記憶と反省と想像と
- 2019年 12月 11日
- 評論・紹介・意見
- 小原 紘徴用工朝鮮韓国
韓国通信NO621
最近、体力と記憶力の低下が気になりだした。記憶力は昔からよくないのであまり気にならないが、聴力と筋肉、特に足の衰えがひどい。わが国は人口の3割を高齢者が占める社会になった。さらに2025年には何と5人に1人が認知症になるという驚きの予想もある。
しかし日韓関係を見る限り、年齢に関係なく広範に認知症が広がっているように思える。82歳、フランシスコ・ローマ教皇の活躍が眩しかった。原爆と原発事故に見舞われた日本にやって来て、核兵器と原発は「イラナイ」と説いた。あたりまえの話を久しぶりに聞いたような気がする。
「核保有国と非保有国の橋渡しになりたい」と語る憲政史上最長の首相の顔が歪んで見えた。
教皇の姿を目の当たりにして、歳をとってもグレタ・トゥーンベリさん(16)のような若者に誠実に向き合える大人になりたいと思った。
11月27日、埼玉県浦和市で韓国について話をする機会があった。最悪といわれる日韓関係について話せと言う。日本中が韓国「たたき」で一色になっている。皆でこの問題について考えてみようというのが集まりの趣旨だった。話は日本社会が今陥っている韓国・朝鮮に対する「偏見」「軽視」「嫌韓」のルーツ探しから始めた。日本と朝鮮半島の歴史をたどった。
大和朝廷と朝鮮半島との深いつながり。その当時、今のような「偏見」「軽視」の感情があったとは考えにくい。小説家坂口安吾は、二つの民族は同じ言葉で意思の疎通ができたと「想像」したほどだ。ハングル文字ができるずっと以前の話だ。
16世紀、秀吉がしでかした二回の朝鮮侵略という大事件を除くと、日本と半島はおおむね友好的な関係だった。江戸幕府の鎖国時代も含め、朝鮮半島は大陸の文化、文物をわが国に伝える窓口だった。漢字も仏教も鉄の精錬技術も儒教も朝鮮半島からやってきた。
それが突如、侵略の対象となったのは明治政府の富国強兵策によるものだ。欧米の植民地獲得競争を見習い、大陸侵略の足掛かりとして1910年の日韓併合、満州国の建国、中国侵略へと突き進んだ。侵略を正当化する教育によって朝鮮半島に向ける日本人の眼差しが作られた。福沢諭吉の「脱亜入欧」、新渡戸稲造の「枯国朝鮮」、日本の近代を代表する彼ら知識人たちの朝鮮に対する軽視と侮蔑は明らかだ。
「保護条約」などいう、たいそうな名前の条約を押し付け、初代統監におさまった伊藤博文。彼らがそろって紙幣を飾ったのは朝鮮侵略の動かぬ証拠写真と言えるのではないか。
「古事記」「日本書紀」に出てくる神功(じんぐう)皇后による「三韓征伐」、豊臣軍の侵略を「朝鮮征伐」という表現は、明治時代にさかのぼる皇国史観にもとづき一般に流布された。戦後の新しい教育を受けた私でも「征伐」という支配者の表現を受け入れていた。
こうした日韓関係の歴史を踏まえて、最近の日韓間関係に触れた。以下は当日の話と不足部分を補ってまとめた最近の日韓関係の現状だ。
政府と主要メディアがGSOMIA問題で大騒ぎした。日本政府は輸出規制と関係のない問題だと一蹴、韓国政府、文在寅大統領を批判、マスコミも同調した。
それなら何故、日本が徴用工問題と関係のない輸出規制(経済制裁)をしたか説明すべきだった。自分のことを棚に上げて相手を非難する紛れもない「ヘイト」だ。安倍政権になってからこの種の応酬が韓国に対して多くなった。
感情先行、何を議論しているのかわかりにくい。肝心のGSOMIAそのものについてあまり議論がないのが不思議だ。
北朝鮮の脅威に備えてアメリカの主導によって2016年朴槿恵政権との間で結ばれたGSOMIA。締結の前年、日本は安保法制を成立させ、海外で米軍とともに戦う法整備をした。国会の承認が必要のない政府間協定だが(逆にそれほど軽い協定だったと云える)、微妙な時期に結ばれた「協定」は本来、国会できちんと審議をすべきだった。しかし「軍事協定」であることに違いはない。締結当時与党だった現「ウリ共和党」もそう主張している。
北朝鮮のミサイル発射に備えて、Jアラート、防空訓練と、「戦争前夜」を思わせる雰囲気は記憶に新しい。北朝鮮がミサイル発射をする度に迎撃ミサイル、イージス艦出動と大騒ぎしたが、最近はそんな話は聞かない。
理由は簡単だ。米朝会談と南北首脳会談が開かれ、国交正常化、南北統一へ向けた話し合いが進んでいるからだ。韓国にとって北朝鮮を仮想敵国としたGSOMIAは不要になったのは理解できるだろう。米朝の話し合いが順調に進むなら、アメリカにとっても日韓のGSOMIAなどは、「どうってことはない」はずだ。「無条件で話し合いたい」と表明しバスに乗り遅れまいとする日本にも「あってもなくてもいい」。それでも日本は日米韓の「結束」を訴えてアメリカにGSOMIA破棄を韓国に思いとどまるように頼み込んだ。
