反論「尾崎秀実の14日逮捕」は誤りか─「太田耐造資料」からゾルゲ事件端緒説を追う─(その2)
- 2019年 12月 4日
- スタディルーム
一)槙野亮一「尾崎秀実の14日検挙はあり得ない 」に反論する
1)書評「孫崎享著「『日米開戦へのスパイ』東條英機とゾルゲ事件」「日米の権力
者は『ゾルゲ事件』をいかに政治利用したか」 2
2)朝飯会と佐々弘雄に関する尾崎秀実の供述 5
第2回掲載………………………………………
3 )「南方調査の方法と企画を語る座談会」は14日夜に行われたのか 6
4 ) 三宅正樹(明治大学名誉教授)の14日検挙の否定説は編集後記の1行 10
二)尾崎秀実14日逮捕の裏付け調査に反論できるか
1)四谷駅橋上の高橋ゆう・古在由重会談と松本慎一 12
2)尾崎逮捕は藤枝丈夫を三菱美唄炭鉱に走らせた 13
3)中村哲(法政大学長)は証言する 14
4)石堂清倫の体験記録「検束と勾留」 15
5)北林トモの検挙はエディットと息子ポールの国外脱出の直後だった 15
6)ゾルゲを取り調べた特高外事課の大橋秀雄警部補の証言 18
7)尾崎秀実14日検挙の根拠に反論が出来るか 19
三)内閣書記官長『風見章日記』から何が読み取れるか
1)槙野亮一は『風見章日記』を読んだのか? 23
2)尾崎秀実は日本共産党員だった 24
3)『現代史資料・ゾルゲ事件』2巻「尾崎秀実の訊問調書」 24
四)「ゾルゲ事件新聞記事発表文」に対する稟議書
1)検挙月日の公表は禁止する 25
2)新聞記事の公開になぜ「事件の端緒」が発表されなかったのか 27
3)『現代史資料・ゾルゲ事件』2巻「、尾崎秀実の訊問調書」 28
特別報告
伊藤律ゾルゲ事件端緒説を覆す太田文書の手書きの部分を解明する
1)「北林トモに関する供述は青柳喜久代から」担当した検事たちの証言 32
2)太田資料の鉛筆の書き込み文書を解明する 34
3)ゾルゲ事件の検挙を指揮した検事たちの回想と証言 36
4)伊藤律遺稿・「ゾルゲ事件について」は語る 36
5)青柳喜久代とアメリカ帰りのおばさんという人 37
6) 伊藤律ゾルゲ事件端緒説はこうして作られた 39
3)「南方調査の方法と企画を語る座談会」は14日夜に行われたのか
槙野亮一の同論文はさらに続いて、1941年11月1日発行『新亜細亜』11月号には、左の座談会の記事を掲載し、その出席者12名と司会が尾崎秀実であること、などが記載され、「開催期日は昭和16年10月14日夜」と出席者名の末尾に活字が1ポイント小さく、ゴジックで次の行に記載されている。(会報64頁には『新亜細亜』1941年11月号の90頁の一部分を複写して掲載している)
評論家槙野亮一が筆者の「尾崎秀実14日検挙」を否定する唯一の裏付け証拠資料だ。
筆者に言わせればなぜ開催された年月日だけが1ポイント小さくゴジックで出席者の末尾に掲載されたのか、(左写真の最上部の左端)疑問とするところだが、さらに解せないことは槙野亮一がたったいまその前文で「14日、六本木の鰻屋『大和田』で昼食、明治大学の学生と会うために出ていった。そのまま尾崎は逮捕されたようだ」と書いたばかりではないか。そのまま逮捕された尾崎が今度は同じ日の夜に「座談会に出席し司会を勤めた」などという全く矛盾したことを平気で書く神経が分からない。槙野亮一は自分の文章に何の矛盾も感じないのか。この点は編集者も同罪だ。編集者にはこの点について筆者は以前説明したことがある。
さらに槙野亮一の次のコメントもこれまでの通説をなぞって、「なるほど尾崎逮捕という事実を利用して東條側は近衛追い落としを図ったであろうが、東條は『ゾルゲ事件』を知っていたわけではなく、またそのために、『ゾルゲ事件』をでっちあげたわけではない。特高警察は共産党狩りに血道を挙げていたのであって、ゾルゲ事件検挙も『瓢箪から駒』がでたようなハププニングであったのだ」などと書いている。
