反論「尾崎秀実の14日逮捕」は誤りか ─「太田耐造資料」からゾルゲ事件端緒説を追う─ (その1)
- 2019年 12月 3日
- スタディルーム
- ゾルゲ事件太田耐造資料渡部富哉
*本稿は全部でA4で45枚の大作です。そのため各回9頁程度の分割掲載とさせていただきます(編集部)。
一)槙野亮一「尾崎秀実の14日検挙はあり得ない 」に反論する
1)書評「孫崎享著「『日米開戦へのスパイ』東條英機とゾルゲ事件」「日米の権力
者は『ゾルゲ事件』をいかに政治利用したか」 2
2)朝飯会と佐々弘雄に関する尾崎秀実の供述 5
3 )「南方調査の方法と企画を語る座談会」は14日夜に行われたのか 6
4 ) 三宅正樹(明治大学名誉教授)の14日検挙の否定説は編集後記の1行 10
二)尾崎秀実14日逮捕の裏付け調査に反論できるか
1)四谷駅橋上の高橋ゆう・古在由重会談と松本慎一 12
2)尾崎逮捕は藤枝丈夫を三菱美唄炭鉱に走らせた 13
3)中村哲(法政大学長)は証言する 14
4)石堂清倫の体験記録「検束と勾留」 15
5)北林トモの検挙はエディットと息子ポールの国外脱出の直後だった 15
6)ゾルゲを取り調べた特高外事課の大橋秀雄警部補の証言 18
7)尾崎秀実14日検挙の根拠に反論が出来るか 19
三)内閣書記官長『風見章日記』から何が読み取れるか
1)槙野亮一は『風見章日記』を読んだのか? 23
2)尾崎秀実は日本共産党員だった 24
3)『現代史資料・ゾルゲ事件』2巻「尾崎秀実の訊問調書」 24
四)「ゾルゲ事件新聞記事発表文」に対する稟議書
1)検挙月日の公表は禁止する 25
2)新聞記事の公開になぜ「事件の端緒」が発表されなかったのか 27
3)『現代史資料・ゾルゲ事件』2巻「、尾崎秀実の訊問調書」 28
特別報告
伊藤律ゾルゲ事件端緒説を覆す太田文書の手書きの部分を解明する
1)「北林トモに関する供述は青柳喜久代から」担当した検事たちの証言 32
2)太田資料の鉛筆の書き込み文書を解明する 34
3)ゾルゲ事件の検挙を指揮した検事たちの回想と証言 36
4)伊藤律遺稿・「ゾルゲ事件について」は語る 36
5)青柳喜久代とアメリカ帰りのおばさんという人 37
6) 伊藤律ゾルゲ事件端緒説はこうして作られた 39
一)槙野亮一「尾崎秀実の14日検挙はあり得ない 」に反論する
1)書評「孫崎享著「『日米開戦へのスパイ』東條英機とゾルゲ事件」「日米の権力者
は「ゾルゲ事件」をいかに政治利用したか」
評論家・槙野亮一は孫崎享著に対する批判と同時に、拙文「尾崎秀実は日本共産党員だった」所載の「尾崎秀実の10月15日逮捕は検事局が作り上げた虚構のひとつ」について「尾崎秀実の14日検挙説はあり得ない」とする批判を日露歴史研究センター会報、「ゾルゲ事件関係外国語文献翻訳集」50号に掲載した。
これについて筆者は非常に心外に思っている。この論文には「2017年8月に脱稿」と書いてある。1996年筆者(渡部)は白井久也会長(元朝日新聞編集委員・東海大学教授)、及び石堂清倫氏(コミンテルン関係の著名な研究家)とともに日露歴史研究センターの創立者の一人であり、同会の幹事であり、しかも幹事会に欠席したことはない。幹事会は同時に会報の編集会議も兼ねているが、その席で拙文(上掲書)に対するこんな批判が会報50号に掲載されるとの報告はなかった。会報50号は2018年4月の発行である。ちょうど明治大学で前回の講演会(2018年4月21日)と重なって、講演録の作成に追われていたときだ。会報の最終号に突如として掲載された槙野論文は筆者が、2005年11月、尾崎・ゾルゲ墓参会で報告し、会報(11号)に掲載され、のち冊子にまとめて報告会の度に頒布してきた拙文「尾崎秀実の10月15日逮捕は検事局が作り上げた虚構のひとつ」所載の「尾崎秀実14日逮捕説」公表の1年も前の「2017年8月に脱稿」したと書かれている。
