リハビリ日記Ⅳ ⑮⑯
- 2019年 12月 13日
- カルチャー
- 上野千鶴子小笠原賢二日記日野啓三籠池諄子阿部浪子
⑮上野千鶴子と籠池諄子
わが家にはチャノキが何本かある。白い花びらに黄色い中心部。ツバキの中心部と似ている。ホソバの木々の間から顔をのぞかせるチャノキ。歩行訓練をしながら、その花たちを見つめていた。自転車がとおる。〈さむくなってきたから、からだに気をつけてね〉〈ありがとうございます。あなたもね〉〈はい〉。毎朝、おなじ時刻にここをとおる、わかい男性だ。紺色の制服を着ている。工場勤めをしているようだ。
定期の受診日である。すずかけセントラル病院に行く。主治医の横山徹夫先生が〈家でも体操してください〉という。〈1月は血液検査なので、朝食はとらないできてね〉と、アシスタントの桐生さんがいった。
2階のリハビリ室による。理学療法士、T先生に拙文「リハビリ日記」最新号をわたす。
T先生は超多忙のようだ。患者が多くなったのか。療法士が減ったのか。
昼食は、友人のたまえさんと一緒にカフェ、fika112でとる。病院の北隣に新築されて、開店まもないカフェである。外壁が黒色のおしゃれな建物だ。もとは田んぼだった。
前の道路は、入院していたころT先生の指導で何回も歩行練習をした、思い出の通りだ。〈ぼくがそばについてるから、つえなしで歩いてみましょう〉。T先生がいつも以上に、たのもしく思えた。fika112の玄関で、ふと、T先生の言葉がよみがえったのだった。
オムライスを注文する。鈴木さんは、しとやかな美人のウェイトレスだ。ゆったりした体格の主人、牧野さんは、新津中学校を卒業している。わが同窓生である。マッシュルームのクリーム煮ソースがおいしい。新鮮な味わいだ。ふっくら炊きあがったライスもおいしい。米は地元の田尻産だろうか。食後のコーヒーもまろやかな味で、おいしかった。シェフの創意工夫とやさしい心づかい。店内も静かで落ちついている。また来たいと思うカフェだ。
たまえさんは、青春時代、信用金庫に勤めていた。毎朝4時起きで独学に励んだ、という話をはじめて聴いた。彼女の向学心に感動する。
近所のいとうさんが、ハクサイとピーマンを持ってきてくれる。数か月も音沙汰がなかった。無事を互いによろこびあう。自分ちの畑でとれた無農薬野菜だという。ハクサイもピーマンも、わたしの病後の不自由な手で小さく切れる。大麦工房ロアの「大麦ぞうすい」に1品添えてみよう。
大麦工房ロアは、足利市内の大麦を使って、「大麦ダクワーズ」などさまざまな食品を開発し、製造・販売する。薬学博士の池上幸江さんは、20年以上、大麦ご飯だという。「70歳を過ぎた今でも血圧、血糖値、ともに異常なし」と明かす。大麦には水溶性食物繊維が多く、免疫力の向上、腸内環境の整備などの効果があるようだ。池上さんの健康にあやかりたくて、高血圧から脳内出血を発症したわたしは、ロアの食品をとりよせている。
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上野千鶴子は、フェミニズムを研究する社会学者だ。東大の名誉教授でもある。社会的な地位もあり経済力もある。女性のなかでは格別めぐまれている。今年の東大入学式でのスピーチが全国の人に知られ、彼女は有名人になった。マスコミは「スター学者」と書いた。
彼女のスピーチの論点は、男女差別への抗議であろう。性差別についてはそのとおりだ。しかし女たちはさらに分断されて、階級差別のなかにおかれている。この社会構造について言及してほしかった。病者、貧者、弱者への視点がほしかった。教壇に立ったままの上から目線の論考であってはならないと思う。男女差別と「闘って社会を変えるという態度は次の世代に伝えたい」。この上野さんの主張には、もちろん賛成である。
上野のスピーチがネット上にとりあげられているころ、もう1つ、わが目をひいたコメントがあった。社会運動家、籠池諄子のそれだ。
彼女は、森友学園をめぐる補助金詐取事件で大阪拘置所に10か月、勾留されていた。出所したころ、籠池さんはこう話したという。9か月も接見が禁止されていた。独房で1人ぼっち。「ずっとカラスさんとしゃべっていた」と。
