反論「尾崎秀実の14日逮捕」は誤りか─「太田耐造資料」からゾルゲ事件端緒説を追う─(その3)
- 2019年 12月 5日
- スタディルーム
- ゾルゲ事件太田耐造渡部富哉
一)槙野亮一「尾崎秀実の14日検挙はあり得ない 」に反論する
1)書評「孫崎享著「『日米開戦へのスパイ』東條英機とゾルゲ事件」「日米の権力
者は『ゾルゲ事件』をいかに政治利用したか」 2
2)朝飯会と佐々弘雄に関する尾崎秀実の供述 5
第2回掲載………………………………………
3 )「南方調査の方法と企画を語る座談会」は14日夜に行われたのか 6
4 ) 三宅正樹(明治大学名誉教授)の14日検挙の否定説は編集後記の1行 10
第3回掲載………………………………………
二)尾崎秀実14日逮捕の裏付け調査に反論できるか
1)四谷駅橋上の高橋ゆう・古在由重会談と松本慎一 12
2)尾崎逮捕は藤枝丈夫を三菱美唄炭鉱に走らせた 13
3)中村哲(法政大学長)は証言する 14
4)石堂清倫の体験記録「検束と勾留」 15
5)北林トモの検挙はエディットと息子ポールの国外脱出の直後だった 15
6)ゾルゲを取り調べた特高外事課の大橋秀雄警部補の証言 18
7)尾崎秀実14日検挙の根拠に反論が出来るか 19
三)内閣書記官長『風見章日記』から何が読み取れるか
1)槙野亮一は『風見章日記』を読んだのか? 23
2)尾崎秀実は日本共産党員だった 24
3)『現代史資料・ゾルゲ事件』2巻「尾崎秀実の訊問調書」 24
四)「ゾルゲ事件新聞記事発表文」に対する稟議書
1)検挙月日の公表は禁止する 25
2)新聞記事の公開になぜ「事件の端緒」が発表されなかったのか 27
3)『現代史資料・ゾルゲ事件』2巻「、尾崎秀実の訊問調書」 28
特別報告
伊藤律ゾルゲ事件端緒説を覆す太田文書の手書きの部分を解明する
1)「北林トモに関する供述は青柳喜久代から」担当した検事たちの証言 32
2)太田資料の鉛筆の書き込み文書を解明する 34
3)ゾルゲ事件の検挙を指揮した検事たちの回想と証言 36
4)伊藤律遺稿・「ゾルゲ事件について」は語る 36
5)青柳喜久代とアメリカ帰りのおばさんという人 37
6) 伊藤律ゾルゲ事件端緒説はこうして作られた 39
二)尾崎秀実14日逮捕の裏付け調査に反論できるか
1)四谷駅橋上の高橋ゆう・古在由重会談と松本慎一
まず古在由重の証言を紹介しよう。『その日の前後』の中で彼は冒頭に「私は毎日のように日記をつけていた。私の生活に非公然の政治活動が含まれるようになってから、それは中止されざるをえなかった」と書いている。従って以下の記録は日記に記載されたものではなく記憶よるものである。
「尾崎逮捕の報を私が耳にしたのは検挙の当日、1941年10月15日の午後4時すぎだった。四谷の上智大学でカトリック大事典の編集局に当時つとめていたわたしに、高橋ゆうという女性からその日の午後に電話がかかってきた。四谷の橋のうえで4時すぎに会いたいという。この人はもともとわたしが東京女子大学の教師をしていたときの生徒であって、ずばぬけてすぐれた、ものしずかな女性だった。かねてわたしが松本に紹介して、のちにかの女は松本の媒介によって尾崎の勤務さきの満鉄東京支社につとめるようになる。」彼女もまた尾崎ののちにやがて検挙されることになるが、当時の内務省警保局保安課の記録をみると、「非諜報機関員。高橋ゆう。明治44年8月15日生、満鉄東京支社調査部勤務。治安維持法違反」と記されている。
「電話をうけて、わたしは「何の用だろう?」といぶかりながら橋の途中までゆくと、すでにかの女はわたしをまっていた。おちついた調子ではあったが、その知らせは意外なことだった──「尾崎さんがつかまったようです。けさ調査室に奥さんがみえてなにごとか小声で上役の人にささやき、一緒に室からでてゆきました。どうも様子がおかしい。つかまったのにちがいありません。」あとからおもえば、かの女は尾崎・ゾルゲゾルゲ事件にふかいかかわりはなかったが、それにしてもなにか予感だけはすでにあったにちがいない。そのときにはただこれだけのことを耳にしたまま、わたしたちはわかれた。なにをおいても、松本にすぐにそれをつたえなければならない。その足でわたしは高円寺のかれの家にまわった。