これは今回公開された「太田耐造資料」によれば、「特高警察は共産党狩りに血道を挙げていた」などと言うのは全く事実ではない。「太田耐造資料」は以下の通り書いている。
ゾルゲ事件の1年前、「昭和15年末頃東京地検思想部にありては国際情勢などより観て合法場面に於ける共産主義運動の取り締まりに偏し居る現在の検挙方針に再検討を加え、海外よりの運動が潜行的に行われ居るやに付注意を要すべきものある旨を指示し、特高部をしてその方面に内偵の目を向けしめおりたり」と書かれ槙野亮一の主張を完全に否定している。
これは筆者の見解では野坂参三が日本に派遣した小林陽之助(1936年7月、野坂参三、の指示によって日本に帰国。1937年12月検挙される。1942年2月25日獄死)が京都・奈良の観光を装って来日したマリオン・ディビスに託して在米中の野坂参三に密書を託したことが小林陽之助の供述で判明したことが大きく影響していると思われる。加えて川合貞吉の逮捕(川合がいうところの「満州国際諜報団事件」(「満州日日新聞」下図、昭和12年1月21日付)によると尾崎、ゾルゲから依頼された満州事変直後の満州の情勢調査に行ったときの状況が全部当局に掴まれていた。この解禁された新聞の末尾には次のように書かれている。
「偶々昭和6年9月、満州事変の勃発となり、在上海国際共産党においては同事件により、満州の天地に一大変動あるべきを察知し、直ちに満州に同志を派して事態の推移と日本の軍事行動を調査することとし、党員姜は滞滬(注、上海のこと)中の川合をしてその任に当たるべく指令したので、川合は応諾、同年10月、上海を出発、途中北平に立ち寄り副島と会し、自己の指令を語るとともに、副島に対しても入満を慫慂し、まず自己のみ11月下旬、入満、奉天に潜入し、約1カ月を遅れて来滬せる副島とともに巧みに同地知人を利用し、満州に於ける日満軍政情を探り、これを在上海国際共産党に密報しつつあったのである」
尾崎秀実とゾルゲが川合貞吉を満州に派遣して関東軍の状況を調べさせたという諜報活動の内容は既にこのとき全貌が当局に掴まれていたのである。
尾崎はこの解禁された新聞記事から川合に危険を感じ、船越寿雄が主宰する支那問題研究所に川合を就職せしめ、川合の生活の面倒を見たが、間もなく社内に内紛が起こって船越寿雄は支那問題研究所から去った。たちまち川合は居場所がなくなり内地に引き揚げてきたが、憲兵と特高の監視、尾行の対象となり、地道な職業には向かない川合は途端に生活が出来なくなり、尾崎秀実にゆすり、たかりの生活になった。川合貞吉が死去(1981年7月31日) した初七日の日、川合貞吉夫人から堀見俊吉(予防拘禁所に収監され、思想犯の島流しでボルネオに派遣され、バシー海峡で米潜水艦に撃沈され辛うじて4人だけが生き残った。戦後朝日新聞記者。)が聞き取ったテープが筆者のところにあるが、川合は当時完全にノイローゼになっていた。宮城与徳の供述調書によると、「秘密の連絡にも酒気を帯びてやってきたこともあった」という。宮城与徳の悲鳴が聞こえてくるようだ。
太田耐造思想検事は陸軍省の田中兵務局長の強力なバックの下に、情報はわけあってゾルゲ事件(外諜関係捜査)の捜査に臨んでいた。その時期はこれまで『現代史資料・ゾルゲ事件』(みすず書房)で見られる情報と比べるとはるかに早い。それを立証する資料は「太田耐造資料」には以下の通り書かれている。
