして国民栄誉賞、今回の桜を見る会に至るまで、その選出の構図は一緒である。喜ぶのは政治家や芸能人かアスリートたちかと思えば、その筋の人たちも「紛れ込んだり」するらしい。そして、研究や文芸、経済界やマス・メディアの世界で活躍する人々も嬉々としてはせ参じているのを見るのは情けない。
そして、原発事故は何一つ収束できないまま迫る来年の東京オリンピック、いわくつきの国立競技場、すったもんだのマラソン開催地の変更、不祥事が続くスポーツ団体の中で、選手たちの困惑は続くだろう。国を挙げてのメダル競争は、もうすでにオリンピック精神からは隔絶したものである。
国民の考える力は、改元やオリンピックで削がれてはならない。
初出:「内野光子のブログ」2019.12.1より許可を得て転載
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