すでに夕刻だった。いまだに覚えている。ちょうど長身の松本が縁側の雨戸をしめかけているところだった。庭から室へあがったわたしはさっそく尾崎の一身上の異変のおそれをつたえた。しかし、そのときはまださほどのおどろきもなかった。なにしろ、当時の情勢からみれば、どんな進歩主義者にも一身上の安全は保障されなかったからである。事態が容易ならぬものだと直感したのは、むしろその翌日のことだった。
その日、つまり尾崎検挙の翌日に松本は警戒しながらも目黒区祐天寺の尾崎宅をたずねて、夫人からくわしい話をきき、その帰りにわたしの家にやってきた。かれによれば、15日早朝の逮捕はピストルを携えた十数人の武装刑事によっておこなわれ、想像以上にものものしい状況だったという。それはもはや評論家としての尾崎の活動にむけられるようななまやさしい襲撃とはどうしてもおもわれない。なにか重大な非合法の活動がかれにはあったのではなかろうか」と古在由重は書いている。これは『尾崎秀実著作集第二巻の「月報」2にも掲載されている。
これが「尾崎秀実15日検挙説」の大きなよりどころのひとつにもなっているが、実はこの文書が筆者をして「尾崎秀実の検挙日の調査」に駆り立てた大きな要因となった文書のひとつだったのだ。
先ず最大の疑問は三輪武の回想と同様に、「けさ調査室に奥さんがみえてなにごとか小声で上役の人にささやき、一緒に室からでてゆきました」と書いていることだ。そんなことは絶対にありえないと思った。仮に尾崎が15日に検挙されたのなら、その日の朝に夫人が調査室に出向くことなどできるはずはない。尾崎によると娘の揚子が学校に行ったことを確かめてから夫人には声もかけずに連行されたと書いている。
尾崎が逮捕されると同時に当然、家宅捜査が行われるはずではないか、何がなんでも諜報活動の裏付けをとらなければならない。宮下弘によれば「いきなり取り調べに入るのではなくまず証拠調べをやる。尾崎の場合は膨大な文書類はあるがそれらをいちいち読んでいる暇がない。どこから手をつければいいか、事は緊急を要するので住所録から手を着けた」(上掲書214頁)尾崎秀実の手帳に宮城与徳の連絡先が書いていないことから、「それは何故だ」と突っ込んだと、証拠物件の確保は犯人の検挙と並んで最も重要な案件なのだ。
後述する「特高捜査員に対する褒賞上申書」の高橋与助(警部)の欄には「10月14日特高第一課長中村絹次郎の命令によって、高橋は彼の指揮した部下と共に目黒区上目黒5丁目2435番地で尾崎秀実を逮捕し、非常に沢山の証拠物件を押収した。」と書いている。
沢山の押収物件がそんなに短時間で蒐集できるはずはないだろう。
さらにこの文書の冒頭に古在由重は日記を書くのを止めていたと書いている。つまり「四谷駅の橋上での高橋ゆうとの出会いは日記などの記録ではなく、「尾崎秀実15日逮捕」の当局発表からの推測だと思われる。
2)尾崎の逮捕は藤枝丈夫を三菱美唄炭鉱に走らせた
さらに恐らく知る者は少ないだろうと思われる尾崎逮捕の直後に尾崎宅を訪ねた藤枝丈夫の劇的なドラマを紹介しよう。
藤枝丈夫という人物は1920年当時、義父の命で中国に渡り軍関係のスパイとなり、福建、雲南、貴州の3省を除き中国全土を徒歩で踏破しその報告を軍にあげていたが、張学良と対立する郭松齢の反乱事件で軍から抹殺されるところを命からがら内地に引き揚げ、軍と権力に反感を抱き、プロレタリア科学研究所の創立に関わり、中国問題で論陣を張ったという変わり者だが、戦後、北海道炭鉱の中国人捕虜の暴動などで無政府状態になった社会情勢の中で、得意の中国語を駆使して暴動の鎮圧と治安維持とさらに、炭鉱労働組合の統一組織に尽力し、その功績で日本共産党の中央委員になったという変わり者として戦後の党活動家らには知られているが、その藤枝丈夫の聞き書きを紹介しよう。