大審院検事局次長検事・中野並助発「外諜被疑者検挙計画に関する件通牒」各地方裁判所検事正宛てによれば、「司法省刑事局、憲兵司令部及び内務省警保局と協議の上外国の諜報謀略に暗躍策動せる疑いある者に対し全国一斉検挙を断行することに決定し之が検挙準備に関し昭和16年7月25日付大審院検事局日記秘第3429号を以て依命通牒致置候処最近国際情勢頓に緊迫化し何時非常事態の発生を見るや予測を許さざるもの有之而検挙命令を発する時期も切迫せられるやに看取せられ候については別紙「外諜被疑者検挙計画要項」に基づき直ちに司法警察官より報告を聴し検挙命令発出と同時に検挙に着手しうる様諸般の準備相成様致したくこの段依命通牒候。
追而内務省警保局及び憲兵司令部に於は別紙「非常措置要綱」を決定し」(中略)「警察及び憲兵と密接なる連絡を遂げ萬遺漏なきを期せられ度為念申し候」(以下「外諜被疑者検挙計画要綱」が続く、(注、句読点なし、ママ)
続いて「昭和16年12月5日、大検印」憲三高第1000号と記載された「防諜に関する非常措置要項案送付の件 通牒」によると、昭和16年11月19日 憲兵司令部本部長加藤泊治郎名義の文書がある。発送先は「朝憲司、各隊長、憲校」とあり、それによると「防諜に関する非常措置要項案(関係各省協定済み)第一、敵国人に対する措置、非常事態発生の際本邦に内在せる敵国人中左に該当する者に対しては検挙、取り調べまたは抑留その他の必要なる措置を講ずること。
(1)検挙すべき者(憲警担当)、被疑者として検挙すべき容疑十分なる者。
(2)抑留すべき者(主として警察担当)
イ)敵国の軍籍にある者。特殊技能者
ロ)特殊技能者(無線技師、軍需工場の技術者など)(以下省略)第(7)項目に及んでいる。これは主としてフランスドゴール派に向けられているが、関西特に神戸で多数の外国人の検挙が行われ、総数174名(内日本人は63名)」と書いてある。
ゾルゲ事件検挙は評論家槙野亮一がいう「瓢箪から駒」などの偶発的なものでは全くない。勿論、関東憲兵隊の総帥である東條英機が知らなかったなどということはあり得ない。太田耐造によれば「従来共産主義活動の取り締まりに重点が置かれていたものを時局に沿った諜報活動に重点を移すように訓示し、それに沿って特捜班の活動が開始されている」という。
北林トモが1937年6月、エルエー洋裁学院に勤め、夫芳三郎の帰国を待って2階の1室を借りて生活し始めたとき、直ちに特高はエルエー洋裁学院の前の家を借りて、北林トモの尾行、監視をしており(『ソ連はすべてを知っていた』山村八郎著=中村絹次郎・特高第一課長)、39年12月に和歌山県粉河町に転居すると粉河警察の特高に監視を依頼していることは『偽りの烙印』に詳述されている。それが何よりも裏付けている。そんなことは極秘中のことで大橋秀雄は外事警察だから知らなかっただけのことだ。
ロシア側の資料によるとゾルゲ事件の検挙の1年も前から、月に1回の頻度でゾルゲ諜報団はソビエト大使館員と直接連絡をとっている。(注、これは「特高月報」による筆者のモスクワシンポジウムのときの報告だが、ロシア側にはより詳しい記録があり、何よりも当時クラウゼンと連絡を取り合った武官イワノフ(注、シンポジウム当時退役少将)氏とシンポジウムの後で白井久也氏と共に長時間に及ぶインタビューが行われ、貴重な証言がテープに収められている)。
モスクワシンポジウムのときセルゲイ・コンドラショフ(注、ゾルゲに祖国英雄の称号を与えたときの業績調査員)は「これは誤りというよりも犯罪というべきだ」と痛烈に批判している。ロシア側のゾルゲ事件研究者に事件の端緒が伊藤律である、などという研究者は一人も居ない。生還したクラウゼンの詳細な報告書かあるからだ。
「太田耐造資料」によれば独、伊、露の3国人は検挙除外の措置が採られている。これがクラウゼンと連絡をとりあっていたソ連の外交官が逮捕を免れて国外脱出を可能にした大きな要因である。