頼まれれば、将来、中国、ロシアに対抗するために利用価値のある韓国と日本の対立は好ましくなく、アメリカは「おせっかい」をした。おせっかいの代償は両国に米軍の駐留費をそれぞれ5倍に増額させること。トランプ政権は抜け目がない。しかし韓国政府はおそらく増額に応じないばかりか、米軍の撤退を求める可能性すらある。日本政府は増額を認め、韓国から撤退した米軍を受け入れるに違いない。
<日本の輸出規制の理由は>
日本が突如言い出した半導体の輸出規制と「ホワイト国除外措置」決定は韓国にとって大きな打撃だった。日本政府は当初、徴用工問題に対する「報復措置」として発表したが、その後撤回、安全保障と純粋な貿易問題にすり替えた。日本の大国意識まるだしの力による報復措置に韓国市民が激怒したのは当然だった。
今回、韓国側がWTO(世界貿易機関)への提訴を取り下げたのは話し合いによる解決を求めるシグナルであり、一歩引いた韓国から投げ返されたボールを日本がどう受けとめるか注目される。韓国ではGSOMIA破棄の声は大きいが、協定失効を一時的に停止したところで実害はない。韓国は報復の連鎖を断ち切るために一歩譲って徴用工問題と関係のない輸出規制を撤回させようとするしたたかな外交戦略を展開しているように見える。アメリカの説得に応じた韓国が今度はアメリカを背に日本に輸出規制の撤廃を求める構図はみものである。
<徴用工問題の解決に立ちふさがる安倍首相>
昨年10月、韓国大法院が徴用工の訴えを認めて日本の加害企業に損害賠償を求めた。日本政府は「すべて解決済み」、「国際条約違反」と批判した。問われたのは植民地時代の非人道的奴隷労働を強いた日本企業に向けられたものだったが、日本政府が判決の前に立ちはだかり、外交問題に発展した。韓国の大法院判決を認めず、政府に圧力をかければ解決すると考えたのが最初の間違いだった。かつてアメリカ政府が圧力をかけて「伊達判決」を取り消させたように、日本も韓国を恫喝すれば従うと思ったのだろう。
欧米の力を背景に締結させ「日朝修好条規(1876)、日露戦争の勝利に乗じて「保護条約」を締結させ5年後に併合した経緯「日韓基本条約(1965)締結時には「37年間、日本は韓国に悪いことはひとつもしていない」とまで言い放った日本側代表の傲慢さが思いだされる。
新日鉄住金(2019年4月に「日本製鉄」と社名変更)に続き、三菱重工、不二越にも同様の判決が下された。しかし被告企業は安倍首相の陰に隠れ、問われた犯罪について何も語らない。
今回、従軍慰安婦問題、徴用工問題が再浮上して、日韓に横たわる懸案が一歩前進できる折角のチャンスに安倍首相は日韓条約を前面に押し出して「ちゃぶ台返し」を演じた。これまで宮沢、細川、村山、小渕の歴代内閣の努力によって築き上げられてきた信頼関係が根底から崩れた。日本人の善意を評価して日韓間の「和解のために」奮闘した朴裕河の努力も水泡に帰した。
高橋哲哉、浅井基文、宇都宮健児ら多くの学者、また日韓の法律家たちも共同宣言で補償請求の妥当性を認め速やかな解決を求めている。国際機関に提訴しても勝ち目のない日本政府はいつまでも非常識な主張を続けるつもりか。補償は「国際条約違反」でなければ「解決ずみ」でもない。韓国にはフェイク(ウソ・デッチあげ)を平然と言い放つ政府とそれに追随するマスコミ報道。日本は新たな危険な事態に突入した。
<「照射」事件と文議長の「天皇」発言>
徴用工問題が表面化した直後、自衛隊機が韓国艦船から「照射」を受けた事件が連日報道された。危機一髪、戦争の可能性まで報じられたが、いつの間にか議論が立ち消えた。自衛隊と防衛省の発表によって、危険な韓国の存在が大々的に報じられた。タカ派で知られる田母神元航空幕僚長が「領域周辺ではよくあること」と正直に述べたことや、韓国側の反論によって日本側の主張は急速に力を失った。煽るだけ煽った「嫌韓」感情だけが記憶された。この時もマスコミは政府に翼賛した。日韓関係は最悪。しかしそれ以上に最悪なのは日本の政治であり、日本人の精神状態だ。何故多くの韓国民が「NOアベ」なのか。それを「反日」と理解するようでは安倍首相の思うつぼだ。
文喜相(ヒサン)韓国国会議長の「首相か天皇が謝ってくれれば」という発言。
慰安婦問題解決のために語った発言に怒りが沸き起った。象徴天皇が国事行為として謝罪できるはずがない。しかし天皇の国事行為として認められるかどうかは別にして、一国の代表として首相には謝罪する資格は十分ある。しかし首相は天皇が謝罪を求められたことを非難するばかりで自分が謝罪を求められていることを無視した。
10億円を支払っても「謝罪はしない」。安倍首相の論理は破綻している。これでは意味のない金(税金)をドブに捨てたようなものだ。
「嫌韓」の根は深い。福沢諭吉、新渡戸稲造、伊藤博文を大切に懐に抱いてきた日本人は、失ってしまった私たちの記憶を、あらためて思いだす必要があるのではないか。
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