「尾崎君とは小沢正元さんの紹介で知り合いました。小沢さんがまだ朝日にいた頃で、上海から尾崎という男が帰ってくるが、会ってくれないかと言われたのが最初です。尾崎君の用件は上海に日本人の組織ができているのだが、これを共産党の在外組織として認めてくれるように党の意向をきいてくれないか、というものでした。(注、東亜同文書院の細胞組織のこと)
当時のコミンテルンの方針は1国1党主義でしたから中国共産党に属するという回答だったと思います。それ以後会う機会がなかったが、彼の書いたものには注目していました。(中略)あれは10月の何日のことでしたか、尾崎君のところにふらりと訪ねて行ったのです。目黒の旧競馬場近くの洋館で番地を探しながら行ったわけです。ところが、どうも様子が変なのです。戸は開いているのですが、「こんにちは」と言っても返事がない、どうも誰かが奥にひそんでいる気配がするのです。これは危ない、ガサを受けたなと思いました。第六感というのでしょうか。そこで私は、やみくもに市電に飛び乗ったのです。すると市電の中に炭鉱の求人広告が出ていまして、すぐにその紹介所に行ったわけです。少し前から、私は戦争が近いということを聞いていましたし、尾崎がやられたのならば次はわれわれだ、事態は逼迫しているな、と考えたわけです。炭鉱に潜ってしまえば大丈夫だ、と思ったのです。
紹介所に行くと、偶数日に来た人は三菱に、奇数日は三井と決まっていて、私が行った日は偶数日でしたので三菱に回され三菱美唄炭鉱に行くことになったのです。
聞き手=尾崎の逮捕は10月15日ですから先生が偶数日と記憶しているのでしたら16日、尾崎逮捕の翌日になるでしょうか。
藤枝・そうなりますか、するとあの日は16日ですか、翌日だったのですか、そうかも知れません。(「中国現代史の課題」1979年12月 小林文男著)
これで見るように記録や史料を厳密に検討して尾崎秀実の検挙の日を特定するのではなく、「検挙は15日」ということから偶数日なら翌日の16日か18日と、大学教授でも決めてかかっているのだ。果たして16日か、18日だったかこれでは分からない。
3)中村哲(法政大学学長)は証言する。
「福田内閣ができたころ首相官邸の集会で、松本重治さん(注、連合通信上海支局長、戦前は近衛文麿、戦後は吉田茂の政策ブレーンとして活動した。)と話し合っていましたら「君と会った日は尾崎の捕まった日だったことを覚えているか」と言われたのです。そうなると、昭和16年10月15日の前のことになります。
「平貞蔵さんのすすめで麻布「『大和田』の鰻屋の「風見章さんの会」、会する者は松本、牛場、北山富久次郎、平、私、あと誰がいたか思い出せず」と書いている。伝聞ではなく、本人が執筆したものである。六本木の鰻屋『大和田』の会は「風見章さんの会」であり「朝飯会」ではなかった。佐々弘雄の名は此処には書いてないが、当然のことながら尾崎秀実の名もここには書いてない。
さらに重要ななことはその末尾に書かれている、「先便の風見さんの会、あの日(注、つまり14日)尾崎さんが捕まらなければ、西園寺、尾崎と出てきた会だったことを改めて思い出しました。ああいう会の日取りは尾崎、平の両氏が決めていたはずです」(『尾崎秀実著作集』第四巻、月報、後半の部分は今井清一と夫人楊子宛の私信と書かれている)これによれば今井清一教授は歴史家だからこのときすでに「尾崎秀実の逮捕は14日」であったことを確認したと思われる。
4)石堂清倫の体験記録「検束と勾留」
拙著『偽りの烙印』を読んだ石堂清倫さんとはその後も、野坂参三や松本三益に関する調査を依頼されて、かなり親密な付き合いが石堂さんの死ぬまで続いた。筆者の調査報告には必ず石堂さんは返辞をくれて励ましてくれた。そのひとつに安斎庫治について、安斎がゾルゲ事件で検挙されながら釈放されたこと、(注、宮下弘著『特高の回想』にも「安斎の実兄が関東憲兵隊の実力者で、安斎は関東憲兵隊が使っている者だ。直ちに釈放せよ」と抗議を受け釈然としない気持ちでしたが、軍と衝突してもつまりませんから、と釈放したことの憤懣が記載されている。上掲書237頁)