この間、著者槙野亮一にも川田博史編集長にも何回も幹事会の席で顔を合わせたが、こんな批判が会報の最終号に掲載されるとは一度も告げられなかった。これでは「闇討ち同然」ではないか。憤懣やるかたない思いだ。
筆者は「ちきゅう座」に掲載された論文集から孫崎享氏(元外務省情報局長)が検索して、拙文の「尾崎秀実の14日逮捕」説から大きなヒントを得て、『日米開戦へのスパイ─東條英機とゾルゲ事件』(祥伝社、2017年7月刊)の出版に至った、という経緯を直接、著者孫崎享氏から聞いている。著作にもそのとおり書いてある。
太田尚樹『尾崎秀実とゾルゲ事件』(吉川弘文館、2016年3月)にも同じことが言える。従って筆者の尾崎秀実「14日逮捕説」が評論家・槙野亮一の指摘どおり、「14日説」は誤りで、従来の定説「15日説」が正しいとすれば、筆者は孫崎享氏や太田尚樹氏にガセネタを掴ませたことになる。
槙野亮一論文には活字が一回り大きくゴジックで「尾崎秀実の逮捕は10月15日ではなく14日?」という小見出しがついており、以下の通り拙文の「尾崎秀実の14日逮捕説」に対する反論が2頁にわたって掲載されている。
「(尾崎秀実の14日検挙説は)、渡部富哉が初めて主張し、著者孫崎はこれに依拠して近衛追い落としの歴史的背景を描き出している。本書の序文「はじめに」で、さっそくその問題に触れ、第一章「近衛内閣瓦解とゾルゲ事件」(58~9頁)、第三章「つながる糸」(219~230頁)で、「尾崎秀実の10月14日逮捕説」の議論を詳述している。
特に224~225頁では、10月15日と新説10月14日と併立させて時系列に並べて、それぞれ当日の発生事項(重要な近衛の辞意表明など)を対比説明している。著者の主張によれば、特別高等警察(特高)の尾崎逮捕が14日でなく15(ママ)日だとすることによって、歴史の闇がダイナミックに説明できるとしている。
まさに説明が躍動するさまは、本書の最大の山場といえよう。(226頁)(渡部注、「15日だとすることによって」では意味がなさない。「14日とすることによって」ではないか。)
これらを読むと、近衛追い落としに政治的利用されたゾルゲ事件の役割と、尾崎逮捕は14日だという説に納得せざるをえないことになるだろう。だが常識的に考えて若干の疑問も残るので、ここに書き加えることにする。
筆者は、尾崎の妻英子が戦後出版した『愛情は降る星のごとく』の前文で、尾崎の逮捕日を1941年10月15日朝としるしていることを確認している(217頁)。しかし、ウイロビーやゾルゲを取り調べた大橋秀雄の著作などを検証して14日説が真実であり、15日は間違っていると結論を出した。すなわち、何かを隠蔽する必要があって検察、警察当局は「15日検挙」に辻褄を合わせ、「これに矛盾する一切の記録は許可しないという方針をとった…┄戦後になっても、ゾルゲ事件の真実を明かしてはならないという圧力が存在することを意味しています」(229頁)。(注、大橋秀雄及びウイロビー(米占領軍のG2=情報部長)は尾崎秀実の検挙は10月14日であると記載している。
ところで、同書は戦後の発刊で、もはや特高や検察の強制(検閲)で14日を15日に直されたというのは、いかがなものか。戦後になってもはたらいた圧力とは、どういうことだ。
英子夫人は夫との獄中書簡『愛情はふる星のごとく』で、逮捕された日がめぐってくるたびにそのことに言及している。篠田正浩監督の映画「スパイゾルゲ」の冒頭部分、尾崎が自宅で逮捕されるシーンのディテールは、戦後、英子夫人や娘揚子の回想記に負っている。女性の日常生活の克明な記憶である。
