旧ユーゴスラヴィア戦争をめぐる、「ハーグ戦犯1号の日記」(2)
- 2011年 12月 19日
- スタディルーム
- ドゥシコ・タディチ岩田昌征
旧ユーゴスラヴィア戦争をめぐる、「ハーグ戦犯1号の日記」(1)
http://chikyuza.net/archives/17391より続く
4,戦争へ
省略
5,和平ミッション
ある日、突然、私の先生だった隣人のAが喫茶店「NIPPON」にやって来た。ユーゴスラヴィア志向でセルビア人に対して常に寛容で友好的な人物であると見なされていた。私達のオプシティナのセルビア人との平和を今もなお望んでいるムスリム人がコザラツ町民の間に多くいると長い時間かけて私に説得した。明々白々なことであるが、Aは、全力で平和を求めており、衝突する両民族間に存在する問題を妥協で解決できると信じていた。状況は重大であった。コザラツとプリェドルの政治権力間に長い間正常なコミュニケーションが不在であった。現場の情勢が益々尖鋭化しているにもかかわらず、セルビア人はムスリム人SDA(民主行動党)との一切の会話を拒絶していた。
私がプリェドルのセルビア民主党(SDS)の初発からの党員であって、全権を掌握していた当時の党議長と特別に良好な関係にあった事は、万人に周知であった。Aは、MZ(地域共同体)コザラツの代表団とプリェドルのセルビア人権力との会談をもう一度開けるように努力してくれと頼み込んだ。話し合いの末に、会談の手配を承諾した。但し、以前の失敗した交渉に参加していたSDA党員達が今度の代表団に参加しないと言う条件をつけて。Aは、この条件に即座に賛成した。私は、同夜、SDS議長のシマ・ミシコヴィチを電話で呼び出した。私達は、コザラツの私の家で会った。ミシコヴィチの確信する所では、コザラツの政治的親分衆はサライェボの中央本部からの指示だけに従うので、新しい交渉も新しい結果をもたらさないだろうと言う。新代表団にはムスリム人SDAの党員達は出てこず(P.19)、私達の町の普通の無党派住民だけが出席するのだからと根気よく説得したので、ミシコヴィチは、オプシティナ幹部達との会合を設定する事に同意してくれた。
二日後、プリェドルにただちに来るように呼び出された。当時の議長ミロミル・スタキチと彼の協力者達と私とは、MZコザラツの代表者達との新しい平和会談の正確な日時に関する具体的合意に達していた。戦争が勃発する10日前にプリェドルのオプシティナ役所で両代表団の会談がもたれた。私とドラギチェヴィチは、不愉快な驚きに見まわれた。私達の町の代表団の中に好戦的なムスリム人SDA党員の過激派の姿が数人あった。SDA党員でセルビア人との全交渉に以前参加していたメミチ・イリヤズもいた。彼等は、両者間の更に大なる尖鋭化を決定的にもたらしてしまった。ムスリム人政党議長メドゥニャニンが平和的解決発見のあらゆる努力を無に帰する目的で、意図的にメミチを送り込んだのであった。セルビア人権力の幹部達との会合で、その日、メシチは、執行院議長ミラン・コヴァチェヴィチ博士と警察署長シマ・ドルリャチャとの舌戦に再び突入した。
この衝突は、私達の地域へ戦争が波及する事を平和的に阻止しようとする私たちの努力すべての終焉であり、かつまた、人為的に創造された「友愛と団結」のスローガンの下で私達が生きてきた長期的誤謬の終焉でもあった。数日後、メシチは、私達の町から家族と一緒に逃げ出して、更にボスニアをも見捨てて、最初の飛行機でバニャルカからウィーンへ飛び立って行った。そこで、安全な遠距離から事態の進展を見守り、戦争の終結を待っていた。コザラツの危機管理本部の他のメンバーの多くは、1992年夏コザラツにおける流血衝突の最中に倒れた。そんな人達の中にはムスリム人SDAの戦闘的議長ベチル・メドゥニャニンもあった。
生き延びた平和交渉参加者達は、後になって、新設された法廷の代替しがたき証人となった。私、ミラン・コヴァチェヴィチ、ミロミル・スタキチ、タリチ、そして他のセルビア人等が座っていたハーグ法廷の被告席の前を虚偽の証人の華麗な一団がパレードした。かつての平和交渉の出席者達、私の隣人達、そして私の先生。A、B、C、D、その他は、私と他のセルビア人達に対する起訴状に有利になるように嘘をつくよう巧妙に指示されていた。(P.20)
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔study428:111219〕
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