続いて満鉄調査部事件でも安斎は検挙されながら釈放されたこと。満鉄包頭公所に赴任できたのは実兄が関東軍の特務機関員だったこと、など詳細に書いた後で、蒙古の傀儡政権である徳王の一拠点の五原を何回も関東軍が攻撃しても農民の懐柔に失敗したとき、安斎は「中国政府が管理する黄河治水文書を関東軍が奪取すれば、米作中国農民はいやでもこの文書の所有機関に服従するだろうと、その文書の奪取を目的にした作戦を進言し、その通り目的は達成されたという。(五原作戦という)
石堂さんにそのことを伝えたのは所長の太宰松三郎だったという。その石堂さんの手紙の文面の末尾には「検束と勾留について」、「検束は一夜を越えることが出来ない規定だったと記憶します。勾留は28日を越えることは出来ません。3・15事件のとき私は3カ月以上勾留されましたが警察の身分簿は、28日目に釈放し、別の嫌疑で再逮捕ということを書面上でくり返すのが慣例となっていた」と書いている。
5)北林トモの検挙はエディットと息子ポールの国外脱出の直後だった
ゾルゲ事件当時、ゾルゲの取り調べ担当検事の吉河光貞検事は戦後、特別審査局長や公安調査庁長官などの公安関係の要職を歴任したが、その吉河はその点に関して次のように言う。「当時の治安体制は検事が勾引状、勾留状を発布できるという絶大な権限を持っていた。警視庁の特高と外事は、事件を詳細に絶えず報告して、連絡を密にし、検事から勾引状、勾留状を発布してもらわなければ事件捜査ができないといということで、すべて逐一検事のほうに報告しておりました。この北林トモのこと、伊藤律が北林トモについて話したことは報告をきいておられるはずです。」(「法曹」1972年11月号「あの人この人訪問記」)
この資料で最も注目されることは、当時は思想検事にすべての権限が集中し、検事が直接特高達の指揮、監督に当たっていたということだ。いかに特高といえども被疑者の検挙は思想検事の指揮命令によるものであり、特高が独自に検挙するなどということは現行犯以外にはない。ましてや近衛内閣の顧問であり、朝飯会の常連として朝野にその名が知られた尾崎秀実の検挙ともなれば、慎重の上にも慎重に確実な裏付けがない限り逮捕には踏み切れないはずだ。
今回、公開された「太田耐造関係文書目録」の「ゾルゲ事件関係資料」に、「外諜報被疑者検挙準備に関する件」、宛て先は各地方裁判所検事正(昭和16年7月25日、整理№104-1)がある。ゾルゲ事件の従来の説によれば1941年9月27日、北林トモが和歌山県粉河で検挙され、地元の粉河署にも立ち寄らず、そのまま次の列車で警視庁に連行したことから(注、ゾルゲ事件検挙記録によれば9月28日検挙と書かれているが警視庁に収監された日のこと)ゾルゲ事件が発覚、宮城与徳の検挙から波及したとされてきたが、この資料によれば、北林トモ検挙の2カ月前に検挙の準備が手配されている。ゾルゲ事件の端緒は北林トモの検挙に始まるというそんな偶然的な物語ではないことをこの資料は示している。
ゾルゲ・グループは任務が完了し、最も弱い環から日本の脱出を開始した。ブーケリッチの前夫人エディスが息子ポールを連れてエディスの妹がいる豪州に脱出したのは、北林トモが検挙される2日前のことだ。当局はエディスの家がクラウゼンの通信基地になっていることを掴んでいるから、エディスも厳重な監視対象に置いていたが、エディスの潜行行動が勝っていた。当局は明らかにゾルゲ機関の分散逃亡と悟った。エディスらの乗船手続が終わったにもかかわらず、2日経っても出港の許可が下りなかった。オーストラリア大使らの抗議を受けてようやく日本を離れることが出来た。北林トモの検挙はエディス親子が日本を離れたその次の日のことだ。間一髪でエディースとポールは検挙を免れたのである。
しかもポールの回想によると香港に船が寄港したしたとき、尾崎やゾルゲの上海時代当時付き合っていたアグネス・スメドレーがエディスと会ったという。長年住み慣れた中国を離れて、アメリカに在住していたスメドレーがなぜ香港に入港したエディスが乗船している客船に現れたのか。息子のボールによると、そのときスメドレーはひどく興奮していたという。当然ゾルゲの連絡なしには考えられないだろう。このことはスメドレーに関するどんな本にも記録されていない。