佐々淳行著『私を通りすぎたスパイたち』(文藝春秋、2016年)掲載の記事から引用する。「尾崎秀実が逮捕された日、父(佐々弘雄)は尾崎ほか近衛内閣の側近にたちと会食の予定があったらしい…のちに朝日新聞記者になった4歳上の兄・克明の記録『父・佐々弘雄と近衛内閣の時代』…によると、「1941年10月14日、六本木の鰻屋『大和田』に、昼食、風見章司法大臣、有馬頼寧伯爵、朝日新聞記者田畑政治、尾崎、そして父(佐々弘雄)が集まった。近衛首相も出席する予定だったが、急に来られなくなったという。…数人が集まったところで、尾崎に電話がかかってきた。尾崎は電話から席に戻ると、『明日の講演会の打ち合わせをしたいからきてくれ、と明治大学の学生からいってきた』とばつがわるそうに言い残して去った。すぐに戻るからと言い残したものの、それっきり連絡もなく『大和田』には帰ってこなかった。…尾崎はそのまま逮捕されたようであった。…父弘雄が、尾崎が帰って来なかった理由、すなわち逮捕を知ったのは、10月16日だったようだ。その日以降のことは私も鮮明に覚えている。(上掲書19~20頁)
兄の記録の裏付けをとるため、佐々淳行は有馬と風見の日記を調べた。しかし、なぜか、11月14日前後の記載はない。本来あるべき記述が削除されたのではないかとしている(同上20~21頁)。(注、この文面からすると、「11月14日前後」ではなく「10月14日前後」ではないか)
著者槙野亮一によれば、「1941年10月14日、六本木の鰻屋『大和田』に、昼食、風見章司法大臣、有馬頼寧伯爵、朝日新聞記者田畑政治、尾崎、そして父(佐々弘雄)が集まった。そこに尾崎に電話がかかってきて『明日の講演会の打ち合わせをしたいと明治大学の学生から言ってきた』と言い残して去って、『大和田』には再び帰ってこなかった。…尾崎はそのまま逮捕されたようであった」(「会報」63頁、と書いている。
そんなことがあり得ると思うか。たかが学生に対する講演会の打ち合わせなら電話で充分ではないか。近衛首相も参加が予定され、風見章司法大臣や有馬頼寧伯爵などをほうり放しにして、尾崎が明治大学の学生の打ち合わせに出かけられると思うのか。
しかもこれは佐々弘雄本人の回想ではなく、息子淳行の4歳年上の兄の克明な記憶だという。しからばこれは単なる伝聞ではないか。しかも若しそれが事実だと仮定すれば、「尾崎秀実の逮捕は14日午後」ということになるのではないか。筆者の「尾崎14日逮捕説」と相違する点は「14日の早朝」と「14日の午後」という点だけではないか。
14日早朝に尾崎秀実は検挙されているから「六本木の鰻屋『大和田』で会食の企画があったとしても、尾崎秀実が佐々弘雄たちと昼食」、はあり得ないし、会食したとは書いてない。「朝飯会」は水曜日に開催され「水曜会」とも呼ばれて定例と決まっていた。カレンダーを調べると15日は丁度その水曜日である。また尾崎の語るところによると、「朝飯会」に近衛首相が出席したことはなく、そこで交わされた重要な事項は秘書役の牛場友彦が近衛に伝えていたという。
10月15日、朝飯会に集まった近衛の側近たちはいくら待っても尾崎秀実が顔を見せなかったことを訝り、電話をかけて問い合わせたが、連絡がとれず、やがて後日、尾崎秀実の逮捕、しかも極めて厳重な逮捕の状況を知るに及んで、佐々弘雄を筆頭に、いちはやく尾崎秀実に関係する手紙、ノート、手帳など一切の関係文書の焼却に走った。1尾崎秀実が佐々弘雄を朝飯会グループに引き合わせたという経緯によるものであり、他の関係者も同様である。
尾崎・ゾルゲ事件は当局の「記事差し止め」により翌年5月まで報道されず、厳秘に付された。それが却って民衆の疑惑を拡大し、「膨大な流言の洪水を招いた」という。
「尾崎がその一員であった朝飯会の人びとは、声を潜めて【検事】からの呼び出しの有無を確かめあうほどだった」と、「日本に於けるゾルゲ事件」(『現代史資料』第一巻539頁)は記載している。
この点に関しては最近出版された「風見章日記」も例外ではない。第一次近衛内閣成立前後の日記には当然書かれるべき尾崎秀実の登用のことが書いてない。尾崎は風見が推挙して近衛の嘱託となったが、その経緯は当然検察側の厳重な調査対象になった、その経緯如何によっては犬養健、西園寺公一と同様に取り調べの対象になる。