さらに、彼女はこう発言している。拘置所にはわかい女性が大勢拘束されていた。「安い賃金で働かされ、看守からひどい扱いを受けている。彼女たちの境遇を知ったので、彼女たちのことが今も気に掛かっています。彼女たちのために何かできないかと考えています」とも。
⑯日野啓三と小笠原賢二
金曜日は午後、デイサービスYAMADAに行く。ジム内に日差しがいっぱい。あったかい。通所者は10人。どの体操もたのしい。発声練習も、わたしの好きな種目だ。悦世先生が〈いい声。ばっちりね〉と、横合いから声をかけてくる。うれしい。わたしはその気になる。あ、い、う、え、お。声をだせば、のどの筋力がつよくなるそうだ。飲みこむ力もついて誤嚥をふせぐという。柔道整復師の増田先生がていねいに指導する。
ジムのおくでは、柔道整復師の安形先生・菅沼先生が施術をしている。仕事熱心な、生徒思いの先生たちだ。
お、お、お、お、お。〈声だし〉を10回つづけて、発声練習は終わるが、わたしは心のなかで〈声かけ〉と呼んでいる。ゆっくりデートしたくても、なかなかできない。その人にわが願いがとどけとばかり、遠くへ、熱く、わたしは美声を飛ばすのだった。
冬の青空に、小鳥たちの鳴き声がするどく、キーンキーンとひびきわたる。もう師走だ。これから3か月、浜松特有のつよい風がふくのか。身震いがする。
今月から、地域の民生委員がべつの人に変わる。2年余り、前任者はつづいた。高齢者に規制をしたがる人だなと思う。彼女が拙宅から帰っていくと、わたしは哀しい気持ちになった。民生委員は、傲慢であってはならない。わたしたちに親身に手を差しのべてほしい。今後、きょうだいも子どももない独居高齢者は、どんどん増えていくのだから。
彼女は最後に、市役所からの、民生委員だけが知りえた個人情報は、墓場まで守りきるといった。町民に不信をもたれないよう、どうか厳守してください。
民生委員は、どのように選出されるのだろう。市役所はどのように彼らを指導、指示しているのだろう。わたしは市役所に手紙と電話で問うてみた。返答はじつにあいまいなのだ。職員の勉強不足と不誠実を感じたものだ。
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作家の日野啓三は、1975年、『あの夕陽』(新潮社)で芥川賞を受賞している。小笠原賢二は、「週刊読書人」の文芸欄を担当する編集者だった。日野啓三は当時、書きあぐねていた。そんな日野へ、自身の体験、日常生活を描くことを、小笠原はすすめたという。小笠原からじかにわたしは聴いている。日野は『此岸の家』(河出書房新社)を描き、『あの夕陽』を描いて、新しい分野を開拓する。文芸評論家の平野謙が高く評価した。日野自身の初婚と再婚をとおして、男女の心理とその機微がたくみにに描写されているのだ。この2作が、平林たい子文学賞と翌年には芥川賞を受賞して、日野啓三は、小説家として本格的に活躍するのだった。
小笠原賢二は、わたしにとっても忘れがたい、大切な編集者だ。1979年、浜松の谷島屋から『鷹野つぎ著作集』全4巻が刊行される。わたしは読書人に、その書評を書かせてくれと手紙をだした。すぐに小笠原賢二という編集者から返事がとどく。拙評は「週刊読書人」に掲載された。指導教授の平野謙が他界したばかりのころで、わたしは途方にくれていた。すごく感激したのを覚えている。
1982年、小笠原の初の評論集『黒衣の文学誌―27人の〈創作工房〉遍歴』(雁書館)が刊行された。その出版記念会が神楽坂の料理屋でおこなわれる。40人ほどの出席者のなかに日野啓三もいた。おしゃれな人、スマートな人だった。スピーチのなかで日野は〈小笠原くんは穏やかな人だ〉といった。小笠原は出席者全員の名前をフルネームで紹介した。記憶力のいい誠実な人だと思った。数年後、小笠原は独立して、文芸評論家・短歌評論家としてスタートしている。
2人はもういない。この日が縁で、わたしは、初対面だった日野啓三にその後、見えないところでひきあげられている。忘れてはならない、大切な人だ。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
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