当局にとって事態は緊急を要していたのだ。(この詳細については第9回ゾルゲ事件国際シンポジウム・オーストラリア・シドニー工科大学、2015年12月4日で筆者は「ヴーケリッチの真実」としてこの経緯を詳しく報告した。)
尾崎秀実検挙の以前に思想検事の会同もある。恐らく現場の特高の意見を検討してこれらの会議で、尾崎秀実検挙の指令が思想検事によって出されたのだろうと思われる。筆者もこの資料は未見だからそれ以上のことは言えないが、尾崎秀実の勾引、勾留の指令は玉沢光三郎検事名である。警視庁警備部外事警察は昭和32年(1957年)6月に「ゾルゲを中心とせる国際諜報団事件」について、現在の「外事警察資料」の参考になると、「部外秘」の内部資料として刊行した。
内容的には「特高月報」と同じだが、ひとつだけ異なった極めて特徴的な箇所がある。それは「特高月報」(昭和17年8月分)69頁以下に掲載されている(1)昭和14年度に於いて漏洩通報したる事項のゾルゲ、尾崎秀実、宮城与徳らのもたらした情報一覧表の各項目別に「国家機密」、「極秘資料」、「軍用資源保護法」「軍事上の秘密事項」などの記録が記載されていることだ。
ということは「特高月報」記載にはそれらは一切削除されているが、その元版には書かれており、それが警視庁に保管されているということだ。しかも同様の資料が2種類あることも判明していて、両者は細部ではかなり違った表と記載がある。後述する陸軍中尉橋本隆司の存在と彼がもたらした情報についても書かれている。
筆者はこれらの資料のなかで「勾引月日」が14日であり、「勾留月日」が15日であることに着目した。『広辞苑』を引いたがその差は分からない。
(広辞苑によると、「勾引」とは「裁判所が訊問のため被告人、証人その他の関係者を一定の場所に引致する強制処分」と書かれ、「勾留」は「裁判所が被疑者または被告人を拘禁する強制処分」と書かれている。)この一連の書類の記載はすべて「勾引」月日は14日、「勾留」月日は15日と明確に区別して記載している。
多分14日は尾崎秀実はまだ被告人ではないから、形式的には証人として喚問されたという形式をとったのだろう。戦前の警察がよく使い慣れた「一寸署まで来てもらおうか」、という「参考人事情聴取」という形の検挙の仕方であるか、「氏名」、「年齢」の次の下の欄には「検挙理由」として「外諜関係」と書かれているから「勾引」も「勾留」の違いは全く形式だけで、最初から「外諜関係」で検挙することにしていたのだ。
宮城与徳の供述によって充分にその裏付けがとれていたからであり、一刻も早くゾルゲたち外国人の検挙に着手しなければならなかったからだからだ。「勾引」や「勾留」の違いが一般の主婦に分かるはずはない。特高は尾崎の14日の深夜(11時)に及ぶ拷問の末、供述を得て15日、「勾留」即ち=検挙を尾崎秀実と英子夫人に告げて以降、厳重に「軍機取扱」事項として尾崎秀実及び家族に「15日検挙」を言い渡したのだろうと筆者は想定した。
14日に事実上の検挙をしながら「特高月報」には「15日検挙」と記載した謎はこれまで解けなかったが、今回公表された「太田耐造資料」でその謎は判明した。
「太田耐造資料」の公開を最初に報道したのは2018年8月18日付の毎日新聞だった。(注、一面トップに6段抜きで「ゾルゲ゙事件報道統制文書 旧司法省幹部手控え発見」という見出しで大きくゾルゲ゙事件の記事解禁の経緯と公開する文書の各省庁の意見を求め、1941年10月事件発生の翌1942年5月16日に司法省が事件の内容を発表した時に繰り返し慎重に文章の訂正を行っている状況が「太田耐造資料」によって詳細に報道されている。
しかもそれは同分量の記事が二面にも「ゾルゲ゙事件文書・各省が修正要求 スパイ浸透 矮小化へ走る」という見出しで報道された。毎日新聞の記者からは筆者に関係資料が送られてきた。この各省の意見の中で特に筆者が注目したのは大審院検事局から司法省に提出された5項目の意見であった。(昭和17,5,13刑思印)と記載されその冒頭の第1項には「検挙の日時を明確にするの要なきや」と書かれているが、その他4項目については「処理済」と記載されてあるにも関わらず第1項については「禁止」の処置がとられている。