尾崎秀実の14日検挙を15日にしたのは推論すれば孫崎享著の通りだと無理なく受け取れる。評論家槙野亮一論文の結論は「ゾルゲ尾崎情報に軍関係のものが乏しいといわれるが、とぼしいのではなく、権力の中枢からの排除の意志が貫徹していたと言わざるを得ない。これら日本側の事情に加え旧ソ連・現ロシアの公文書館に所蔵されているゾルゲ関係文書(ゾルゲの多数の報告電報とそれに対する上級機関の評価・処理結果など)が公開されていない。しかも、その公開は当分期待し得ないものである。したがってゾルゲ事件研究を試みても、現状を大きく動かすものにはならない」と結論している。
これが「ゾルゲ事件外国語文献翻訳集」の終巻号(50号)を飾る言葉なのか。筆者はこうした全否定的な見解は持たない。これまで会報に連載してきたミハイル・アレクセーエフは「ゾルゲの上海時代」の連載を終えて、次に日本に於けるゾルゲの活動を執筆するという。
ロシアでゾルゲ事件研究で著名なアンドレイ・フェシューン氏は『秘録・ゾルゲ事件─発掘された未公開文書』という180頁に及ぶ論文を発表された。(『国際スパイゾルゲの世界戦争と革命』社会評論社2003年2月)これによると「手紙」「電報」「文書」を含めて191まであり、その他軍関係者の回想が掲載されている。
加えて日本からの発信は今次公開された「太田耐造資料」によると以下のものが公開された。
110-9「逓信省に於傍受せるAX系Xu系暗号無線通信文の解読訳文(2)
110-10「大阪逓信局傍受暗号解読(10頁)
110-14 ゾルゲ、クラウゼン使用の暗号解読。(12頁)
110-15 クラウゼン一派外諜事件捜査資料(無線関係)(104頁)
110-17 ゾルゲ宅より発見せるペン書き英文情報訳文(12頁)
110-20 クラウゼン宅英文の情報─日米交渉(など、以下省略する)
この「太田耐造資料」の公開によってこれまでみすず書房刊『現代史資料』「ゾルゲ事件」(4巻)がゾルゲ事件研究の大きな権力側の資料とされてきたが、それに匹敵する膨大な資料が公開された。「昭和天皇へのゾルゲ事件上奏文」を含む膨大な資料で、復刻した不二出版の宣伝チラシによると「第4回配本・全10巻」とある。
まさにゾルゲ事件研究は次世代の研究者にゆだねられることになろう。だが先行の研究の蓄積の上にしか研究は進まないことを考えれば、白井久也氏らが積み重ねてきた努力があればこそだと思われる。槙野亮一論文の否定的な見解と全く異なる状況がいま確実に出現しているのだ。
4)三宅正樹(明治大学名誉教授)の14日検挙否定の根拠は編集後記の1行
前回の講演会(4月21日、明治大学リバティーホール)のとき、三宅正樹明治大学名誉教授から、拙文「尾崎秀実の14日逮捕説」に対して、「満州評論」に掲載された、昭和16 年10月25日付の「大陸政策十年の検討」という座談会記事を手渡された。その座談会は尾崎秀実が検挙されたとされる15日の前日の14日に開催された、と書かれているという。
その三宅教授提供の座談会の記事によると、出席したのは尾崎秀実ほか平貞蔵、橘樸、細川嘉六など六名の名が書かれており、のち『橘樸著作集』第3巻(勁草書房)に同文が再録されているという。そのコピーが数日後、三宅教授から筆者に送られてきた。全く筆者の知らなかった文献である。
「満州評論」には「14日の座談会」の記録に14日という開催月日や場所などは書いてなかったが、後に三宅教授から送られてきた『橘樸著作集』(第三巻)には、その「座談会の記事」は本文に記載されたものではなく、橘樸とは関係なく、その掲載文の末尾の570頁の「編集後記」に、「この座談会は昭和16年10月14日、東京・銀座裏のある小さな中華料理店で挙行」、「満州評論創刊10周年記念特集として企画された」と僅か1行書かれていた。この「編集後記」の一行だけで三宅教授は「尾崎秀実14日逮捕」説を否定するという。その他の材料は何も示していない。研究者としては余りにもお粗末ではないか。