「風見章日記」には尾崎秀実と近衛に関する記録や尾崎の逮捕についても、解禁されたゾルゲ事件の新聞記事についての感想や意見、尾崎の裁判や判決も、尾崎の処刑についても、風見の感想や意見は書いてない。従ってここに記された「明治大学の学生に呼び出されたのち帰って来なかった。そのまま検挙された」というのは佐々弘雄本人の証言ではなく、「4歳上の兄」つまり佐々弘雄の息子の回想であり従って伝聞である。
松本慎一の回想によれば「尾崎秀実の逮捕は近衛内閣が倒壊する2日前のことだ」という。
『近代日本総合年表』(岩波書店)によれば「10月16日、第三次近衛内閣総辞職」と書かれている。尾崎秀実14日逮捕説は松本慎一によっても確認されている。この証言は松本慎一と尾崎秀実の関係を知る者にとっては極めて重い証言と言えよう。
ついでに言えば尾崎秀実は1944年11月7日に処刑された。尾崎の通夜に参列したものは、松本慎一、越寿雄、西園寺公一、弁護士の他は妻と娘の6人だけだった。
尾崎秀実の検挙と同時に尾崎の関係者たちは一斉に尾崎と絶縁した。身の安全のための当然の措置だった。では「朝飯会」について尾崎自身はどのように供述しているだろうか。
2)朝飯会と佐々弘雄に関する尾崎秀実の供述
本日のテーマの「太田耐造資料」には朝飯会に関する尾崎秀実の重要な証言(供述)が記載されている。本人の証言だから伝聞よりもはるかに重要な証言であることはいうまでもない。少し長いが貴重な記録だからそのまま紹介しておこう。
「朝飯会」に関する尾崎秀実の供述。」
「朝飯会 (水曜会) は所謂近衛公のブレンである。朝飯会 (水曜会) は第一次近衛内閣時代の昭和13年7月中旬ころ、総理大臣秘書牛場友彦、岸道三のイニシアによりそれに自分も加わり相談の結果、新聞記者、評論家、学者らの意見を聞いて近衛内閣─近衛公を扶けて行こうという目的で、それぞれその周囲から有力な評論家、記者、学者などを集めたものであるが、その後もずっと続いており本年10月15日、自分が検挙された当日の朝も開催されることになっていた。
第一次近衛内閣時代は不定期的に数回牛場秘書官官邸で会合。第一次近衛内閣辞職後は当時牛場の宿泊していた万平ホテルで2回位、その他は、神田区駿河台の西園寺公一の邸で会合、昭和15年11、2月頃同邸が売却されてからは首相官邸日本間で会合していた。朝飯会として定期的に会合することを申し合わせたのは昭和14年4月ころからで毎週水曜日であったのでこれを水曜会とも呼ぶようになった。
そのメンバーは牛場友彦、岸道三 (現満鉄嘱託)、尾崎秀実、西園寺公一、松本重治(同盟通信編集局長、松方正義伯の孫、西園寺公一及び牛場と親交あり)、蝋山政道 ( かって近衛公渡米の際牛場らと共に公に随行、牛場と親密 )、佐々弘雄 ( 東朝関係にて尾崎の推挽 )、笠信太郎 ( 東朝関係にて尾崎の推挽 )、平貞蔵 ( 佐々、蝋山の友人 )、 渡辺佐平(法政大学教授、岸の高校時代の友人 ) であり、その他にも時々犬養健が出席しており、松方三郎 ( 同盟通信上海支局長、松本、牛場の友人 ) も前後を通じて2回くらい出席している。
但し前述メンパーのうち佐々弘雄は本年になってからは殆ど出席していない。その理由は、佐々はその後、柳川将軍を以て日本の将来を担当する人物なりとの見解を抱き、柳川と近衛公との結合を望んでいる様であるから、そのため段々と所謂近衛公のブレンであるこの会合に積極的でなくなったものと了解する。」 (【太田耐造資料】110)(注、西園寺公一の供述182にも詳細に記録されている。)
なお「朝飯会」については公安調査庁「公友」誌に連載された鈴木富来( 警視庁外事課、警部・ブケリッチの取り調べ担当 ) が「ゾルゲ事件についての記憶」の中で詳述している。(上記の尾崎の供述「10月15日、自分が検挙された当日」という点については後に詳述する。)
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔study1086:191203〕
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