つまり当局は尾崎秀実の検挙月日の公開を禁止したのだ。
大審院検事局の稟議書に×印を付けられる上部は如何なる組織なのか、またその理由は国家権力の最深部のことだからそこにどんな事情があったのか、如何なる指示であるかわからないが、多分その秘密に迫ったのが孫崎亨の著作だと筆者は理解する。
6)ゾルゲを取り調べた特高外事課の大橋秀雄警部補の証言
尾崎秀実の検挙は14日であると筆者は特高捜査員の「褒賞上申書」の記述や「検挙索引簿」などを引用して立証してきたが、ふと思い出して特高外事警察の大橋秀雄(当時警部補)の記述を調べてみた。ご承知の通り大橋秀雄はゾルゲの取調官であり、その取り調べの方法には宮下弘特高係長も「どっちが訊問しているかわからない」などとかなり批判的に書いているが、ゾルゲ事件に関する回想も書いている人物でもある。(『ゾルゲとの約束を果たす』など)
最初の記録は私家版「真相ゾルゲ事件」(昭和52年・1977年11月)であり、さらに「私の警察功過録」(平成5年3月)も比べてみた。この両著は尾崎秀実の検挙について以下のように記述している。
「特高1課は宮城与徳の自供に基づき東京地検の指揮を受けて、10月14日、目黒区上目黒5丁目2435番地の自宅で尾崎秀実の勾引状を執行して目黒警察署に勾留した。」
(「真相ゾルゲ事件」27頁、昭和52年11月7日発行・私家版)これによると「勾引状を執行し」「勾留した」と書いてあり、検挙したとは書いてない。「私の警察功過録」の記述も同様である。「勾引」と「勾留」が区別されて使われていることは「検挙索引簿」、「検挙表」、「検挙人旬報」などと同じである。筆者にはこれが正解だと思える。
7)「尾崎秀実14日検挙」の根拠に反論ができるか
評論家槙野亮一や三宅正樹教授が拙文の「尾崎14日検挙説が誤りだ」いうなら、筆者が14日検挙説の裏付け資料として挙げたひとつについてでも反論することができるか。或いは検討したのか。筆者が「尾崎秀実の逮捕は14日」であるとする裏付け資料は以下の通りである。(以下は拙文「尾崎秀実の10月15日逮捕は検事局が作り上げた虚構のひとつ」に詳述している)。
①「検挙索引簿」(拙文、前掲書3頁)
②「検挙人旬報」(同3頁)、
③「検挙表」この3つの資料は警視庁の最深部に保存されていた極秘の資料であり、現在に至るも公開されたことはない。戦後、米国占領軍によって内務省関係資料が米国に持ち去られ、米国の研究機関で膨大な写真版に撮られ、のちに日本に返却され現在は公文書館に保存されている。日本では東大、京大、早稲田その他5つの大学が入手保管しているという。
不二出版ではこの膨大な資料のうちから纏まった貴重な資料は復刻したが、筆者が関心を持つような資料、例えば「特高関係半年報」(各年度別)、「各種事件処分状況」などなどは雑文扱いで復刻されなかった。筆者はこれら約1万枚を写真版に複写し、さらにコピーして小冊子にして全124巻を私製本として保存していた。
(その写真版の元版は現代史研究会がお世話になっているので、生方明治大学教授を経由して明治大学に寄贈し、元資料のリール(22巻と記憶する)は愛知大学鈴木則夫学部長に岐阜県瑞浪の伊藤律研究会でお世話になっているので無条件で提供した。)この3つの検挙者の記録には前述したように凡て尾崎秀実の勾引は10月14日であり、勾留月日は10月15日と記載されている。その何れにも検挙命令検事は玉沢光三郎検事、受命者は高橋与助警部で、尾崎秀実は目黒警察署に勾引された。勾引№も321と通し№が書き込まれている。従ってコピーを見ればわかる通り順番を崩すことは出来ない。
(上記の写真はここに掲げた一番大きな写真が「検挙人旬報」であり、講演会の会場では等身大にコピーを作成して入手のルーツとともに解説した。上図は一番上の欄には「通し番号」が書いてあり、次に「勾引月日」、「勾留月日」、「氏名」「年齢」、「検挙事由」、「学歴」、「職業」、「本籍住所」、「勾引執行場所」、「留置場」、命令検事」、「受命主任」、「備考」の順に記載されている。この頁には岡井安正、芳賀雄、鈴木亀之助、秋山幸治、九津見房子、尾崎秀実、水野成、松本五男の順に一貫した通し№で表記されており、左端には「昭和十六年十月二十日現在」と書かれている。残る二つの記録の説明は省略したが「検挙索引簿」であり、もうひとつは「検挙表」である。