前述した評論家槙野亮一が、拙文「尾崎秀実の10月15日検挙は検事局の作った虚構である」に対する反論のひとつの資料として挙げた、1941年11月1日発行『新亜細亜』11月号掲載の「南方調査の方法と企画を語る座談会」の出席者名の次の左端蘭に記載された、開催された日は「昭和16年10月14日夜」と書かれているが、上述の通り「満州評論」の編集後記に書かれている「東京銀座裏の小さな中華料理店で座談会が開かれ、尾崎秀実がそこに出席」していたという日付も同様に14日夜である。
さらに三輪武の回想によると「忘れもしない昭和16年10月14日の夕方5時ころだったが、この日は庶務課長の井上浜介君から夕飯に誘われていたので東京支社に立ち寄った。いつもの習慣で5階の調査室まで行ってみた。ところが大部屋はガランとして人影も少なかったので、例のように尾崎さんたち(細川嘉六、岸道三氏、伊藤好道氏)の部屋を覗いてみると、この日は尾崎さんが独りで何か書類を見ていた。(中略)東銀座の昔の掘割に面した「百万石」という料亭の座敷で、尾崎さんは当時の政府が対支戦線の膠着・長期消耗戦化と日本戦時経済の縮小再生産への急速な突入のために南方侵攻を企図していることに大きな危惧を抱いていた。
支那の民族・人民の解放の展望と緊密な関連、国共合作が話題になった。別れたのは9時半を廻っていただろう。翌朝出社すると井上庶務課長が私を探しているという。直ぐに庶務課長の部屋に行くと、井上君は「おい、尾崎が引っぱられた。知っているか」青天の霹靂であった。私はとっさに上海の抗戦力調査のことを思い浮かべ、井上君と相談して社内電報で、このことを抗戦力調査委員会の中西宛てに知らせた」(「長江の流れと共に─上海満鉄回想録」29頁)
三輪武の場合はこの直後に検挙される予定になっていた。「太田耐造資料目録」によると、「未検挙被疑者非議事実調べ」(184)三輪武の氏名の次に(応召)と書かれており、これが彼の検挙を免れた理由である。彼はシベリアに抑留され、帰国したのは1949年だという。「日記」などの記録されたものによるものではなく思い出の回想だ。「尾崎の検挙された前日」のことという記憶だから「15日検挙」の定説から尾崎との会談を14日としたにすぎない。
さらに『ゾルゲ・尾崎事典』によると、「10月14日(火)尾崎はレストラン・アジアで内務省保安課長村田五郎、同省特高課長の岡崎英城、警視庁特高部長の上村健太郎とバッタリ会ったと書いてある。
「10月15日(水)自宅で逮捕され、目黒署に留置される。朝飯会が麻布の大和田で開かれており、幹事役の尾崎が来ないので、出席者は不審に思っていたが少し遅れて飛び込んできた岸道三が、逮捕されたことを知らせた」と書いているが、麻布の鰻屋大和田で「朝飯会」が開かれたことはない。これでは「昼飯会」ではないか。この日の会合は「朝飯会」ではなく「風見章の会」だった。そのいずれも当局発表の「15日、尾崎秀実検挙」から記憶をたどったことから生じた誤りにすぎない。ご覧の通り同じ日の夜に3つの会合や座談会に出席し、9時まで銀座で飲むなど出来るはずはない。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://chikyuza.net/
〔study1088:191204〕
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