旧ユーゴスラヴィア戦争をめぐる、「ハーグ戦犯1号の日記」(3)
- 2011年 12月 21日
- スタディルーム
- ドゥシコ・タディチ岩田昌征
旧ユーゴスラヴィア戦争をめぐる、「ハーグ戦犯1号の日記」(2)
http://chikyuza.net/archives/17644より続く
(以下訳者=岩田コメント)
この文章には紛争当事者達が実名で描かれている。とりわけセルビア人の著者と最初は協力関係にあったらしいが、最終的に彼の有罪証人となったコザラツのムスリム人町民達が実名で登場していた。しかしながら私の紹介訳文ではA、B、C、Dとしてある。ボスニア戦争の当事者ではない私達が「立証されないまま」(本書序言、P,6)戦犯とされた著者の無念や紛争の具体的な実情を知る上で、必ずしもすべての実名が必要であるわけではない。
ジョン・ヘーガン著『戦争犯罪を裁く(上):ハーグ国際戦犯法廷の挑戦』(NHK出版)の人名解説にドゥシコ・タディチについて「ゴールドストーンが首席検事を務めた時期に、ICTYで最初の被告人となる。証拠をめぐる問題があったにもかかわらず、人道に対する罪で有罪判決を下された」(P,xxvi)とある。本書『ハーグ囚人ナンバー1の日記』序言で弁護士ヴラディミル・ボジョヴィチが書くように、「タディチ事件に推定無罪の前提は不在であった。すべてはあらかじめわかっていた。手続きは形式にすぎなかった。有罪判決が規則であり、否定しがたく確認された証拠への判決根拠性は極度の例外であった。」(P.6)かくして、彼の実名と映像は、欧米市民社会のマスメディアで全世界にばらまかれた。
ドゥシコ・タディチの主張に沿って、日本の小電子メディアに—欧米マスメディアに比して、億兆分の一にすぎないとは言え—ムスリム人町民を偽証者として実名をあげることは、欧米の文明的市民社会のオリジナルな知的高慢をミニ規模で模倣することになろう。日本的常民社会の住民である私は、義理と人情のエッセンスの命ずる所により、ここでは実名にかわって、記号A,B,C,Dを用いた。偽証罪についても推定無実で行くのが自然であろう。
(コメント終わり)
6,矢は放たれた
民族主義的挑発は益々ひんぱん、かつ深刻となった。それは、あらゆる所で見られ、さらに短い間だがコザラツの若者達のたまり場となっていた私の喫茶店「NIPPON」でも見られた。立派な内装とビデオ・カセットから流されるモダンなポップ音楽が若者を引き付けていた。ムスリム人が最も多かった。不思議ではない。コザラツの人口1万人のうち98%がムスリム人だった。商売のため、家族教育のため、またスポーツ面における私の威信のため、私は、店内では若者達が楽しく遊ぶように、政治的・宗教的議論は別の時間に別の場所でやるように見守っていた。
1990年8月5日まではそんな状態が続いていた。(P.21)その日、最初の脅迫状を受けとった。「コザラツ青年ムスリム人」組織の署名があった。次のように書かれていた。「ドゥシャン・タディチよ、自分と家族に良かれと望むならば、三ヵ月以内に家を売って、コザラツから出て行け。コザラツは「ヴラフ」(セルビア人の侮称:岩田)から浄化されねばならぬ。私達が貴方達を殺さない方が良い。これは、特に、チェトニクの民族主義者たるお前にかかわることだ。出て行かないならば、家を焼き、お前と子供達を殺すだろう。生き延びるチャンスはない。お前から「ジハード」(聖戦)が始まる。私達は待っていた。これ以上もはや待てない。・・・。コザラツは純粋にムスリム人の町であらねばならない。ジハード、断食、メッカへの巡礼、洗浄の規律は、信仰者の義務である。しかし最も重要な事は、不信仰者「ヴラフ」の根絶である。」
「コザラツ青年ムスリム人」の脅迫を真剣に受け止めた。矢は放たれ、的に向かって飛んだ。彼らが意図を実行しようとしたら、私はどうしたらよいのか、と思案した。私の家はコザラツの中心にあった。まわりの隣人達は全部ムスリム人だった。襲撃されたら、生命を守ることも家族を安全に避難させることも難しい。まことに悪夢であった。時をおかず、脅迫状の現実的効果を感じ取った。昨日までの常連客が「NIPPON」を避け始めた。私、私の家族、そして私の店が「アリアの党」(アリア・イゼトベゴヴィチ設立のSDA民主行動党:岩田)の集会でしばしばテーマとなっている事を友人達から聞き知った。私達をコザラツ心臓部にあるセルビア人要塞であると見なしていた。あらゆるコストを払っても、除去しなければならない。続く日々、店の売り上げが大きく低下していたので、従業員をドラスティックに縮小した。少人数の客なので、私一人で応対できた。
1992年冬のある夕辺起こった出来事は不吉の兆しであった。その夕刻、十人の客達が来ていて、大きなガラス窓近くのテーブルに座って、コザラツで最も人通りの多い通りをながめていた。「民族的に多様な」人々で上機嫌であった。ムスリム人の隣人バリチとセルビア人の女性アナがビデオ・テープの音楽に合わせて踊り出した。二人のダンスはただただ素敵であった。夜がふけた頃、見知らぬ男が店に闖入して来た。かなり飲んでいた。そして、私に向かって横柄に言った(P.22)、「お前はムスリム人にアルコールを出さない人物というそうだが・・・」。(以下、P.23の6割強がムスリム人酔客とタディチの間のトラブル的応答、省略:岩田)
彼は出て行った。数秒後、喫茶店の大きなガラス窓が割られた。・・・。私は外へ飛び出して、乱暴した人物を追った。追いついてみると、一寸前に店で私を挑発したあの人物であった。つかまえて、店の中へ連れ込んだ。彼は多くの傷を負っていた。私達のまわりに血のついたガラス片が散らばっていた。隣人のバリチに彼の傷の手当てするように頼んだ。出血多量で店の中で死ぬのではないかと心配だった。私自身にも手当てが必要だった。同夜、挑発者はプリェドルの病院へ搬送され、必要な医療が施された。(P.23)病院から出てくるや否や、彼は次のような嘘をまき散らした。「タディチは、何人かのチェトニク達の助けを借りて、力づくで私を店の中へ引きずり込み、私の両腕や身体にナイフでセルピア正教の十字架やほかの印を刻み込んだ。」
7危険な噂
彼の語りはポトコザリェをおばけのように徘徊し出した。口から口へ、人から人へと伝わって、とうとう完全な真実であると受け容れられてしまった。噂を否定しようとしたが、無駄だった。事件の目撃者だった客達に呼びかけたが無駄だった。矢は放たれて、的に向かって走ってしまった。「コザラツ青年ムスリム人」組織は、「NIPPON」に足を踏み入れる者すべてに報復すると脅かした。私は完全に孤立していた。いやでもおうでも私をコザラツから追放する必要があった。ムスリム人によるこの地域の民族浄化プロジェクトであった。
私は、BiH(ボスニア・ヘルツェゴヴィナ)のセルビア人民がセルビアとの共通国家に留まる事を表明した住民投票の組織者の一人が私であった事を決してかくしていなかった。それ故にSDA党員達の非難にさらされるであろうと自覚していた。しかしながら、コザラツの住民、私の隣人達、知人達、そして友人達がBiH戦争勃発に関する、そしてまたオマルスカ、ケラテルム、そしてトルノポリェの諸収容所設置に関する主要犯罪者であると私を殆ど全員一致で名指すであろうとは予想もしなかった。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔study429:111220〕
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