ウイロビーが尾崎秀実の検挙を14日と書いているのは、この資料によって旧特高たちの裏付け証言を得た事によるものなのだ。(なお筆者がこの資料を入手した経緯は「特高月報」を復刻するときに欠号している数巻の「特高月報」を米国議会図書館から提供されその見返りに復刻された3セットの「特高月報」を送った謝礼として送られたものであり、講演会ではその詳細について報告した。
④「最近に於ける共産主義運動検挙秘録」「国際共産党諜報団事件(ゾルゲ)の検挙」(昭和18年3月)「全国特高警察官プロック研究会に於ける特高一課第二係長警部宮下弘」の講演記録(本資料は加藤哲郎教授より提供された。社会運動資料センター2001年7月刊)によれば、「尾崎を検挙したら即日自白させて直ぐ後を検挙するということに決めて、14日の早朝,尾崎を検挙すると直ちに宮下係長以下首脳部がこの取り調べに当たった。遮二無二その日の内に自白させねばならぬという意気込みで実に峻厳な取り調べを行った。」と記載されている(上掲書、5頁)
この記録で重要な点は宮下弘の講演録はまだゾルゲ事件の検挙が続いている最中の時期の報告で、尾崎秀実の検挙に加わった同僚の特高が目の前に居る中での報告であるという点にある。
⑤ 第二回国際シンポジウム(2000年9月於モスクワ)のときKGB社会宗教局長トマロフスキー、ウラジミール・イワノビチ氏から提供された「特高捜査員に対する褒賞上申書」の宮下弘の欄には、「尾崎秀実が10月14日逮捕されるや直ちに彼を取り調べ、事件の見取り図を描かせゾルゲと他の外国人を一網打尽に逮捕する一方証拠物件を抑えた。」と書いてある。さらに河野啓(警部補)の欄には「10月14日から16日にかけて高橋与助警部を助けて当該事件の主犯のひとり、尾崎秀実を取り調べ」云々とあり、柘植準平(警部補)の欄には「尾崎秀実の同月14日に行われた取り調べの際には係長高木警部に協力して」云々と書かれ、高橋与助(警部)の欄には「10月14日特高第一課長中村絹次郎の命令によって、高橋は彼の指揮した部下と共に目黒区上目黒5丁目2435番地で尾崎秀実を逮捕し、非常に沢山の証拠物件を押収した。(─中略─)高橋は宮下係長とともに激しい訊問を行った。追及が矢継ぎ早に行われた。犯人は気絶しそうになった。彼が正常な状態に戻ると、懲罰を加えることなく訊問が続いた。高橋と宮下は尾崎にスパイ組織に関する主要な事実を完全に自供させ、彼を逮捕の日に告発した。
以上のようにこれら各特高捜査員の「褒賞上申書」の蘭のすべてに尾崎秀実の逮捕が14日と明記されている。(『国際スバイゾルゲの世界戦争と革命』(白井久也編著・社会評論社2003年、100頁)
この資料は1945年に満州に侵攻したソ連軍が新京の関東憲兵隊司令部で押収した資料で、現在はKGBの資料室に保存されているという。
⑥ さらに「特高月報」昭和17年8月分掲載の「ゾルゲを中心とせる国際諜報団事件」(内務省警保局保安課)(『現代史資料』ゾルゲ事件)(1)の冒頭に掲げられている「事件の概要」の5頁に「対日諜報機関関係被検挙者一覧表」が掲載され、その5人目に通説の通り「尾崎秀実、10月15日、検挙」と記載されており、これだけが唯一の当局の公式見解であり記録である。
だがその同じ「特高月報」の「対日諜報機関関係被検挙者一覧表」のわずか5行前(4頁)には、「昼夜兼行同人(筆者注、宮城与徳のこと)を追及し、且つ同人宅に張り込み員を付するなどにより続々連累者の検挙を続行、(注、芳賀雄・1941年10月12日検挙、九津見房子・1941年10月13日検挙、秋山幸治・1941年10月13日検挙など)ついに検挙は組織の核心に及ぶを得て、10月14日以降、尾崎秀実、リヒアルト・ソルゲ等の検挙に及び」と記録されている。
この報告書は宮下弘の執筆によるものと思われてきたが、事実は今回公開された「極秘・軍機取扱」の刻印が押された「国際共産党対日諜報機関検挙申報」(205本文と33頁)という報告書が原本であることが「太田耐造資料」によって判明した。従ってここに記載された「10月14日以降尾崎秀実、リヒアルト・ソルゲなどの検挙」云々の文言は「軍機取扱」の警保局の最上部で作成された報告書であることが判る。表紙の裏には「本申報の取扱は機密保持上厳に御注意相成度 特高部長」とあり、裏面には「特庶務秘第113号 昭和17年6月10日 警視総監 留岡幸男、司法大臣殿」と認められている。総頁279頁の大冊である。
これを「特高月報」昭和17年8月分と対比してみると「特高月報」の表題は「国際共産党対日諜報団並びに軍機保護法・国防保安法違反誹議事件取調状況」と長文のタイトルをつけて独自の報告書のように装っているが、今回厳密に比較対照したところ同文であることが判明した。但し部分的に異なっている箇所が1カ所ある。それは「特高月報」69頁には「昭和14年度に於て漏泄通報したる事項」のすべてに「国際共産党対日諜報機関検挙申報」ではそれが「軍事上の秘密事項」、「軍用資源秘密事項」、「国家機密」、などと明記されているが、「特高月報」ではそれは全部消却されていたことだ。
面白いことに「機密部員の地位とその活動」にはソ連中央部に報告していた情報の内容が記載されていて1から35項目が列挙されているが23項目が欠落し、24に飛んでいる。双方ともに欠落に気づかなかったのか、但しみすず書房刊は23と訂正してある。
或いはあまりにも重要な極秘事項のために抹消されたのかも知れない。
「特高月報」では「国際共産党対日諜報機関検挙申報」の末尾の「無線通信施設概要」の(三)通信連絡の状況の(2)連絡日時の打ち合わせ、を以て「昭和十六年 21回、13,103語」なり。で終わっているが以下約46頁分が欠落している。この箇所は無線機及び暗号の箇所である。従って相違点はあるとはいえ、その他は全く同文である。
「事件発覚の端緒」は特高捜査員の現場の事であり「国際共産党対日諜報機関検挙申報」には記載されていない。
新聞記事公開の際にもこの点についての発表、言及はなかった。
さらに「本機関の組織及び連絡」(「特高月報」では53頁)に「ブーケリッチの先妻エデット(クロアチア人)も亦本機関に所属せるも、何れも既に早く本邦を退去せり」と書かれているがこれは全くの虚報で北林トモの検挙の前日のことだった。苦しい言い逃れにすぎない。
この原本が公開されたことによって「特高月報」のゾルゲ事件の報告がた宮下弘執筆のものと思われてきたが事実は今回公開された「極秘・軍機取扱」の刻印のある「国際共産党対日諜報機関検挙申報」(205)という報告書が原本であることが判明した。
謎が解けてみればそれは当然のことと言えるだろう。特高係長程度の者が記載できる記録ではないことも「太田耐造資料」によって判った。この記録のしかたをみると「尾崎秀実15日逮捕」説は「極秘」の「軍機取扱」であり、太田耐造(課長)ですら手の届かない処からの指令、または通達によるものだったのだ。
一応は上部の顔をたてて「尾崎秀実の検挙を15日」としながら、宮下たち特高の現場捜査員の苦労と真実をこうした形で記録したのではないかとこの資料は示唆している。
(追記、「質問に答える」について三宅正樹教授から次のような返事が届いた。「尾崎秀実の逮捕の日に関しましては先日お送り申し上げました『橘樸著作集』第3巻収録『満州評論』第21巻第17号所載の座談会に尾崎秀実が出席した事実が記載されているわけですから14日検挙はあり得ないと考えられます」(8月14日付)という便りがあったが、筆者が挙げた6項目の裏付けに対する反論や「新亜細亜」11月号の座談会が11月14日に行われている矛盾点などについては何も触れていなかった。)
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://chikyuza.net/
〔study1089:191205〕
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